ランドセルと失恋

広瀬 広美

ランドセルと失恋

 中学生のとき、放送委員の越権行為で給食の時間に流したオリジナルソングが、次の日に一度として話題に上がらなかった虚しさを未だに覚えているのは、やはり僕の青春が失敗だったということの証左なのだろう。

 まあ、十代のうちのあらゆる失敗は青春のうち、という見方もできる。十代の恋がどちらにせよ輝かしいように。きっと、失恋を音楽に乗せて語れるようになれば、こんな恥ずかしい話も酒の肴くらいにはなるだろう。


 当の失恋は高校生のときに起きた。それが最初の失恋ということではなく、とても印象に残る失恋という意味。なにせ小学校のときに教師へ抱いた感情をどう分類すべきかは未だによく分かっていないし、異性の友達を友達と断言できる年齢になったのはもう少し後だった。そんな中でも、明確に恋と呼べるほど惚れ込んで、完膚なきまでに終わったのが僕の弾き語る失恋だ。


「最近じゃセレブも背負しょってるおしゃれアイテムだよ」なんて言って、戸塚ハナは赤いランドセルを自慢げに見せつけてきた。

「意味わかんねぇ」

 本当に、心の底から。

 月曜日の早朝、早く来すぎたと思っていた午前七時には、既に早朝練習に勤しむ運動部の姿があった。どうせ教室なんて空いてない、と思って職員室に鍵を取りに行くと、またまた予想は外れて鍵はすでに無かった。ちょうど僕の好きな世界史の先生がなにやら作業をしていたので聞いてみると、もうクラスメイトの誰かが持ち去ったあとらしい。これは余談だが、今の僕がなんとか国立大学を目指せる方向で固まっているのは、世界史の模試の結果が親に胸を張れるものだったからだ。世界史の教科書に書かれている、上から目線で俯瞰しているような態度が気に入っていた。好きこそ物の上手なれ、というやつだ。


 教室に向かうと、赤いランドセルを背負ったまま机に腰掛ける戸塚がいた。長い髪をツーサイドアップにして大きめの黒いリボンで結えている。きっとランドセルの影響もあるのだろう、初見の印象はかなり幼なげに感じた。しかし、彼女は僕よりも五センチ高い一七三センチの長身で、バスケットボール部のエースを務めるほどガッチリとした身体をしている。その為、全体で見るとかなりアンバラスで、僕の未熟な審美眼では良さを見出すことができなかった。

 なので、「どうしたの?」と、聞いたのは決してランドセルに対してじゃない。ただ純粋に、どうしてこんなに早く学校に来たの? と、気になっただけだ。

 そうして返ってきたのが、『最近じゃセレブも背負ってるおしゃれアイテムだよ』だ。『背負ってる』というワードで、辛うじてランドセルの話をしていると分かったが、それでも意味がわからない。

『意味わかんねぇ』

 つい口を突いて出てしまう。でも、はっきりと痛々しいと言わなかったのは、きちんとブレーキが働いた証拠だろう。

「まあ、蓮見はおしゃれを知らなそうだしねぇ。せっかく身長高いのに」

 どこか馬鹿にしたような口調で戸塚が言う。確かに、僕はおしゃれには無頓着だった。散髪は近所の千円カットで済ませるし、服はネット通販の人気順で目についたものを買う。他人に、少なともおしゃれに関して、どうこう言える立場ではないのは確かだろう。

 僕は特に言い返す言葉もなく、むっつりとして自分の席に着いた。そもそもこんな早くに学校に来た理由は、家にいると両親の喧嘩が煩くて勉強に集中できないからだ。父が母に黙ってアコギを買い、それに対して「家族のことを考えて」だの「俺の稼いだ金だから、俺の自由だ」だのと、そんな言い合い。せっかく喧騒から逃れて静かな学校に来たのだ。戸塚と無駄話をしている間に、どれほど優良な知識を詰められるだろうか。(大学受験に使える、というだけで優良と呼んでいいのかは、この時の僕にはまだ判断がついていない)

「見てよこれ! カワイイでしょ!?」戸塚はランドセルを背負ったまま僕の方に詰め寄ると、怒ったような表情のままスマホ画面を見せてきて、「ほら、どう?」

 画面に映されているのは、おそらくセレブのインスタアカウントなのだろう。ロシア系の顔立ちに、幼なさを湛えたランドセルファッションが恐ろしいほどにマッチしている。

「・・・・・・いいんじゃない?」素直に思ったことを口にした。

「でしょ!?」そう言って、戸塚は笑顔を見せる。笑うと目尻に皺が浮かぶ人なんだ、なんてことに三年目でようやく気づいた。

 改めて彼女の顔を見る。キリリとした眉、長いまつ毛、焦げ茶色の大きな瞳、右目の涙ぼくろは程よい大きさで、ずいぶんと端正な顔立ちをしている。

 やっぱりランドセルは似合わない。アキバの男装系コンカフェで夢女子でも作ってるのが想像に易い。好みで語るなら、マニッシュコーデあたりを着て欲しい。

 戸塚は僕の視線に気づくことはなく、すっかり満足した様子で自分の席に戻った。元々好んで話をするような仲ではないので、彼女にしてみれば当然の行動だ。彼女は相変わらず椅子ではなく机に腰掛けて、一所懸命にスマホと睨めっこをしている。

 行儀が悪いなあ、と僕は思う。父親が昔気質で、礼儀礼節を重んじるタイプだったので、僕自身も細かなことが気になるようになってしまった。そんなふうに減点方式で恋愛をすると、たいてい上手くいかないことは、両親を見ていればよくわかる。

 そのまま僕は徐々に彼女への興味を失い、勉強に集中し始めた。世界史のノートを開く。人、モノ、出来事と、その解説が左右に分かれたページを開き、半分を隠して一問一答形式で答えていく。もちろん口には出さず、脳内で。


 西部開拓を正当化した言葉──マニフェスト=デスティニー。

 北緯三六度三〇分以北には奴隷州を認めないとする協定──ミズーリ協定。

 黒人迫害の秘密結社──KKK。

 アメリカ東部と太平洋岸を結ぶ鉄道──大陸横断鉄道。

 ・・・・・・


 誰かが教室に入ってきた──気がする。

 戸塚はその人と話していた。何を話していたのかはわからない。僕はマルチタスクというものがまるで苦手で、文字を読みながらだと、音が意味をなすまでに右から左へと抜けてしまうのだ。顔も上げなかったので、クラスメイトかどうかの判断もつかない。

 しばらくして、辛うじて会話が途切れたことがわかる。誰かが教室を後にする。するとすぐにまた扉の開く音がして、そこからは雪崩のように人が舞い込んだ。おそらく、始業時間が近い。

 僕は世界史のノートを閉じた。視界は鮮明に世界を捉え始める。世界を知るためにノートを開いているのに、それを閉じるとどこか遠い場所からこの世界に戻ってきたような気持ちになるので不思議だ。

 辺りを見渡すと、既に九割の生徒が登校している。友人と話して笑い合う者、分厚い本を懸命に読む者、顔を伏せて寝たふりをしている(あるいは、本当に寝ている)者。ここだけを切り取れば十人十色に思えるが、全国の教室内の様子を平均すればだいたいこうなるだろうという、面白みに欠けるありきたりな光景でもあった。

 いや、しかし異質なものもあるだろう。高校の教室にはとても似合わない、赤いランドセルが──と、戸塚の方を見てみると、そこに人影はなかった。もちろん、ランドセルも教室から消えている。なるほど、だからいつも通りのありきたりな教室に見えたのか、と納得すると同時に、どうして教室にいないのかという疑問が湧いた。

 ──別のクラスの友達に、自慢しに行ったのかもしれない。思えば、誰かに見せたかったから、椅子ではなく机に腰掛けていたのだろう。

 しかし、間も無く担任教師が教壇に立ってホームルームを始めたが、戸塚が現れることはなかった。近くのクラスメイトに聞いてみると、やはり戸塚を見たという人は居らず、ほんとんどの人が最初から来ていないと思っていた。

 どうやら僕が世界史の勉強をしている間に、戸塚は帰ってしまったらしい。理由はわからない。帰る瞬間を見た者もいないので、もしかすると朝の七時に戸塚ハナなんて人物は初めからいなかったのかもしれない。全ては僕の見ていた幻想で、潜在意識で彼女と会話がしたかったという、思春期を拗らせた思い込みでもあったのだろうか。結局その日は二度と戸塚を見ることはなかった。


 戸塚が僕の痛々しい幻想ではないことは、その日の夜のうちに分かった。戸塚に直接、「今日学校来てた?」なんてメッセージを送る勇気は無かったのだが、その代わりに彼女が見せてきたセレブのインスタアカウントを探した。

『ロシア系』とか『ランドセル』とか入れて検索すると、それはすぐに見つかった。アカウントは確かに存在し、僕が見た投稿と全く同じものも見つけた。その日、確かに戸塚ハナは学校に来ていて、僕と話していた。その後に何かがあって、戸塚は姿を消した。

 何か、とはなんだろうか。まあ、明日聞けばいいか、と僕は思った。高校生は高校に行くものという、ふざけた当たり前を盲信しているタイプではないが、少なとも戸塚は皆勤賞が似合うたちだ。公的には既に一日休んでいるので、皆勤賞はあり得ないのだけれど。それでも、明日には来ているだろうと楽観視していた。残念ながら、これは皆目見当違いで、結局戸塚が学校に現れたのはそれから一週間後のことだ。


 僕は朝七時に学校に向かう。あの日から常にそうしている。ワイワイとうるさい教室に後から入るよりも、死体のように静まり返った教室の中で、ぽつりと鎮まっている方が性に合っていた。

 職員室に鍵を取りに行くと、既にそこには無かった。僕はすぐに一週間前のことを思い出した。戸塚である確証などどこにもなかったが、やはり思い浮かべたのは彼女だ。ただし、恋愛対象として惹かれていたからではない。クラスメイトが一週間も学校に現れていなければ流石に心配が勝る。職員室で作業をしていた先生に挨拶をして、足早に教室へ向かった。


 教室の扉の前で立ち止まる。中から声がする。男女が吐息混じりの喘ぎ声を出しながら、机をガタガタといわせている。性を吐き出している。僕はちらりと中を覗いただけですぐに伏せてしまったのだが、女の方が戸塚であることは確かだった。


 胸がざわめく。男女の行為を直接見るのはこれで二度目になる。一度目は両親で、まだ僕が五歳なるかならないかといった時だ。その時は、ぐっと熱くなる感覚を一瞬覚え、次に不快感が腹を打ち、急いでトイレに駆け込むと夕飯のハンバーグとサラダを吐き戻した。

 僕は今回も走って逃げ出した。嘔吐感はなかったが、とにかくここにいるべきではないという思いが膨らみ、仕舞いには家まで帰ってしまった。布団に潜り込んで目を瞑ると、一瞬しか見ていないはずの生々しい生命活動が、青写真のように瞼の裏に貼り付いていた。きえろ、きえろ、と唱えても、むしろ鮮明になっていく。人生を振り返ってみても、ここまでの情念はない。そういうシーンのある洋画を見たところでこんな感情は湧いた試しがない。何かが違った。それを理解するには時間が必要だった。

 何も言わずに学校を途中で帰ってくるなんて初めてのことで、僕を案じた母は休みの連絡を入れてくれた。また、そのことで父と言い合いになったようで、その時に僕は、もしこの二人が離婚することがあれば母に着いていくと決めた。

 次の日、昨日の今日で参っていた僕は少し時間を遅らせて、朝の七時半に学校へ行った。すでに疎に生徒が登校しており、そこで起きていた出来事など誰も知らない様子だった。始業ギリギリになって、ようやく戸塚が教室に現れた。今日は高価そうなトートバッグを提げていて、ランドセルよりも似合っていないな、なんて僕は思う。

 昨日は何を持ってきていたのだろうか。まあ、どうでもいいことだ。

 

 それから僕と戸塚の距離が近づくことはなく、秘密を抱えたまま卒業を迎えた。


 大学生になるとバイトを始めるようになった。カラオケ、居酒屋、オペレーター、エトセトラエトセトラ。どれも長くはもたなかった。段々と生きる自信が無くなっていくうちに、大学に行く気もなくなって、一年目に三十単位近く落とした。僕の通う学部では留年というシステムがほぼなく、エスカレーター式で四年生になると、単位を取り返す気も起きずに二度目の四年生を経験した。その時点で、母から学費を払えない旨を言い渡された。行方知らずの父を頼ることもできない。僕はやはり続かないバイトを転々として生活費を工面しつつ、貯金と合わせて何とか一年持たせたが、そんな状況でこれまで取れなかった単位を取れるはずもなく、結局卒業も出来ずに大学を去った。


 そのうち僕は引き篭もるようになった。無気力な日々が続く中、母に「なんでもいいからやりたいことをやれ」と言われた。これまでの人生で、唯一尊敬に値すると思えるのが母だった。僕は母の言葉を素直に聞き入れた。

