第3話 慣れない休日

「──お兄? どうして着替えてるの?」


「ん、ちょっと出かけてくる。帰りは⋯⋯多分、夕方過ぎになるかな」


「え、ええっ!?」


 土曜日の朝を少し過ぎて、お昼前の十一時。


 外出用のカーディガンを羽織り、ジーンズを穿いて玄関前で身だしなみを整えていると、物音を聞きつけて二階から下りてきた美乃里が驚きの表情で声を上げた。


「な、なんでっ? せ、せっかく今から、お兄と一緒にゲームしようって思ってたのに⋯⋯」


 そう嘆く美乃里の手には家庭用携帯ゲーム機、PSLightライトが握られている。


 恐らくは最近買ったばかりの新作ゲームを俺と二人プレイで楽しもうと考えていたのだろう。


 その健気な気持ちに「ご、ごめん」と俺から口にして申し訳なく思いつつも、俺としても今日ばかりは外せない用事のため、簡潔に理由を明かすことにした。


「これから人と待ち合わせでさ。さすがに今から断りを入れるのは申し訳ないし」


「ま、待ち合わせ?」


「うん。クラスの友達と街で遊んでくる」


「⋯⋯っ」


 ──明かした途端、シュンと寂しげな顔を覗かせる美乃里。


(⋯⋯今すぐにじゃないけど、これから少しずつ兄離れも覚えさせていかないとな)


 決して距離を置きたいからではなく、俺の助けを借りずも今後を乗り越えて生きていけるように、高校を卒業した後の将来の姿を見据えた上で。


 美乃里には何不自由のない幸せな人生を掴んでほしい。そのためには今日のような機会を設けることは大事であるはずだ。


「帰ってきたら、美乃里ともたくさん遊んであげるから。だからそれまではちゃんとお留守番できる?」


「⋯⋯ヤダ」


「えっ」


「⋯⋯さみしい」


「⋯⋯」


 ⋯⋯しかし、こうなってしまうと、今の美乃里では言葉のみで説得することは到底できそうになく。


 しょんぼりと俯いて構ってほしそうにする美乃里に俺は近づくと、力を加えすぎないように肩を抱き寄せて、いつものようにサラサラと頭を撫で下ろす。


「おにぃー⋯⋯行っちゃやだぁ……」


 俺の背中に両手を回して離さんとする美乃里に呆れと愛しさで苦笑しつつも、俺は囁きかけた。


「ほら、寂しくなったら母さんの世間話にでも付き合ってあげたりとかさ?」


「おにぃと一緒がいい⋯⋯」


「⋯⋯甘えん坊だなぁ、美乃里は」


「おにぃが大好きなんだもん」


「俺も美乃里が好きだよ?」


「じゃあ一緒にいよっ?」


「だーめ」


「うううー⋯⋯ッ!」


「あははっ」


「なんで笑ってるのっ! もおっ!」


 あんまりにも可愛くて、つい。


 俺の胸に顔をうずめてスリスリ擦り付けてくる美乃里を大事に抱きとめながら、そう思った。


「⋯⋯なるべく、早く帰ってきてね」


「うん」


「⋯⋯にしてもおにぃ、すごくいい匂い⋯⋯すきぃ」


「ああ、ちょっとだけメンズ用の香水使ったからね」


「イケメェーん⋯⋯」


「⋯⋯あの、さすがにくっつきすぎじゃない?」


「えへへぇ」


「⋯⋯」


 ──その後。名残惜しそうに目で追い縋ってくる美乃里に良心を咎めつつも、俺は迷いを振り払って思い切りよく玄関の扉を開いた。


 直後にサアッと吹き抜ける横風、初夏を感じさせる爽やかな日差し。反射的に手をかざした俺は空を見上げながら気分よく「んーっ」と声を漏らす。


 外は若干の雲がかかっているものの、晴天。六月頭の来週からようやく梅雨入りを迎えることとなり、当分は今日この日が青空を悠々と眺めていられる最後の日になるかもしれない。


 キリキリと痛む片頭痛持ちの俺からすれば、非常に気分の乗らない憂鬱なシーズンの幕開けである。これからは頭痛薬を常に携帯しておかねば。


(帰りにドラッグストア寄るか……)


 薬って高いからあんまり買いたくはないけども。


 さておき。家を出てしばらく歩いた先にあるバス停に辿り着いた俺は、数分経って時間通り到着したバスにのんびり乗車すると、発行された整理券を受け取って近くの空いている席にドッシリと腰を下ろした。


 そして走り出したバスの心地よい揺れに眠気を誘われながらも窓の外を眺め、ひと息つく。


(⋯⋯バスに乗るのも久しぶりだな)


