オクトパスの夢と七番目の腕

福田 吹太朗

オクトパスの夢と七番目の腕


 町の一角のそのまた一画に、そこそこの広さの更地があった。

 元々は駐車場として使われていたものが、今では使われなくなったらしい。

 その更地の上に、一軒のプレハブ小屋が建っていた。

 プレハブにしてはある程度の大きさがあり、骨組みも意外と頑丈でしっかりしていたのだった。

 他に何もなく、それなりの広さがある更地の上に、一軒の小屋のような建物がポツンと建っている光景は、何だか少し異様でもあったのだが、その外見の雰囲気としては、取り立てて怪しいようにも見えなかったのだ。

 大きな看板らしきものは出ていなかったのだが、建物の出入り口の端っこの方に、決して目立つことはなく、「アトランティス研究所」などという文字が刻まれていたのだった。

 一人の若い男がプレハブの建物の中へと入っていった。縁無しの眼鏡をかけた痩せた男だった。

 建物の中には、すでに二人の人物がいて、無数に並んだ水槽やビーカーの前で、レポートのようなものを書いたり、顕微鏡を覗き込んだりしていたのだった。

 縁無し眼鏡の男が中へと入ってきた。

「いやあ、今日は風が強いっすね。思わずジャケットを飛ばされるかと焦りましたよ」

 と言いながら、早くもそのジャケットを脱ぎハンガーにかけて、白衣へと着替えていたのだ。

 顕微鏡を覗いていた男が顔を上げると、

「風見だから風が強いってか? なあ、風見ちゃん」

 レポート用紙に何やら必死になって書き込んでいた、やはり白衣の若い男は、

「鳥岡さあ、朝からダジャレはやめてくれよな? 気が滅入るからさあ」

 などと苦言を呈すると、鳥岡と呼ばれた男は、

「いいじゃねえか。俺の勝手だろ? な、風見ちゃん」

 風見と呼ばれた男はやや戸惑っていたのだが、レポートを書いていた男に向かって、

「昨日の続きからでいいですか? なんか中途半端なところで終わってしまったもので」

「ああ、頼んだよ? 今度風が強かった時は何も言わない方がいいぞ? 鳥が飛んでる時に言うんだな」

「了解っす」

 鳥岡は何かを言おうとしたのだが、その瞬間に一人の女性が建物の中へと入ってきたのだった。

「はる……じゃなかった、土井くんはいる?」

 鳥岡は自分だけ時間が静止して、手が止まっていたのだが、その若い女性に向かって、

「土井くんねえ。のりちゃん今日もきれいだね。おい! お前の彼女が来たぞ」

 その女性は、若干中へ入るのを躊躇っていたのだった。

 そこへ今度は別の、若い女性が姿を現したのだ。

「アラ? 皆さんお揃いってワケね。あら典子ちゃん、遠慮してないで中に入って? さあ、ほらほら」

 典子は中へと入るなり、

「ありがとう、恵ちゃん。今日は差し入れを持ってきたのよ? ねえ、何だと思う?」

「その香りからして、肉まんだね」

 鳥岡がそう言うと、典子は、

「三分の一は正解ね。あとはハズレー」

「じゃあ、残りはあんまんと、もしかしてピザまんかな?」

 鳥岡の当て推量の推理に、典子は心の中を見透かされた気がして、不機嫌になりながら、

「もうっ、理系の頭いい人たちは、これだから面白味がないのよねぇ……何? 確率だとか計算とか、そっち系だと全部当たっちゃうわけ?」

 恵と呼ばれた女性は、典子をなだめるように、

「まあまあ典ちゃん、そう朝からカッカしないの」

 すると建物の一番奥から、レポート用紙を書き終えた白衣の男が、ようやく顔を出したのだった。

「よう、誰かと思えば。のり……瀬田さんじゃないですか」

 すると今の言葉を聞いた恵が、不平不満をぶちまけるかのような口調で、

「なんで付き合ってるのに、苗字で呼ぶのさ? 下の名前じゃだめなの? ねえ、土井くんてば」

 土井は真剣な表情で、

「桑名さん、それはさぁ……だって今は仕事中だから」

 その言葉には誰も、反論は出来なかったのだ。



 この研究所内にいる者たちは、もちろん全員が顔見知りなのだった。

 土井 晴夫がここの一応責任者であり、鳥岡 努は大学時代の同級生、風見 研吾は大学での繋がりはなかったのだが、以前からの知り合いで、彼らからは三年後輩なのだった。

 女性二人のうち、最後に現れた、桑名 恵もこの研究所の研究員であり、土井とは中学時代の同級生なのだった。彼女は土井や鳥岡とは違う元医大生で、彼らに誘われてここに勤めているという訳なのだった。

 あともう一人は、瀬田 典子といい、土井と現在付き合っているのだ。

 だが彼女だけが、理系でも医学生でもなく、二人が出会ったきっかけというのが非常に変わっていて、みんなで飲みに行くたびに話題となるのだが、二人とも科学が大好きで、国立科学館にお互いが通い詰めているうちに、偶然知り合ったという事情があったのだ。