 中学生の痛々しい心に薪を焚べて、自分自身を燃やしながら音楽活動を始めた。


 何も上手くいかずに一年が過ぎた。ネットに投稿した楽曲はたった数曲。どれも百再生に届かない。きっと才能が無かったのだろう、そんな事実だけをさらった言葉は救いにならない。不貞腐れているうちに、春と夏と秋と冬が過ぎた。また一年が経過した。

 母の病気が判明した。死の危険を伴う病気であるが、入院して根気強く治療をすれば十分に治るものらしかった。しかし長期入院を余儀なくされ、その傷病手当金だけでは、今まで通りの生活を続けることなどできるはずもない。何より、母のいない家をどのように管理すべきかも分からない。

 ネットの見よう見まねで家事をしながら、僕は思う。母は先に死ぬ。今回の病気で、というだけではない。どうしたって先に死ぬ。当たり前の現実を今更ながらに思い出し、当惑して部屋を荒らした。次の日に自分で片付けた。

 変わらなくてはならない。そう結論付けたはいいが、実際に変わることができるのかは甚だ疑問だった。

 今まで通りではダメなのだろう。寄生虫ではなく、たとえ同じ虫でもやがて姿の変わる芋虫にならなくては。

 ある日、母の容態が急変した。母の死は想定よりもはるかに間近へと迫っていた。医者に父の所在を聞かれて、答えられなかったことが恥ずかしく、その日は不貞腐れて過ごした。もっと持つべき感情は別にあったはずなのに、それでも不機嫌を正せない自分がイヤになってくる。

 僕は自分に猶予期間を設けることにした。これが最後の挑戦だとケジメをつけて、それですっぱり音楽とは縁を切る。僕のモラトリアムは数周遅れで終わりを迎え、ようやく社会に巣立つのだ。飛べない鳥がいつまでも巣の中で身構えているわけにはいかない。這ってでも外に向かうのだ。たとえ外敵に喰われてでも。

 音楽は母に言われて始めた活動だ。ある意味、これは母との訣別でもある。だから、その終わり際は大切にしたかった。


 何を歌うべきだろうか。母に向けて感謝を歌うことも考えたが、最後だというのにそれじゃ余りにも湿っぽい。どうせなら激情をぶつけよう。自分の抱いた最も大きな炎を回想する。そして、やはりそれは高校生の頃の失恋だろう。あの秘密を歌に乗せて世界へ放つ。秘密が秘密でなくなることで、僕は過去に訣別を告げる。

 名前を出す気はないが、きっと本人が見たら気づくだろう。本人に届くかどうかは知ったことではない。どうせ届かないからではなく、届いてバレてもいいという思いで歌詞を綴る。実のところ、かつての想い人に気づいて欲しいという、そんな邪な気持ちもあった。


 五時間ほど集中して作業を行うと、急に疲れが現れてきたので一度休憩することにした。一時保存の際に、曲のタイトルを何にしようかと迷う。まあ、まだ仮タイトルだからなんでもいいのだけれど。とりあえず、候補を全て書き出してみる。

『女子校の秘密』『朝七時の生徒と教師』『バスケットボールと世界史』……

 壊滅的なタイトルセンスに恐れ慄く。これでは再生数も回らない。それから五分ほど頭を唸っていると、ひとつ良いアイデアを思いついた。あの出来事には、鮮烈なアイテムが一つあったことを思い出したのだ。

『ランドセルと失恋』

「……ちょっと違うか」

『ランドセルの恋敵』

 こちらの方が穿っている。僕は満足して椅子から立つと伸びをした。こうして一度リフレッシュした方が、却ってアイデアが湧いてくる。どうせなら弾き語りもいいかもしれない。顔は出さず、胸元を映したサムネにすれば、何百人かは引っ掛かる。持ちうる全てを使って、世界に意志を放つ。

 僕は父の書斎に行くと、彼の残したアコースティックギターを取り出した。掻き鳴らすと音が狂っており、チューニングしようとツマミを捻ると、ばつんと音を立てて弦が切れた。

 弦を買わなくてはならない。張り替えは楽器店にお願いすればいいか。そんな未来を夢想して、僕は弦が五本のまま、先ほど作ったばかりの曲を弾いた。

 誰かに届けと思いながら。想いよ伝われと思いながら。いつか酒に呑まれて、まだ見ぬ同僚に全てを曝け出してしまう日が来ると、心の底から信じている。

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ランドセルと失恋 広瀬 広美 @IGan-13141

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