傷が「跡」に変わる頃には

寺音

前編

 窓ガラスが震えた音に驚き、唯香ゆいかは目線を移動させる。ガタガタと窓枠を揺らしているのは、寒風かんぷうだったようだ。校舎を囲む木の枝が、大きく左右に揺れているのが見える。

 教室は暖房が効いているが、窓ガラスや壁からひんやりとした空気が伝わってきてしまう。唯香は制服のブレザーをしっかりと羽織った。

 冬の窓際席はなかなかに過酷だ。変わってくれるものなら変わってほしい。


「おはよう唯香。今日も寒いねぇ」

 教室の喧騒をぬって陽だまりのような声が響く。唯香が後ろを振り返ると、友人の茉莉まりが朗らかな笑みを浮かべていた。風に乱されたのか、それともただの寝癖か、くるりと巻かれた髪の毛があちこちに跳ねている。

 温かそうなマフラーにベージュのコートを羽織っていたが、彼女の頬も鼻も薄っすらと紅くなってしまっていた。


「教室はあったかいね。暖房最高ー」

 茉莉は指先同士を擦り合わせている。彼女の指先は雪のように真っ白だ。

「おはよう茉莉。マフラーやコートだけじゃなくて、手袋も着けてきたら? 寒いでしょ」

「うーん、そうしたいんだけど。不思議だよね、私の手袋、絶対に相方だけ旅に出ちゃうの」


 そう言って、彼女は困ったような怒ったような表情を浮かべる。太めの眉毛を下げて、ふっくらとした唇を少し突き出していた。

 唯香は不自然にならないように、茉莉の顔から視線を逸らす。


 クラスメイトが集まってきた教室からは、迫る期末テストの話題に混じって、バレンタインデーについての会話が飛び交っていた。

「アンタ彼に何あげるの? やっぱり手作りチョコとか?」

「えー、チョコとか喜ばないって。アイツ、甘いの苦手だし。肉とかの方が喜びそう」

「あはは、言えてる」


 そんな浮かれた会話を耳にしたのか、茉莉が唯香の後ろの席に着くやいなや、ぐっと身を乗り出してくる。

「ふふ、バレンタインデーももうすぐだね。唯香は誰かにチョコあげるの?」

 茉莉の瞳は好奇心でキラキラと輝いている。必死で何も考えないようにして、唯香は口元に笑みを浮かべた。


「あげないよー。あげても友チョコくらい。別に、好きな人なんていないし」

「そう? 来年は私たちも受験生だし、のんびり恋愛していられるのも今のうちなのになぁ」

 両頬に手を当てて、揶揄うように微笑む茉莉は眩しい。一瞬息が詰まったのを、唯香は喉を鳴らすことで誤魔化した。


 どう答えようかしばらく迷ったが、結局唯香は逃げることを選んだ。

「その、私、ちょっとチャイムが鳴るまでにお手洗い行ってくるね!」

「そう? だったら急いだ方が良いよ」

 いってらっしゃい、と茉莉がにこやかに手を振った。彼女ののんびりとした声は、羽毛のように柔らかく唯香の耳をくすぐる。

 勢いをつけて立ち上がり、唯香は茉莉に背を向けた。



 トイレの個室から出て、手洗い場の蛇口をひねる。流れ出す水に手を差し出すと、氷のような水が唯香の肌を刺した。

 冷たさが、自分を正気に戻してくれたら良い。早く普通にならなければ。

 そんなことを考えながら、しばらく指先を水にさらす。指先が、冷えて痺れてきたところで水を止めた。

 何をやっているんだろう。ため息を一つ吐いて、唯香は何気なく顔を上げる。


「え……!?」

 ぞわりと背筋を震わせて、唯香は声を上げた。

 手洗い場の壁に設置されている鏡には、大した特徴のないボブカットの女子高生が写っている。何の変哲もない、いつも通りの自分だった。しかし。

 唯香は恐る恐る自分の左胸に、視線を落とす。何もない、じゃあ一体は何だ。

 唯香は再び鏡の自分へと視線を戻した。


 向かい合った自分の左胸には、一本の赤い線が走っている。線なんて軽々しいものじゃない。どう見てもだ。

 鋭い刃物で切り裂かれたか、刺し貫かれたか、そんな風にしてできた傷のように見えた。

 握り拳くらいの大きさで、その紅い色合いは生々しい。


 手が汚れるのも構わず、唯香は鏡にそっと触れた。鏡はつるりとしていて、凹凸はない。

 鏡にヒビが入っているわけでもなさそうだ。

「じゃあ、これ……何……?」

 唯香の薄い唇が恐怖に震える。全身が冷水を浴びせられたように冷えていった。


 その時鳴ったチャイムの音で、唯香は金縛りが解けたようにハッと息をのむ。

 実際に傷があるわけではないし、気にすることなんてない。それよりも、朝のホームルームに遅れてしまう。

 唯香は鏡の中を見ないように注意しながら、素早く踵を返した。





 前に座ったクラスメイトの背中に隠れ、唯香はそっと手に持った鏡を見つめる。手のひらサイズのそれの角度を軽く調節してやれば、自分の左胸辺りには、まだあの傷が写っていた。

 見間違いだと思いたかったのに。唯香は眉間に皺を寄せる。半日が経っても、鏡の中に見える傷は消えてくれなかった。


 どうやら傷は鏡の中だけに現れ、それが見えるのは自分だけのようだ。複数の友人に確認をとったので、間違いないだろう。

 鏡の中の傷は痛々しいが、実際に傷があるわけでもなく痛みもない。いつしか純粋な恐怖と言うよりも、気味の悪さを感じていた。


 唯香は視線を鏡から移動させ、教室を見回す。午後の現代文の授業は、みんな眠気を堪えるのに必死なようだ。欠伸をかみ殺し、頭が不自然に揺れている子もいる。


 黒板の前では、現代文担当の女性教師が教科書の解説をしている。束ねただけの彼女のパサついた黒髪が、チョークを動かす腕に合わせて揺れていた。

 その機械のような声を聞きながら、唯香は再び鏡に視線を落とす。


 ふと、後ろの席にいる茉莉が鏡に映った。彼女は少し眠そうに目を瞬かせながらも、必死に手を動かしてノートに書き込みをしている。一生懸命な姿に、唯香の心臓が痛いほど高鳴った。


 すると突然、鏡の中の傷口からと紅い液体が溢れ出た。傷口が開いて、新たな血を吐き出したような。


「ひっ……」

 耐え切れず、唯香の口から小さく悲鳴が漏れた。その瞬間、手からこぼれ落ちた鏡が床に落下していく。

 思わず動かした体が、机の脚を蹴って大きな音を立てた。


本堂唯香ほんどうゆいかさん」

 氷のような教師の声が響く。気だるげで緩い教室の空気が、目が覚めた様に張りつめた。現代文担当の教師、小林京子の声は無機質でよく通る。

 クラス全員が唯香に注目する中、小林はローヒールを鳴らしてこちらへと近づいてくる。

 彼女は身を屈めると、机の影に落ちた唯香の鏡を拾い上げた。

 

「そんなに自分の顔が気になりますか? 私の授業よりも」

「い、いいえ。その」

 小林の眼鏡越しの瞳は冷ややかで、唯香は肩をぎゅっと縮めて視線を落とす。クラスメイトから上がる、揶揄うような笑い声がいたたまれなかった。


「――とにかく、鏡を見るのは後にしてください。授業中です」

 小林は鏡を唯香の机の上に乗せると、再び教卓の方へ戻っていく。

 クラスメイトは興味を失くしたように、各々正面を向いていった。


「びっくりしたね」

 耳に甘やかな声が響き、唯香の心臓が跳ねる。自分をいたわるような柔らかい響きは、茉莉の声だ。

 ドロリ。また、あの感覚を覚えて背筋が凍る。

 もしかして、この傷は。

 考えを打ち消すように、唯香は首を軽く振った。


 これ以上考えては駄目だ。しばらく鏡は見ないようにしよう。大丈夫。見ないようにだから。


 唯香は裏返されたまま手鏡を机の中にしまうと、教科書の内容に必死で意識を集中させた。

 痛いはずがない。だって私には、傷なんてないのだから。

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