第4話 ありがとう
「ごめんなさいね、夜分遅くに」
「ああ、いえ、とんでもないです。恵美さんにはいつもお世話になっていますから」
「ふふ、ほんと礼儀正しい子ね、千尋くんは。智香やひまりにも見習ってほしいくらいだわ」
「あはは……」
相川宅のリビング、そのテーブル上で俺の向かいに腰を据える恵美さんは目尻を下げて微笑みながら、マグカップに入った紅茶をコクンと喉に通す。
智香ちゃんたちを我が家に残して俺一人だけがここに招かれたわけだが、恵美さんとのこういった機会はあまりないから少し緊張してしまう。
「裕二さん、ぐっすり寝てますね」
「ええ。今日は仕事が早く終わったみたいでね、お風呂に入ってすぐに安心しちゃったのかしら。そっとしておいてあげて?」
「⋯⋯はい」
目線の先で、ソファーの上で仰向けに眠ってしまっている裕二さん。毎度のことながら日々の勤務お疲れ様ですと労いたいところ。
「千尋くん、いつもありがとう」
「え?」
──突然、そう感謝を口にする恵美さん。
「智香と、ひまりと、紗彩の相手をしてくれて。千尋くんがいてくれるから、あの子たちはいつも笑って過ごしていられる。本当に感謝してるの、私と裕二は」
「……っ。そ、そんな、大したことじゃないですよ。俺の方こそ、智香ちゃんたちにはいつも元気を貰ってばかりで……とても、幸せです」
たどたどしくも俺は率直な本心を答える。
これに関しては紛れもない事実だ。
魅力いっぱいで華やかで、平凡だった俺の生活に彩りを与えてくれた智香ちゃんたちの存在には本当に有り難く感じていて、
今更、智香ちゃんたち無しの生活に戻れと言われても、多分無理だと思う。
もし居なくなったらしばらく病む気がする……いわゆる喪失感、三姉妹ロス的な。
「三人ともすごく可愛くて、頑張り屋で、一生懸命で……俺なんかには勿体ないくらいで、本物の家族のようで。なので感謝してます。俺も、美乃里も」
「ありがとう、自分のことみたいに嬉しいわ。これからもあの子たちをよろしくね、千尋くんになら安心して任せられるから」
「は、はいっ、もちろんです」
言われて、俺は大きく頷き返す。
ここまで厚い信頼を寄せられるとそれはそれで何だか気恥ずかしいな。……嬉しいけど。
「……昔から、仕事の関係で家を留守にすることが多くてね。その度にあの子たちには寂しい思いをさせてきたの」
恵美さんはマグカップに再び口を付けて机の上に置くと、息をつく。
「特にひまりはね、いつも泣いてばかりだったのよ。どうしてもっと早く帰ってきてくれないの、待ってるのにって。その気持ちはよく理解してたけど、あの子たちの生活費を維持するために私も必死だったから、どうしても思いに応えてあげられなくて」
「……そう、ですよね。やっぱり、大変ですよね」
「そうね。なるべく早く帰れるように努力はしてたんだけど⋯⋯それでもやっぱり、あの子が満足するには程遠かった。智香と紗彩がひまりを宥めてくれてはいたけど、本当は智香と紗彩だって寂しく思っていたはずで……申し訳ない気持ちでいっぱいだったわ」
過去に関して俺から下手な口出しはできないが、しかし確かに、恵美さんにもひまりちゃんにも同情してしまう。
甘えさせたくても甘えさせられない、甘えたくても甘えられない境遇が長く続いていたら気に病むし、不満が爆発するのは当然だ。
「でも、ここに引っ越してきて、千尋くんたちと出会ってからはひまりにも笑顔が増えてきて、今ではずっと明るいままで本来のあの子たちで在り続けている。それは紛れもなく千尋くんのおかげなのよ」
「あはは。何の取り柄もない俺ですけど、こんな俺なんかでひまりちゃんが可愛く元気でいてくれるなら良かったです」
「ふふ、そんな自分を卑下するような言い方しちゃダメよ? 何の取り柄もないだなんて、自己評価が低すぎるわ。前にも似たようなこと言ったけれど、むしろこんな素敵でカッコいい男の子は早々見つからないもの」
「い、言いすぎですってそれは」
