ここだけの秘密
明日乃たまご
第1話 相乗り
――O月~、O月~――
電車のドアが開き、駅のアナウンスと冷たい空気が流れ込んでくる。
それで
ヤバイ!……酒に酔っていたが、一瞬で状況を理解した。降りるべき駅を乗り過ごしていた。しかも、最終電車で……。
目の前が真っ暗になった。O月ということは、ここは山梨県だ。タクシーで帰るにしても遠すぎる。それどころか、乗り越し料金を払ったら、手持ちは、ほぼゼロだろう。
『この電車は、車庫に入ります……』
残酷な車掌のアナウンスに希望を断たれ、ショルダーバッグを肩にかけて重い腰を上げた。
ホームに降りて立ち尽くす。
本来、この駅で降りる者たちは正確なリズムを刻んで改札口へ向かっていく。
門河と似たような境遇の乗客は、ある者は夢でも見ているように目をこすり、ある者は電光掲示板や時刻表に視線を走らせ、何か別の手段があるのではないかと方々へ目を向けながら、力のない足取りで改札に続く階段を上っていく。
門河は駅の時計に目をやった。午前1時20分、……絶望が深くなった。
とりあえず料金を精算して改札を出る。気持ちが真っ暗なら景色も真っ暗だった。見れば男性が二人、駅舎の前で棒のように立っている。
仲間だ!……そんな安堵があって隣に並んだ。
三人が横一列に並ぶ様子は、連れションに見えたかもしれない。そんなところに若い女性が声をかけてきた。
「あなた、芸人さんよね?」
「あ、ハイ! 知っているなんて嬉しいなぁ。ありがとうございます!」
売れない漫才師なのに、知られていたので一気にテンションが上がった。
「何がありがとうよ」
少し年上だろう。彼女がアハハと笑った。キュートな笑顔だった。
「あなたも乗り過ごしたのね」
「あ、ハイ……」
現実を突きつけられてテンションが
「そちらの皆さんも?」
彼女は門河の隣に並んでいる男性に声をかけた。
「ええ、新年会で吞みすぎました」
40代だろう。ビジネスマン風のオーバーコート姿の男性が、……管理職、いや、経営者といっても疑われない風格のある顔が恥ずかしそうにすると子供に見えた。
彼のオーバーコートは高級品のようだ。売れ子漫才師のMやHクラスが着ているものに似ている。それなのに背中が膨らんでいるのは、リュックでも背負っているのだろう。オーバーコートの中に背負うなど、おかしな格好をするものだと思った。
「寝過ごしたのです」
向こう側の少し若い男性は仏頂面で応じた。彼はアイドルといっても通用しそうなイケメンだった。ただ、身に着けているのはペラペラのグレーのコートとくたびれたビジネスシューズ。手ぶらだった。
「僕も寝過ごして……」
門河は慌てて言った。
「どうです。タクシーで、相乗りしませんか?」
女性が提案した。
「いいですね」
「そうしましょう」
ビジネスマン風の二人は応じたが、門河は黙っていた。たとえ相乗りだとしても、東京都内に戻るのに何万円かかるか分からない。そんな金は財布どころか預金通帳にもない。その日、酒を飲んだのだって、先輩芸人のおごりだからだ。
門河の
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げた目から涙がこぼれそうだ。いや、そんな気持ちだったというだけで、嬉しくて仕方がない。涙ではなく、笑みがこぼれた。
駅前にタクシー乗り場はあったが、タクシーは出払っていた。動き出しの速い誰かが乗っていってしまったのだろう。
「私が……」
オーバーコートの男性がスマホを出してタクシー会社に電話を入れた。そういう仕事に慣れているようだ。
「……15分ぐらいかかるそうです」
スマホをポケットに戻しながら彼が言った。
「15分か……」
イケメン男性が忌々しそうに応じた。
「寒いわね」
女性が門河の腕に、腕を回して身体を寄せた。
「エッ」
新年早々、こんなラッキーがあっていいのだろうか?……狐につままれた思いも彼女の香水の匂いでどこかへ飛んだ。きっとキャバクラか何か、水商売をしていて男性の扱いに慣れているのだろう、と推理した。
門河はショルダーバックを開けた。中には透明のフィルムにラップされたチーズケーキが山ほど入っている。無人販売店の商品だ。
「良かったら、どうぞ」
差し出すと彼女は「ありがとう」と、花が咲いたような笑みを作った。
二人の男性が、羨ましそうに見ている。彼らが見ているのはチーズケーキか、女性か?
「良かったら……」
彼らにもチーズケーキを差し出した。
「ありがとう」
オーバーコートの男性は受け取ったが、イケメン男性は遠慮した。
ほどなく四人の前にミニバンタイプのタクシーが停車した。
「私、身体が大きいので、前、いいですか?」
オーバーコートの男性が言う。
赤の他人に先制され、誰も否と言えなかった。
彼はオーバーコートを脱いだ。案の定、背中にヨーロッパブランドのリュックを背負っていた。彼はリュックをおろすとオーバーコートを着なおして助手席に座った。
後部座席は女性、門河、イケメンの男性の順に掛けた。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
タクシーが動き出すとすぐに女性が言った。
「それは良かった」
「暖かいのが何よりね」
彼女が門河の手に手を重ねた。
「え、あ、ハイ……」
「あなた、悩み事があるでしょ?」
「え?」
確かに、金がないのが悩みだった。家賃どころか、明日の食事にも窮している。だから、先輩に呼び出されたら喜んで飛んでいく。そこでタラフク食べて命をつないでいる。奴隷のように言われるまま、お粗末な芸も披露するし、先輩の代わりにナンパもする。
今頃……。門河は想像する。新宿のトーヨコでナンパした美少女を、先輩はお持ち帰りして楽しんでいるだろう。
しかし、自分に興味を示している女性を前にして、金が欲しい、なんて死んでも言えるか!……嘘をつくことにした。
「実はネットで小説を書いているんだけど、今回のお題が〝秘密〟なんだ。そのネタがなくて困っているんだ。だって俺、金ナシ、恋人ナシ、仕事ナシのナイナイズクシの身なので、秘密もなくて……」
「あら、そうなんだ。でも、小説を書いているなんてスゴイじゃない。見直したわ。……ヒミツねぇ」
彼女が小首を傾げた。それからポンと手を打った。
「こうして相乗りしたのも何かの
彼女が甘えるように言った。その実、とても押しが強い。
アネゴ、勉強になります。……門河は、胸中、頭を下げた。
「仕方がないですね」
オーバーコートの男性が応じると、イケメン男性も不承不承の様子ながらうなずいた。
「では私から、……これは私のことではなくて聞いた話ですが……」
オーバーコートの男性がコホンと小さな咳をした。
「……知り合いに刑事がいましてね。彼から聞いたのですが、容疑者の妻や娘といった関係者をナンパして、情報を聞き出したり証拠を盗み出させたりする刑事がいるそうです。刑事が、ですよ! なんでもそうやって関係した女性が50人は超えるそうです」
「そいつはゲスだな」
突然、運転手が声をあげた。
「女性の敵ね。おまけに警察の恥部だわ。他には、どぉう?」
女性が声を鼻にかけて促す。
「私はこのくらいで……」
オーバーコートの男性は苦笑して口を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます