1章 憧れの向こう側 相川智香編
1.学年首席の優等生
プロローグ わたしだけのお兄ちゃん
……お兄ちゃんが欲しいなぁ。
わたしがそう思うようになったのは、中学校に進学してから数週間が過ぎた頃。
クラスの中で気が合う女の子の友達と楽しくお話をしていると、決まっていつも、その子の口から高校生だという実兄の自慢話が話題に挙がってくるからだ。
落ち込んでいると、励まして慰めてくれる。
困っていると、いつだって相談に乗ってくれる。
泣いていると、笑いながら頭を撫でてくれる。
笑顔で嬉しそうに話してくれるその子と一緒に居る時間が長くなるにつれて、次第にわたしの心の中でも『お兄ちゃん』に対する関心、そして憧れ、ついには欲求までもが徐々に徐々にと強まっていた。
もし、わたしの隣にお兄ちゃんが立っていてくれたら……一体、どんな風にわたしを可愛がって、甘えさせてくれるのかなあって。
家に帰ると、いつもわたしはその子から聞いた話を元に、頭の中でぽわぽわっとそんな光景を想像しながらあんなことやこんなこと……。
女の子とは違う、たくましくて大きな男の子の手の平で、わたしの頭をポンポンって優しく撫でてくれたり……手を握ってくれたり、するのかな?
もしわたしが落ち込んでいたら、お兄ちゃんはわたしのことをギュって抱きとめたりしてくれるのかな?
そんな飛躍し過ぎた想像が大半で──だけど、そう在ってほしいなというわたしの想いも本物で。
わたしの傍には優しいお母さんがいて、家族思いのお父さんがいて、しっかり者の紗彩がいて、元気いっぱいなひまりがいて……だから別に、寂しいわけではないけれど。
でも、それでもあと一人──わたしたちを支えてくれるお兄ちゃんがいてくれたら、嬉しいのになって。
……嬉しいのになあって。
『──……ごめんな、お父さんの事情に付き合わせてしまって』
それから月日が経ったある日。お父さんが勤めている会社の関係で、わたしたちは県外に引っ越すことになった。
それまで仲良くしていた学校の友達とも別れることになって、とても寂しい気持ちでいっぱいにはなったけれど……それでも、わたしたちを大事に想ってくれるお父さんのためなら仕方がないと割り切って、中学三年生になる目前だった時期にわたしたち相川家は地元を離れた。
引っ越し先はお母さんが事前にリサーチしてくれていたおかげで特に困ることはなかった。
お父さんが勤める会社とわたしたちの転校先とで利便を図るように、市内の中心地から少し離れた交通サービスの融通が利く中規模の住宅地。
その一角に誰にも使われていない空き家があったみたいで、そこに目星を付けたわたしたちはリフォーム工事を業者さんにお願いして住まうことを決めた。
当たり前だと思っていた今までの日常がゼロからのスタートになって、これから先の人生に色んな思いや不安で緊張はしていたけれど──同時に少し、わたしは張り切っていた。
考え方によっては、これは内気な自分から脱却するためのチャンス。今、この地域でわたしたちを深く知る人物は誰もいない。
引っ越す前の穏やかな日々に不満があったわけではないけれど、今回の一件を機に、わたしは生まれ変わって新天地デビューを飾るのもいいのかもしれない。
気の合う友達をたくさん作って、学生生活を思う存分満喫して、その中で将来の夢を見つけたりして。あとは……男の子と、恋を、してみたりとか?
そんな風に、今のわたしだったら出来ることは何でもある。ある意味無敵で希望に満ち溢れている最高潮のわたし。
来年を迎えればわたしも高校生。いつまでも子供のままじゃいられないし、わたしがわたしらしく在るためにこれまでを見つめ直す良いタイミングがきたんだろうなって。
……いつまでも空想のお兄ちゃんに思いを抱く、幼い女の子のままじゃだめなんだって。
そうプラスに捉えながら意気込んでいたとき──その出会いは突然だった。
(……か、かっこいい……)
新居に引っ越してきてから数日が過ぎた頃。わたしたちの隣に住むご近所さん、早海家の皆さんに挨拶をしようということで、揃って玄関前に赴いた相川家。
そこで目にしたのは人当たりが良さそうなご夫婦さんと、わたしと年齢が近そうな可愛い女の子が一人。
……そして、ふんわりとした柔らかな面持ちがとても素敵な、体格のいい男の子だった。
『は、早海千尋です。よろしくお願いします』
男の子の名前は千尋くんというらしい。
今まで見てきたどの男の子よりも落ち着き払った姿勢に温厚な瞳。だけどちゃんと男の子らしい体の逞しさもあって、彼を前に、わたしはこれまでに感じたことがないくらいのドキドキに身体が支配されていた。
(な、何歳なんだろう。わ、わたしよりは、歳上だよね……だ、だって、こんなに大人っぽいし……)
まともに顔さえ合わせられない。男の子と話すのが苦手なわたしだけど、この感情はそれとはまた別──あまりにもこの人が魅力的すぎるから、わたしは極度の恥ずかしさに俯いてばかりだった。
ご近所挨拶の際にはしっかり相手の目を見て話すことって、お母さんとお父さんから事前にそう教えられていたのに……これだとわたし、すごく失礼なことしてる。
(な、なにか、なにか話さないとっ……わたしが、ダメな子だって思われないように、なにかっ……!)