 彼ら五人の目の前には今、被せられたシートを外された、巨大な水槽が姿を現していた。

 そこに入れられていたのは、アウグストゥスという名の、一匹のタコなのだった。

「ねえ、今日のアウちゃん、少しだけご機嫌斜めなんじゃない?」

 桑名がそう言うと、鳥岡が悩ましげな表情で、

「そりゃタコにだって、機嫌がいい日と、悪い日とがあるだろうさ」

 しかし風見は、

「そうでしょうか。僕にはアウちゃんは、いつもと変わらないように見えますが?」

 すると桑名は、

「まだまだだなぁ、風見くんは。うん、まだまだなのよねぇ」

 と、たった三年だというのに、何年も先を生きている言い方だったのだ。

 水槽の中のタコは、四方八方に触手のような腕を伸ばしながら、けれどもほとんど体は動かすことなく、まるでじっと佇んでいるかのようだった。

「タコって、普段何考えているのかしら?」

 桑名がそう言うと、鳥岡は、

「何も考えてないんじゃない? タコだしな」

 桑名はちょっとだけ意固地になりながら、

「そんなことはないでしょ。タコだって、少しぐらいは考えるでしょ」

 鳥岡も負けじと応戦し、

「タコは所詮タコだって。だって、タコなんだから」

 などと、訳の分からない自己流の理論を展開させていたのだった。

 とそこへ、建物の入り口から、やや大柄な男性が一人入ってきた。

「やあどうも。海原さん」

 風見がそう言うと、その海原という人物は、

「やあ、お早う。今朝のアウちゃんのご機嫌はどうだい?」

「あ、うなさんお早うございます。それなんですけどぉ、今このバードマン男と、タコの知性について考えていたんですよ? どう思います?」

 桑名は必死に、海原を仲間に加えようと躍起になっていたのだ。鳥岡は自己弁護するしか抗う術はなかった。

「知性ってほどの話でもないだろ? ただタコだから、なんにも考えてはいないんじゃないの? って話だったじゃん」

 海原は顎に指をあてながら、

「うーん、そうねえ、タコが何かを考える。それって、もしそうなるとやっぱり、我々と同じ知性を持っている生き物、ってことになっちゃうのかな?」

 海原 大助は、この研究所のいわばパトロン的な存在であり、土井たちからは五年も先輩なのであった。

「実はタコの足ってよく言うけれど、あれは腕なんだよ?」

 などと豆知識を披露すると、

「とてもお詳しいんですね」

 と言いながら不意に、パイプ椅子に腰掛けていた瀬田が立ち上がったのだった。

「私そろそろ、おいとましようかな? 何だかお邪魔みたいだし」

「あ、典ちゃん、お早う」

 海原がそう言うと、典子も、

「海原さん、お早うございます。差し入れを持って参りましたので。さて、一体なんでしょう?」

「うーん、ピザまんかな?」

「何で分かったんですか? ここの人たちって、変な能力とか、持ってません?」

 海原は謙遜し、

「いやいや、何となく匂いがしたから。僕って案外鼻がいいんだよ」

「なんだ。今日はたこ焼きと迷ったんですけど、今の話を聞いていて、次回からは候補からも外すことにしますね」

 と、彼女は去って行こうとしたのだった。

「え? もう切り刻まれて調理されちゃったものは、仕方ないんじゃない?」

 鳥岡は相変わらず、謎理論を展開させていたのだった。

「じゃあ、皆さん。頑張ってください。はるちゃん……土井さんも」

 土井はその時、顕微鏡を覗いていたのだった。なので手だけを素っ気なく振り、

「ああ、じゃあね」

 彼女は去って行った。何だか名残惜しそうに。

 すると土井のすぐ近くにいた桑名が、誰にも聞こえないような小声で、

「ちょっとはるちゃんてば」

「何だよ」

「ちょっといくら何でも彼女に冷たいんじゃない? もっとこう、何ていうか……」

 そこでタイミング悪くなのか、海原がチームリーダーの土井に声を掛けたのだった。

「土井くーん。例のレポートは、出来上がっているのかい?」

 土井は先ほどから必死になって書き込んでいたレポート用紙を、いったん奥に取りに戻ったのだった。



 次の日は日曜日だった。

 土井、瀬田のカップルに加えて、仲の良い桑名と鳥岡も一緒に連れ立って、四人で近所の見晴らしがいい公園へと繰り出したのだ。

 そこはちょっとした高さの、丘の上にあった。

 四人が丘の上目指して歩いていると、桑名が鳥岡に向かって、

「何であんたまで一緒なのよ。私はほら、典子ちゃんとも土井くんとも仲がいいし、まあ、当然と言えば当然なんだろうけど、あんたは何なのさ」

 鳥岡はやけに嬉しそうに、

「俺はほら、土井とは大学の同期だし、典子ちゃんとだって、な? 最近はよく話すんだぜ?」

「ほんとに? 迷惑がってるじゃない。典ちゃん、嫌だったら嫌って言ったほうがいいのよ?」

 桑名が瀬田に向かって助け舟のつもりなのか、優しいパスを出したのだった。

 瀬田は言葉にやや詰まりながらも、

「私はほら、みんなと仲良くしたいし、多ければ多いほどいいのよ? 休みの日はみんなでこうしてわいわい、集まって楽しんだほうがいいじゃない?」

「だよねー? 良かったぁ」

 鳥岡はホッとしている様子なのだった。

 やがて目の前には丘の頂上が、パノラマのインスタレーションみたいに見えてきたのだ。

 一番高い場所に公園があって、四人が徐々に近付いていくと、家族連れやカップルなどが数組いたのだった。

 四人は公園の周りをぐるっと囲む柵から身を乗り出すようにして、そこから一望できる町の風景を堪能していたのだった。

 そんな時、桑名がふと言ったのだ。

「ねえ? この風景を、アウちゃんにも見せてあげたかったわね」

 すると早速鳥岡が、

「お前ねぇ、休日の時ぐらい、せめて仕事のことは忘れろよな」

 と、難癖をつけていたのだった。桑名は言い訳でもするように、

「だってさ、せめてこの風景を……あれ?」

 彼女たちの視線の先では、つい今し方までくっきりと見えていたはずの町やその他の美しい風景が、もやにかかって視界不良となり、突然覆い隠されたかのように見えなくなっていたのだった。

 典子も不思議がり、

「今まで見えていたのにね」

 土井などは鳥岡のせいにして、

「お前が文句言うからだぞ」

 しかし鳥岡はあくまでも抵抗して、

「俺が悪いのか? 何でそうなるんだよ。これはきっと……高い位置で我々のことを見ている崇高なるものがいて、ちょっとだけ悪戯心で、いきなり雲を出現させたという訳なのさ」

 桑名はちょっとだけ反抗心が芽生え、

「何? 神様が私たちのことを、見ているとでも言いたいわけ?」

「そうじゃないけどさ……そうじゃないんだよ。俺は神とか仏とか、そういうのは信じない主義なんだ」

 桑名はまだどこか不満そうだった。

 すると土井が、

「まあ、あれだろ? この星がなぜか急に駄々を捏ね始めて、悪ふざけをしたくなっただけなんじゃない?」

 桑名も土井に何か言われてしまうと、それ以上の反論は出来なくなってしまうのだった。

 それから一時間あまりその頂上付近に彼らはとどまった後、丘を下って別の場所へと移動することになったのだ。

 下り坂の先頭を、土井と瀬田の二人が手を繋ぎながら、いかにも付き合ってます、といった感じでごく自然に歩んでいたのだ。

 それを背後から、白けた雰囲気で並んで歩く鳥岡と桑名の姿があったのだった。

 四人はその後すぐ近くのおしゃれなカフェレストランへと向かい、そこでは楽しい休日の午後が繰り広げられたのだった。



 瀬田 典子は普段は街の小さな料理店で働いていた。

 パスタがメインだったからなのか、まさか名前で意図的に選んだわけではなかったのだろうが、店の名前は、「オクトパスタ」などというのだった。

 その日は火曜日で、大体この店では毎週水曜日か、週末に混むぐらいで、あとは終日暇な時間が多かったのだ。

 店内では男性の客が、たった一人でメニューを見て選んでいるところなのだった。

 たった今の時間帯から出勤したばかりの瀬田は、慌ててオーダーを取りに行った。

「ご注文はお決まりでしょうか? ……あれぇ、野山さんじゃないですか!」

 それは野山という、例の仲良し四人組との共通の友人なのだった。

 野山は一見穏やかな顔つきをしていた。

「どうも。ちょっと朝メシを食べ損なってしまったものだから」

 瀬田は周囲をキョロキョロと確認してから、

「実はこの時間帯は、ものすごーく暇なんです。いつでも朝メシを食べ損なってくださいね?」

 野山は笑いながら、イカスミのパスタを注文したのだった。

 野山は光一郎という名前だったが、なぜか長男ではなかったのだ。初めはみんなからその点を突っ込まれたり揶揄われたりもしたのだが、そのうち誰も話題にはしなくなった。

 彼はパスタをあっという間に平らげると、今度はパンケーキを注文したのだった。

 瀬田は料理を運んだ後、野山に向かって、

「光一郎さん、最近研究所の方には、顔を出さないですね。もしかしてアウちゃんにそっぽ向かれたとか?」

 野山は早くもナイフとフォークを持ちながら、

「いや、そういうわけじゃないよ。ただ何となく、足が遠のいているだけだから」

「そちらの方も、お待ちしておりますので」

 瀬田が頭を下げると、野山は快活そうにまた笑って、

「あっちは何も食べさせてはもらえないからね。まさかアウちゃんを食べる訳にはいかないでしょ?」

「確かに」

 瀬田も笑いながら、いったん店の奥へと引っ込んだのだった。

 それから三十分あまり経過したのち、野山は立ち上がるとお会計のためレジの前に進んだのだった。

 真っ黒いものを歯につけたまま、野山は笑顔で瀬田に、

「じゃ。もし土井くんたちに会ったら、よろしく言っておいてね?」

「はい。研究所のほうも、こちらのお店も、お待ちしておりますので……!」

 カランコロンというお定まりのベルを入り口のドア付近で鳴らしながら、野山は食べすぎたというふうに、腹をへこませる格好で出て行ったのだった。



 アウちゃんことアウグストゥスが厳重に、しかも丁重に水槽の中に入れられているのには訳があった。

 ここ二、三年の短期間で、主に水中で暮らす生き物の大量死が相次いだからなのである。

 特にタコなどの軟体動物にその現象が顕著なのだった。

 軟体動物はかなり多く生息してはいたものの、(二枚貝や地上ではカタツムリやナメクジなどもそれに含まれるのだった)この現象がもしこのまま続けば、絶滅してしまう恐れだってあったのだ。

 この一見プレハブ造りだが機材等はしっかりと揃っている施設は、とある財団が建設したものだった。

 そしてこの研究所で働いている面々も、その財団から給与を得ていたのである。

 なので彼らにかかる期待は大きく、一応研究員であった海原を含む五人には、何としてもこれらの生物の絶滅を回避しようとの、使命感のようなものがあったのだ。

 その日は水曜日だった。

 研究所内には、土井、鳥岡、桑名、風見のいつもの四人がいて、雑談で手が止まるのは彼らの悪い癖ではあったのだが、それ以外の時間は真剣に自らに与えられた課題に取り組んでいたのだった。

 そのほかにも彼らが研究していることがあった。

 タコの社交性についての研究だった。

 タコには知性があり、記憶力もよかった。かねてからの研究により、決して単独で行動する生き物とは限らず、社会性があることが確認済みなのであった。

 彼ら研究員は、これらの問題についてもさらに追求を進め、幅広い研究結果を提示するのが目標だったのである。

 彼らにはローテーションによって、それぞれに割り当てられた課題というか、担当があった。

 もちろん首尾一貫して各自が取り組んでいるテーマもあったのだった。

 だがそれ以外のことは、それぞれが順繰りにその日やるべきことに取り組んでいたのである。

 その日土井は電子顕微鏡を真剣に覗いていた。彼の今現在の担当は、海水の中に潜む、タコにとっては危険となり得る微生物を探すことなのだった。

 そして時刻にしたら午前十一時半頃、急に大声を張り上げたのだ。

「あれ? あれれえっ……?」

 他の三名が一斉に彼の方向を見た。

 土井の声は少しだけ震えていた。

「これって……もしかして、もしかしたらなのでは?」

 土井が皆の方を振り向いた。

 「アトランティス研究所」内は、午後は蜂の巣をつついたように、大騒ぎとなっていたのだった。



「プランクトンです。間違いはありません」

 土井をはじめ、研究所のメンバー全員が、固唾を呑むようにして顕微鏡の周りに集まっていたのだ。

「どういうことだね? 説明してもらえるかね?」

 後から連絡を受けて現れた海原が、血相を変えて、チームリーダーの説明を求めたのだった。

 土井は解説を始めたのだ。

「……つまりはこういうことです。このプランクトンは大型、小型問わずある種のエビに捕食されます。このプランクトンを食べたエビを、さらにそのエビを食べたタコなどが例の奇妙な病気を発症しているのではないでしょうか」

「そのプランクトンが問題なのか?」

 海原が聞くと、土井は、

「いえ。根本的な問題は別にあります。ですが見てください。このプランクトンは本来の姿形から変形し、おまけに変色してしまっています」

「原因は突き止めたのかね?」

 土井はそこで、自信ありげに、

「特定はまだですが、おそらくは、ある種のウィルスではないかと」

「ウィルスかね……それが原因で……」

 すると突然、タコの入った巨大な水槽がほんの一瞬振動したのだ。

 皆がアウグストゥスの前に集まった。

「何が起こったのかな?」

「さあ……」

 鳥岡は雛鳥みたいに口を開けたまま、何かをひたすら待ち侘びる顔になっていたのだ。

 風見が恐る恐るといった感じで、口を開いたのだった。

「それでしたらまずは、そのプランクトンから調査を開始したらよろしいのでは?」

「それもそうよね」

 桑名も同調したのだった。

「そうしましょう。まずはプランクトンの異常から原因を突き止めないと」

 リーダーの一言で、全員が動き出したのだった。

 海原もやや安心した様子で、

「それならいいんだ。原因の原因が、分かった訳だからね」

 皆が作業を再開し、それぞれの持ち場へと散って行った時にふと、桑名がアウちゃんの入った水槽を見て、

「それにしても……彼は何を言いたかったんだろうね?」

 鳥岡が自分の持ち場で、俯いたまま、

「さあね。俺が聞きたいぐらいだね」

 結局その日の作業はそれからも粛々と進み……気が付くと真っ赤な夕焼けが、研究所の窓からも見えていたのだった。



 野山はその日も、「オクトパスタ」にやって来ていた。

 今回はボンゴレパスタなどを注文していたのだ。

 瀬田もその日は出勤の日で、遅刻しそうになったので慌てて着替えてホールに出ると、そこで数名のお客に対応していたのは、氷室 雪という、まだ二十歳になったばかりの女性の店員なのであった。

「お早うございます、光一郎さん」

「お早う、典子ちゃん。今日も会えて嬉しいよ」

「ありがとうございます」

 すると早くも調理されたパスタが、野山の元へと運ばれて来たのだった。

 それをトレイに載せて来たのは、氷室なのだった。

「あら? お二人は、お知り合いですか?」

 などと言いながら、テーブルの上にきれいに並べていたのだ。

「そうなのよ。共通のご友人なの」

 瀬田がそう言うと、野山は、

「でもさ、典ちゃんさあ、僕最近思うんだよねぇ。僕らって本当に、この世に存在しているのか、って」

「えっ? それって、大丈夫なのですか?」

 野山はフォークを器用に使い、パスタを食べながら、

「何ていうかこう……僕と土井くんたちもさあ、最近会った記憶が徐々に薄れていってるっていうか、まあ、なんて言ったらいいんだろうね」

 と言った後、パスタを口の中へと運んでいたのだ。

 氷室がそれを聞いて、

「あ、それ分かります……! 実存? て言うんですかね。私も最近時々、そういった感覚に陥ることがあるんです」

 氷室は現在、哲学科の大学生なのだった。

 また小難しい話を、などと典子は正直思ったのだが、よくよく考えてみると、何だか自分にも思い当たるフシがあるのだった。

 しかしそんなことはあるはずはない、と自分自身に言い聞かせ、ホール裏からホールへと、また戻ったのだ。

 野山はもうすでに食事を終え、席を立とうとしていた。

 瀬田典子は野山に向かって、

「またお店に来てくださいね? あ、あと研究所のほうにも」

 野山は財布を取り出しながら、

「ああ、まあ、僕がまだ、存在しているうちにね」

 などと冗談を言い、笑っていたのだった。

 野山が店を出て行き、瀬田がテーブルを片付けていると……目の前をタコのパスタ漁師風、などという小洒落た名前の一品が、皿に載って通り過ぎていったのだ。



 その日の研究所は半ば静寂に包まれていた。

 風見は海水のサンプルを採取するため近くの海まで出かけており、海原は地方に出張、鳥岡は大変珍しいことに、風邪を引いたとのことなのだった。

「バカでも風邪引くのね」

 などと桑名は、ここぞとばかりにいない人間の悪口を言っていたのだが、それでも二人っきりの空間には、どこか謎めいたような、静止した錯覚を覚える間がたまに訪れるのだった。

 研究所の中では、普段耳にしたことのない、あるいはしてはいたのだろうが、気にも留めなかった音、ゴボゴボだとか、カチャリカチャリ、さらにはブーンという、何かが低く唸るような音までが響いて聞こえていたのだった。

 そんな時、桑名が土井に向かって、唐突に口を開いたのだ。

「ねえ、私の気持ち、分かるんでしょ?」

「私の気持ち? なんじゃそりゃ」

「何よ、分かってるくせに」

「分かんないよ、超能力者じゃないんだから」

「もう! ……まあいいわ」

 するとそこに、タイミング良くなのか悪くなのか、瀬田が入り口から姿を現したのだった。

「あのう……こんにちは。お邪魔でしたでしょうか……?」

 土井は彼にしては珍しく、入り口付近まで恋人を出迎えたのだ。

「そんなことはないよ。さあ、入って入って」

 瀬田は彼氏にうながされるままに、その計器類や水槽の音だけが響く空間へと、まるで蛸壺に引き寄せられるように、入っていったのだった。

「どうしたの? 何かあったの?」

 彼女が疑問を抱くのも当然なのだった。普段はここではあれだけ冷淡だったはずの人物が、今では突如として暖かい人柄に変貌していたのだから。

「典子ちゃん、こんにちは」

 桑名がいつものように声をかけてきたのだった。

 その時突然、アウちゃんの入った水槽で、ゴボッという鈍い音がしたのだ。

 そして瀬田の携帯が鳴った。彼女は、「ちょっとごめんなさい」と言いながら、一度建物から出て行ったのだった。

 それからすぐに戻って来たのだが、

「急にシフトに入ってくれって。店長が。私、行かないと」

 土井はいつもの土井に戻っており、やや冷淡な口調で、

「ああ。頑張ってね」

 そうして瀬田は、あっという間に去って行ってしまったのだった。

「行っちゃったわね。あなたの彼女」

「一体どういうつもりなんだよ。気持ち? なんの気持ちだよ」

 土井は怒りの口調でそう言ったのだ。しかし桑名は決してめげることはなく、

「分かってるくせに。分かってるんでしょ? 私の気持ち」

「分からないね。僕にはサッパリだよ」

 それからその研究所では、計器類の音だけが等間隔で聞こえる中、二人の研究員は辺りがすっかり暗くなるまで、課題と研究に明け暮れていたのだった。



 桑名は悩んでいた。おまけに後悔してもいたのだった。

 あんな馬鹿なことを言ってしまった自分に、腹が立っていたというか、喪失感のようなものに襲われて、自分が自分ではない気がしていたのだ。

 そこは彼女のアパートで、斜めに光線状の陽の光が差し込んでおり、さながらそれは、救済を約束する何者かの手に見えたのだ。

 このままでは全てが崩壊して、終わってしまう気がしていた。

 ベッドの上に仰向けになり、明日のための言い訳めいたことを考えていたのだった。

 何も思い浮かばなかった。

 なので自分はやはり馬鹿なのではなかろうかと、懊悩しながらなおも心の中では葛藤していたのだ。

 やがて光が別の方向から差し込んだ。一体何の光だろう?

 ヘリが上空を舞っているのか、近くで道路工事があったのか。

 しかし今の彼女には何に対しても用意された答えはなく、何となく寝転んで考えあぐねているうちに、深い深い眠りの世界へと引きずり込まれてしまったのだ。

 …明日はやってくるのだろうか?



 その日の研究所はごく普通の光景なのだった。

 週の始めということもあり、特に何も変わったことはなく、いつも通りの研究所内部なのだった。

 桑名は正直ホッとしていた。あれだけ考えたのが無駄な努力に思われた。

 だが何かが違って見えた。それはすぐに、照明がいつもより明るいことだと気が付いたのだ。

 先日の自分のアパートでの、差し込んでくる光に似ている気がした。

 鳥岡が風見に向かって、サンプルの件について話していた。

「風見ちゃん、海はどうだったの? どこまで行ったのよ?」

「海ですか? さあ……」

「さあって、海に行ってサンプルを採取してきたんだろ?」

「ええまあ、海には行きましたけどね」

「それがどこの海かって聞いてんの……!」

 風見はどこか遠い目になっていた。

「あれは確かに海だったのでしょうが、だって、波が立っていましたからね。白い泡もできていました。ですが……それがどこかなのかさえ、僕には判別がつきませんでした」

 鳥岡は途端に心配になったのか、

「おいおい、大丈夫か? サンプルはちゃんと採ってきたんだろうな?」

 それを聞いていた土井が、

「大丈夫大丈夫。きちんと仕事は完了させているから」

 と、透明な容器を見せたのだった。

 桑名には何かが違っている気がしていた。

「蛍光灯を、取り替えましょうか?」

「蛍光灯? 何でまた急に」

「だって……この部屋眩しくありません?」

 その時また、アウちゃんがようやく目覚めたのか、ゴボゴボと音をさせていたのだった。

「ようやくお目覚めのようですね」

 風見が明るくそう言った。

「ああ、そのようだね」

 鳥岡には逆に今日の照明は暗すぎると思った。なぜなのかは分からない。ただそう思っただけなのだ。

「よしっ、本日も仕事を開始しますか」

 そのリーダーの前向きな一言は、前日と全く同じように聞こえたのだった。


十一


 瀬田はその日もバイトのシフトに入っていた。

 彼女が時間通りに出勤すると、いつもは野山が座っている席に、鳥岡がいたのだった。

「あら? いらっしゃい。珍しいのね。このお店のことははるちゃんから聞いたの?」

 なぜか鳥岡は黙ったままだった。

 彼は黙ってメニューを指差し、ボロネーゼパスタを注文したのだった。

「なぜ黙っているの? 機嫌でも悪いの?」

 瀬田がパスタを運んで来ると、彼はいきなり顔を上げ、いつもの鳥岡に戻ったのだ。

「わりいわりい。ちょっと考え事をしていたもんだから」

「へぇー、そうなんだぁ……」

 そこからはいつもの鳥岡のままで、パスタをがっつくようにして、たちまちのうちに食べ終えてしまったのだった。

「あー、食った食った。さて、そろそろお会計といこうかな」

 鳥岡は立ち上がると、レジの方向へと向かったのだった。

 瀬田がテーブルの上を片付けていると、そこには、「瀬田さまへ」と書かれた封筒が置かれていたのだった。

 瀬田は大急ぎでレジまで向かうと、

「何ですか? これ」

 鳥岡は苦笑いしながら、

「いやあ、携帯を失くしてしまったもんでさ。いっくら探しても見つからないんだよ」

「いや、そういうことじゃなくて」

 鳥岡は澄ました表情で、

「俺からの典ちゃんに対する気持ち。携帯がないから悪筆だし古臭いけど、手紙にしたためてみたんだ」

 鳥岡はレジにいた氷室にパスタの代金を払うと、さっさと店から立ち去ってしまったのだった。

「お知り合いなんですか? あの人」

 氷室が怪訝そうな顔でいると、瀬田は曇った表情のまま、

「ああ、まあ、ただのお友だちだけどね」

 彼女は鳥岡から託された封筒を、一応は受け取り、シャツのポケットにしまったのだった。


十二


「鳥岡は?」

 その日の研究所も、いつもと変わらない研究所に見えた。

 アウちゃんにかけられていたカバーのようなシートは外され、その巨大なタコはまるで様子を窺うようにじっと動かず佇んでいたのだった。

「あれっ? 鳥岡は? 今日は休みなのかな?」

 土井がそう言ったのだが、皆は黙々と作業に没頭していたのである。

「風見くん、鳥岡から何か聞いてはいないかね?」

「誰です、それ」

「誰です、って……」

 土井は桑名にも同じことを尋ね、

「君は何か知っているんだろう? あいつは滅多に休むやつではないし、休む時は必ず連絡ぐらいは入れるだろ?」

 桑名も素っ気なく、

「私なんにも知らないけど。鳥岡って誰さ?」

「何言ってるんだ。あんなに仲良くしてたじゃないか」

 桑名は本当に知らないのか、それともとぼけているだけなのか、

「仲良くはしてません。そもそもそんな人のことなど、知らないんで」

 そこにちょうどタイミングよく、海原が入ってきたのだった。

「あ、海原さん、ちょうど良かった。鳥岡と連絡がつかないみたいなんです。何かご存知ですか?」

 海原はキョトンとしたまま、

「鳥……なんだっけ? 僕は何も聞いてないよ?」

 土井は呆然と立ち尽くし、何か嫌なことが起きていると、直感したのだが……。


 研究所での勤務を終え、土井は瀬田とレストランのようなカフェで食事するため、待ち合わせしていたのだった。

 その席で例の、手紙らしき封筒を土井は初めて受け取ったのだ。

「これを? あいつからなのか? ……あ。確かにあいつの字だ」

 二人は料理と飲み物を注文し、それらはすぐに運ばれて来たのだった。

「ふーん、あいつがまさか、のりちゃんにねぇ。全然気が付かなかったよ」

 典子はティーカップを置いて、

「あまり気にしないでね? 私ははるちゃん一筋だから」

「ありがとう。けど……」

「けど?」

「今日の話は聞いただろ? なんでいきなりみんな……」

 二人だけが鳥岡の存在を知っていた。他の誰しもが皆、その存在すら忘れ去ってしまっている事実に、二人とも驚いていたのだ。

 瀬田は何かを思い出したように、

「私……野山さんが言っていたことが、気になってきちゃって……」

 それからは街全体が、徐々に漆黒の闇に支配され、深淵に近付いているかのようだった。


十三


 その翌々日だっただろうか?

 もう土井には日付の感覚すらなくなっている気がしていたのだ。

 その日の研究所は閑散としていた。

「あれ? 今日は風見くんは? サンプルを採取する日だっけ?」

 唯一建物内部にいた桑名に、土井は尋ねたのだった。

「誰です? ここには私と土井くんしか……」

「え? まさか海原さんも?」

 そこに海原が入ってきたのだった。

「ああ良かった、海原さん。風見くんを見ていませんか? 本日は姿が見当たらないのですが」

 海原はゆっくりとした足取りで研究所内に入ってきた。

「かざみ……って誰だっけ?」

「え?」

 土井は思わず固まってしまった。やはりこれは彼の勘違いではない。一人ずつ、まず初めは鳥岡、その次は風見と、その人間の存在自体が消えていっているのだ。

 では、次は一体誰が?