「いやいや事実よ? そうねぇ……智香か、紗彩か、ひまりか。将来はどの子をお嫁さんに貰ってくれるのかしら?」
「お嫁さんって、だからそれは……ッ」
この話題、恵美さんは毎回乗り気だ。
本当に、俺と三姉妹の内の一人を結ばせようとしているのだろうか。
「だって嫌だものぉ、千尋くんが他の女の子と付き合うだなんて。もしそれで礼儀のなってないクソ
「……はは。あ、ありがとうございます」
容易に想像がつく辺り、本気で言ってるんだろうなこれ。
「ですけど、お嫁さんだなんてやっぱり俺には勿体ないですよ。三人ともまだ若くて、俺以外の男との色んな出会いがこの先あるでしょうし……」
「そういう謙虚なところとか、やっぱり千尋くんがいいのよぉ。あの子たちには体育会系の男の子は合わないはずだから」
「そ、そうですかね……? あの、ひまりちゃんとか明るいですし、やっぱりそういうムードメーカー系の男子がお似合いなんじゃ……?」
「んー、むしろ逆ね。千尋くんみたいなめいいっぱい甘えていられる大人びた男の子が好みだと思うわ」
「い、いやぁ……じゃあ、紗彩ちゃんは大人びてますし、それこそ明るい男子とかが……」
「ああ見えて紗彩も子供っぽい一面があるから、千尋くんみたいな年上が好みだと思うわぁ~」
「……」
智香ちゃんは──と、口にしようとしたが、現段階であの状態だから考える必要もない。
「遠慮しなくていいのよ千尋くん。謙虚なのはもちろん好印象だけど、でも、時には男の子らしく、強引に攻めにいく姿勢を取ったっていいと思うの」
「ご、強引に、ですか?」
どういう意味で言ってるんだろう……。
「ええ。千尋くんはこの夏で一皮剥ける必要があるわね」
「ひ、ひとかわ、とは?」
俺が訊くと、恵美さんは机に両肘をついてにんまりと笑った。
「グレードアップよ。みんなが慕う優しいお兄ちゃんから、狙いつけた女一人をたらし込んで沼のように抜け出せない恋の病に落とす肉食系男子への、ね?」
「え、ええ……ッ!?」
な、なんかすごいこと言い始めたぞこの人!?
「あの子たちもねー、けっこう期待してるみたいなの。今年の夏は千尋くんと楽しく過ごすんだーって」
「あ、ああ……確かに、ひまりちゃんはそう言ってましたね」
それはもう、ウキウキと。
想像しただけで俺も楽しみではある……が、あくまでもそれは『おにーちゃん』としてで、俺のことをそういう異性的な目で見ているわけでは……。
「智香と紗彩もよ。去年は顔を合わせたばかりだったから千尋くんとあまり関われなかったけれど、今年はもう違うでしょ? すっかり仲良しになって、あの子たちの言う大好きなお兄ちゃんと過ごす初めての夏。三人とも最近はすごく上機嫌なの」
「な、なるほど。相当期待されてるんですね、俺」
「それはもう最大級に」
そ、その言い方は、プレッシャーが……ッ。
「夏といえば、男女関係が大きく進展する一大イベントよ。ここで千尋くんの行動次第で、あの子たちとの関係性もだいぶ変わってくるんじゃないかしら?」
「……」
──俺は別に、今のこのままの関係性で十分満足してるんだけどな。
あまり変化を求めると、これまで積み上げてきた信頼や思い出なんかが崩れてしまう気がするし……俺はみんなが笑い合って過ごせる今の環境が大好きで、俺個人の私的な感情でそれを台無しにしたくはないし。
智香ちゃんたちだって、そういう展開を進んで望んでいるわけではない……と、思う。
「私と裕二は夏の間も変わらず仕事で忙しいから、代わりに千尋くんがあの子たちの面倒を見てもらえる? 春香さんと光一さんにもお願いはしておくけど」
「わ、分かりました」
断れるはずもないのでとりあえず肯定だけはしておく。
……あの三人の中で、お嫁さん、か。
ちょっと、俺にはまだ考えられないな。そんな将来のことなんて。
結婚願望は、ないわけじゃないけど。
(……彼女、か)
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