必死に、必死に、必死に考えて。
お母さんとお父さんがお辞儀をして挨拶を終えたそのタイミングで、わたしはここしかないとグッと踏み切って、勇気を振り絞って声を出していた。
『わ、わたしたちは、まだここに引っ越してきたばかりで、分からないことだらけで……友達も、まだ誰もいなくて。だからその、千尋さんさえ良ければわたしたちと仲良くしていただけると……う、嬉しいです』
──言い切った! わたし、頑張って言い切った!
恥ずかしさでまたすぐに俯いてしまうわたしだったけど、心の中では使命をやり遂げた感で歓喜の嵐。
ちゃんと千尋くんの目を見てわたしの思いを伝えられた、前を向けた。本当に、すごく頑張ったと思う。
……だけど、今のわたしの拙い言葉で千尋くんはどう感じ取ってくれたんだろう。
もしかしたら、子供っぽいって思われたかな……?
そう思うと嬉しくなっていた気持ちが途端に下がって、細々と不安に駆られるわたしの未熟な精神力。
──でも、そんな不安は杞憂だったようで。
『も、もちろん。俺の方こそ気軽に仲良くしてくれると嬉しいっ……かな。あ、あはは』
嬉しそうに応えてくれる千尋くんを見て、わたしを覆っていた全ての不安が一瞬にしてフッと拭われる。
(優しい声……すごい落ち着く……かっこいい……)
色んな思いが溢れすぎて、もう何が何だか分からない。
きゅううっと締まるようなこの胸の内で、ふとわたしは友達だった子がいつも話してくれていた実兄の自慢話を思い出す。
(もし、わたしにお兄ちゃんがいたとしたら、きっといつもこんな風に心がポカポカしてたのかな……)
……お兄、ちゃん。
長女として生まれてきたわたしにはもう手遅れで、現実的に不可能だと諦めがついていた憧れの存在。
叶うはずがないと思っていた、夢物語。
でも、もしかしたら──この人なら。
千尋くんだったら、わたしがずっと思い描き続けていた理想の『お兄ちゃん』になり得る唯一の存在なのかもしれない。
だって、こんなにも胸のトキメキが抑えられない男の子、もう他に出会えるとは到底思えないから。
(千尋くん……千尋、お兄ちゃん。……いい、かも)
落ち込んでいたら、あの声で慰められてみたい。
悩んでいたら、あの包容力でわたしを優しく受け止めてほしい。
悲しくて泣いていたら、あの温かい瞳に見守られながらわたしを抱き寄せて、ソッと頭を撫でられたい。
他にももっと、もっとたくさんお兄ちゃんにしてほしい、されてみたかったことがわたしにはある。
(……千尋くんの隣に立つのに相応しい女の子になったら、わたしのこと、見てくれるかな……?)
今の未熟なわたしのままだと、千尋くんにとってのわたしは隣の家に住む近所の普通な女の子止まり。
わたしから積極的にアプローチを仕掛けて、わたしのことをそういう目で見てくれるような努力を怠らずに続けていかないと、いつまで経っても千尋くんはわたしに振り向いてくれないと思う。
運命的とも言えるこの人との出会いを、わたしは絶対に無駄にしたくなかった。
(手放したくない……このチャンスを)
誰からも勘づかれることなく、わたしは心の中でグッと強く決心する。
(もっと自分を磨いて、自信を持って胸を張れるような女の子になって、そしていつか──千尋くんにとってのわたしが身近な存在になれるように、『妹』みたいに捉えて見てくれるように、頑張りたい……!)
わたしは密かに千尋くんを見据えながら、自然と口からボソリと漏らす。
「……お兄、ちゃん」
──何もなかったわたしに、目指すべき目標が出来た瞬間だった。
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