 わざわざ遠くまで出向くような用もなかったし、ある程度の日用品は近場の量販店で買い揃えられるし。


 よほどの目的がなければ、街なんていうのは俺とは縁遠い新世界のような場所だ。


 けど、今日はそのよほどと言える目的があるからこそ、こうしてバスに乗車しているわけで⋯⋯ソワソワと慣れないこの感覚に、俺は少し高揚していた。


 何せ、人生で初めての──。


「⋯⋯えっと⋯⋯駅前北口の広場⋯⋯銅像の前……」


 何事もなく十数分バスに揺られ続けて、ようやく到着した終点となるJR駅前北口。


 整理券とお金を支払って降車した俺は、周辺の様子をキョロキョロと見渡して気にしつつ、昨日の夜にLINEで連絡を取り合った文面をまじまじと確認しながらその場を動き出す。


 土曜日の十二時手前ともなれば、駅前には多くの観光客や通行人で賑わい、活気に満ち溢れた光景が広がっている。


 東京のような都心ではないとはいえ、普段から見慣れない人口密度を目の当たりにして「うわあ……」と気圧される俺。


 久しぶりに訪れた街中で、しかも今は頼るあてのない一人きり。家でくつろいでいるだろう母さんや父さん、美乃里の存在がとても恋しくなってくる。


 加えて智香ちゃんに、紗彩ちゃんに、ひまりちゃんに……これなら家を出る前に顔くらい出しておけばよかった。今さら後悔したって遅いけども。


(……人多い……コワイ……オチツカナイ……)


 ──……などと思いつつ、俺は待ち合わせ場所に指定されている駅前の広場の銅像前に辿り着いた。


 予定の時間より十分ほど早く着いてしまったが、俺は知っている。女の子との待ち合わせの際には男が先に待ち合わせ場所で構えているのが常識で、あとからやって来た女の子に「俺もさっき着いたばかりだから大丈夫だよ」と声をかけてあげるのが鉄板なのだと。


 ……青年漫画で得た知識である。


(……まだ、来てないか)


 で、どうやら俺が先着で間違いないようだ。


 辺りを見渡して確認したのち、俺は状況を把握するために手元のスマホからLINEアプリを開く。


「おっ」


 すると、待ち合わせをしているその子から二分前に新たなメッセージを受信していた。


 メッセージの内容は至ってシンプルな一文で、


『あと少しで着くから待ってて』


 とのこと。


(バスに乗ったタイミングが近かったのかな)


 だとすると、見晴らしのいいこの場所なら、すでに彼女の姿が見えていてもなんら不思議ではない──。


「あ、いた。お待たせ、早海くん」


「ッ!」


 と、思っていた矢先。少し離れた向こう側から俺を呼ぶ、透き通った声。


 聞こえてきたその方角に反射的に振り向くと、そこにはショートパンツからスラリと伸びた長い素足が目を引く、誰が見ても納得いくだろう美少女の姿。


 加えて、グレンチェック柄のジャケットを羽織った落ち着きあるコーデがよく似合っている彼女は小さく手を振りながら俺に歩み寄ってくると、値踏みするように俺の服装をじぃーっと見つめたのちに、親しげにニコリと微笑みかけた。


「へえ……けっこう似合ってるじゃない、その私服」


「あ……そ、そう?」


「ええ。こうして見ると、早海くんってけっこう整った顔立ちよね。普通にいい感じ」


「そ、そんなことないって。あはは」


 ……自分の服装と、あと顔まで褒められるとは思わなかった。


 照れ隠しで笑っていると、彼女──長田さんは俺をスウッと見据えながら、誘惑的に口元を綻ばせる。


「……もしかして、けっこう待っててくれてた?」


「い、いや。俺もさっき着いたばかりだよ」


「ふふ、ほんとに? 格好つけてない?」


「ほ、ほんとにさっき着いたばかりだってっ」


「あっそ。ならいいんだけど」


「……ッ」


 ……か、可愛い……。


 校内での澄んだ振る舞いとは違う、上機嫌に俺をからかってくるプライベートな長田さんは十代の在るべき女の子らしさに満ち溢れていて、とても魅力的だ。


 それに髪型もいつものハーフツインではなく、二つに結んで両肩に垂らしたおさげ髪。週末限定のような特別感があって得をした気分。……正直言うと、こっちの髪型の方が好きかもしれない。


(な、慣れない……)


 校内でのような自分らしさを出せないでいると、長田さんは左腕の腕時計に目線を落として息をついた。


「じゃあ、まずはとりあえずランチにしましょ? 早海くんはどこか行きたいお店とかある?」


「あー……ね、値段が高すぎないお店だったら、どこでも」


「高すぎないお店……なら、ファミレスにする? 私もランチにはあまり拘らない性格だから」


「う、うん。それで大丈夫」


「決まりね」


 滞りなくお互いの考えが一致し、最初の行き先はファミレスに決まった。


 ……もしかしたら、俺と長田さんってけっこう相性がいいのかもしれない。こう、考え方が似ているというか。


「行こ?」


「……」


「なに恥ずかしがってんの、ほら」


「お、おおお……っ?」


 躊躇する俺の右手を長田さんが手に取って、そうして隣り合った俺たちは道中を穏やかに談笑しながらそのまま近くのファミレスへと向かって行った。

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