 もしかしたら自分なのかもしれない。そう考えると空恐ろしい気がしたのだった。

 これは彼だけが見ている幻覚なのだろうか? それならばまだ、何とかなるのかもしれない。

 けれども何らかの事情で、まずあり得ないことではあったのだが、この世界全体が、彼自身の考えているものと違っているのか、それよりももっと最悪なのは……。

 その時また突然、アウちゃんの入っている水槽が、ゴポッという不思議な音を立てた。

 土井はその瞬間、アウちゃんと目が合った気がした。タコの目は横に倒した長方形をしている。

 その目で一体、何を見ているのだろうか?

 彼は体を少しだけ、横に倒してみた。タコの目は特殊な構造で、仮に今アウちゃんが斜めに自らの体を倒してみても、目だけは水平に保たれているのだ。

 だがアウちゃんは、何の反応も見せなかった。

 その目は特殊な構造というよりは、どこか達観しているようにも感じられたのだ。

 この世界は果たして、アウちゃんが見ている世界と、全く同じなのだろうか?

 土井は小さくため息をつき、それでも本日の課題である、作業に没頭するしかなかったのだ。


十四


 オクトパスタの店内のテーブルに、土井と瀬田が向かい合って席についていたのだった。

 瀬田はその日はオフの日で、客として来店していたのだ。

「どういうことなんだろうね? 一体何が起きているんだろう」

「分からないわ。私にもさっぱり」

 氷室が水とおしぼりとメニューを持ってきた。

「あら、初めまして、ですよね?」

「ええ、多分……いつも典子がお世話になっております」

 氷室はおかしそうに笑いながら、

「ごゆっくりどうぞ」

 などと言って奥に引っ込んでしまったのだ。

「私なんだか怖いわ……」

「実を言うとね、海原さんまでもが、ここ何日か、行方不明なんだ。電話も繋がらないし」

「そういえば海原さんがある時言ってたわ? タコの七番目の腕には、ある秘密があるんだって」

「秘密? どんな秘密なんだい?」

「さあ、そこまでは……」

 そこでタイミングを見計らって、氷室が再登場したのだった。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 土井はかなり適当に、

「ミートソースでいいや」

「あいにくそのようなメニューは……」

「じゃあ、肉が入っていれば何でもいいよ。ごめんね」

「いえ。じゃあ、ボロネーゼにしますか?」

「はい。お願いします」

 瀬田の方は、自分が働いている店なのに、なかなか決めかねている様子なのだった。

「ええと……本日のシェフのお任せパスタにするわ?」

「かしこまりました」

 氷室が下がって行くと、土井はまた話の続きに戻り、

「タコの七番目の腕って、どっちのだい?」

「え? どっちのって?」

「右から数えるのか、左から数えるのか、だよ。あるいは前後のことを言っているのかもしれない」

「そこまでは聞かなかったわ。ただ重大な秘密が隠されているとか」

「そうか。そうだったのか」

 そこで二人分のパスタが運ばれて来て、会話はしばらくの間、中断したのだった。

 氷室がふと、

「あ、そういえば、ここによく来られるお客さまがおられるでしょう? 典ちゃんのご友人だとかいう」

「ええ、野山さんのこと?」

「あの方がこの間ご来店なされて、興味深いことをおっしゃっていましたよ?」

 典子はパスタを食べながら、

「何なの?」

「この世界は、本当に実在しているのか分からない。だから、タコの腕がなんとかって……」

「何とかじゃ分からないわ。肝心の部分なのに」

「ごめんなさい。私、そういうのに疎くって」

 土井もパスタを口に運びながら、

「そいつは面白い話だね。ところで……野山さんて、一体誰なんだい?」

「えっ?」

「えっ?」


十五


 その日の研究所は……真っ暗だった。

 微かに何かのランプなのか薄明かりが灯り、ボンヤリと二人の人物の影を映し出しているのだった。

 それは土井と桑名だった。

 二人はやや離れた位置で、向かい合ったまま立ち尽くしており、互いに真剣な目で何かを訴えかけているようでもあった。

 桑名が突然、

「私たち……おしまいなのね」

 土井は色を失いながら、

「おしまいって、そういう関係じゃないだろ?」

「そんな意味じゃないのよ。分からない? 私たちみんな、あのタコが作り出した幻影なのよ?」

「タコって……アウちゃんのことかい?」

「ええ多分。だって他にいるかしら?」

 土井はそこで、暗闇の中を歩き回りながら、

「君ももしかして、勘付いていたのかい? どんどん周りの人たちが消えていっているのを」

「ええ、何となくね」

 そこで二人を沈黙が襲った。

 しばらくして……どれくらいの時間が経過したのだろう? 土井がようやく口を開いたのだった。

「次はどっちなんだろう」

「えっ?」

「僕と君とさ。おそらくどっちかだと思うけど」

 桑名は激しく動揺した様子だった。

「分からない。分からないけど……私が先のような気がする」

「それはなぜなんだい?」と言いかけて、土井はあえてそれ以上、勝手な結論を推し量るのはやめにしたのだった。

「僕かもしれないじゃないか」

 彼が口にしたのはそのような言葉だった。

 けれども彼女は、

「やっぱり私だと思う。そんな気がするのよ」

 その時だった。

 突然カポワッという音がして、それは何かが吐き出す呼吸の音に聞こえた。

「あれがアウちゃんの返事なのね」

 その通りなのだった。

 暗黒に近い建物の中で、計器類の明滅する僅かな光のみが、この世界の希望を映し出していたのだ。


十六


「私たち、もうおしまいなのかしら……?」

「そんなことはないよ。希望を持たないと」

「だって、この状況は……」

 そこは薄暗い、「オクトパスタ」の店内なのだった。

 土井と瀬田は向かい合って座っており、両者とも明らかに不安を抱えたまま、それでも何とかこの状況に飲み込まれないようにと抗いながら、お互い見つめ合っていたのだった。

 土井は正直、勝ち目はないと思った。

「これは消えてしまう前に、桑名が言っていたんだけど……」

 典子は驚いて、

「え? 恵ちゃんも? するとあとは私たちだけなの?」

「多分ね」

「ここの氷室ちゃんもいつの間にか消えていなくなってしまったのよ。こんなことってあるのかしら? あまりに理不尽だわ?」

 土井は愛する人の目を真正面からじっと見て、

「いいかい? よく聞くんだ。僕たちは元々、この世界に存在などはしていなかったんだ。ここはおそらく……」

「おそらく?」

「アウちゃんの頭の中なのさ」

 長い長い沈黙が訪れた。実際には二、三分足らずの短い時間だったのだが。

 典子は激しく憤った。そんな彼女を見るのは、土井にしたら初めてなのだった。

「そんなの嫌よ……! みんないなくなってしまうばかりか、あなたとも、離ればなれになってしまうなんて!」

「離ればなれっていうより、元から二人とも、存在していなかったのだから……」

「だからそれがおかしいっていうのよ……!」

 その時である。

 突然店の朧げな照明が、チカチカと点滅し始め、さらに店内は暗くなっていったのだった。

「ああ、もうおしまいかもね」

「そんなこと言わないで」

「でもある予感がするんだ。僕と君のうち、どちらかが残って、どちらかだけが消え去るんじゃないか、ってね」

「そんなことないわ……!」

 照明は徐々に落ちていった。

 暗闇が迫り、人という生き物は視覚を奪われ、そうなった途端に恐怖を感じ始めるのだった。

 真っ暗闇の中では、ただ泡が湧き出す音だけが、それのみが聞こえていたのだった。


十七


 光が柔らかに回復した。

 そこもまた同じ店内だった。

 見たことのある顔が立っていた。野山光一郎である。

「あなたは……光一郎さん? どうしてここに……」

「僕はこの店に愛着があってね。最後にもう一度だけ、訪れてみたかったんだ」

「そうなんですか。てっきり……」

「てっきり?」

「いえ、何でもないです」

 微かに磯の香りがした気がした。

 彼女が最後にテーブルへと運んだのは、確か魚介類のパスタだった気がする。

 彼女はもうすでに、元カレの名前など、とうに忘れ去っていたのだ。

「ここは本当に、あの店の中なのでしょうか……?」

「そうだろうと思うよ。少なくとも、僕の中では」

 その女性は周囲を見渡した。

 明かりは確かについているはずなのに、何も見えないのだ。

 何度も何度も見回したが、何も見えなかったのだ。

「無駄だと思うよ。だって、僕らはもうここにはいないんだ」

「いない? それはどういうことですか?」

 しかしその目の前の男性は、もうそれには答えなかった。

「ねえ、七番目の腕に、どんな秘密があるんですか?」

 それにも答えずに、こう言ったのだ。

「僕たちそろそろ、もう行かないと。君と僕とでは、行く方向が違うんだ」

「それってどういう意味なんです?」

 だがその意味はすぐに分かった。

 彼はお客さま用の、出入り口から出ていったからである。カランコロンと音だけがしていた。

 彼女は自分が退場する出口が、明らかに違うと感じた。

 自分は厨房の側なのだと。いつもそちらの口を使っていた気がする。

 そこでゆっくりと立ち上がると……照明が完全に消えたのだ。

 何かがボゥッと、暗闇の中に浮かび出た。

 それは水槽だった。

 中には巨大なタコが入っており、その存在はじっと彼女のことを見つめていた。

「さよなら……」

 彼女は何度も手を振ったのだった。

 いつまでも振っていようと思った。振っていたかったのだ。

 突然照明がブラックアウトした。


十八


 水槽がいくつも真横に並べられており、その中の一つは、一際大きなものなのだった。

 その水槽の中には、実験用に特別に選抜された、巨大なタコが入れられていたのである。

 アウグストゥスと仮の名前がつけられていた。

 そこはとある大学の実験用の施設で、タコの知能指数を計測するために、事前の実験で最も賢いと見なされたこの個体が選ばれて、蛸壺みたいな容器の中に、計器類をつけられて入れられていたのだ。

 水槽からは、何本ものチューブが各方向へと伸びていた。

 そのうちの一本は、水槽の内側へと入り込み、タコの腕に直接張り付いていたのだ。

 その腕は、左から数えて七番目の腕なのだった。

 実験は概ね順調に進捗していた。

 タコにもそこそこ高度な知性や知能があるらしいのだ。

 おまけに寝ている時には、夢を見ているらしい。

 アウグストゥスは微動だにせず、熟睡している様子なのだった。

 タコは一体、どんな夢を見るのだろう?

 それは今現在研究員たちの目の前にいる、アウグストゥスにしか分からないことなのだった。

 ゴポッという音がして、水槽の中で泡が上昇していた。

 おそらくウツボと戦っている夢でも見ているのだろう。研究員たちはそう判断し、レポート用紙に記入したのだった。

 アウグストゥスは非常に心地良く安眠していたのだ。もしかしたら全然違う夢を見ていたのかもしれない。

 果たして、どんな夢を見ていたのだろうか?




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オクトパスの夢と七番目の腕 福田 吹太朗 @fukutarro

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