出力された同意

@assembly

出力された同意

 図書館にいます。博物館にはいません。

 図書館はあるけれど、博物館はない。そういう規模感の町に住んでいます。そして多分この町で死にます。

 カチャカチャと音が鳴っているのは、隣の席で髪の長い女の子がキーボードを叩いているからです。ちなみにそのキーボードは、何とも繋がっていません。スタンドアローンです。

 彼女はミサキという名前を持っています。漢字でどう書くのかは知りませんが、大して重要でもないと思います。大切なのは、我々が彼女をミサキさんと呼べることです。

 ミサキさんは初めからキーボードを叩いていたわけではありません。これは彼女の母親から聞いた話ですが、初めはドラムを叩いていたそうです。しかしながら図書館でドラムを叩くのは大変に迷惑な行為である、との職員の指導によって、キーボードを叩き始めたようです。

 なるほど確かに、ドラムよりはキーボードの方が迷惑ではない。しかしながらキーボードだけをひたすらに叩いているというのは、大変に不気味です。何も出力されていないわけですから。

 ミサキさんは、図書館が開館してから閉館するまでの十二時間、キーボードを叩き続けます。そして僕はそれを十二時間、隣の席で聞き続けます。この生活も九年目に入りました。僕は無職です。


 窓の向こうに雪が降っている。太平洋に面するこの町に雪が降るのは珍しいことです。

「ミサキさん、雪が降っています」

「カチャカチャ」

「ミサキさんはどうして雪が降るのか知っていますか」

「カチャカチャ」

「空の上に雪の神様がいて、その雪の神様が今日は雪を降らそうかと考えると、雪が降るんですよ」

「カチャカチャ」

「迷惑ですよね」

「カチャカチャ」

「ほら、この町ってめったに雪が降らないじゃないですか。だからノーマルタイヤのままで冬を乗り切ろうとする人たちが結構いるんですよね。そういう人たちが雪の降った日、幹線道路とかで事故る。すると渋滞が発生するわけです。勘弁して欲しいですよね。前にも話したと思いますが、僕がこの世で一番嫌いなもの、それが渋滞なんです。戦争よりも嫌いです。渋滞に巻き込まれるより、戦争に駆り出された方が、いくらかマシです。ミサキさんもそう思いませんか」

「カチャカチャ」

「ミサキさん」

「カチャカチャ」

「好きです」

「カチャカチャ」

「世界の誰よりも」

 窓の向こうに雪が降っている。太平洋に面するこの町に雪が降るのは珍しいことです。


 せっかく図書館にいるのですから、本を読んでみましょうか。ちょうどここに、ジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』があります。開いてみましょう。うわあ、文字がいっぱいだ。

 ところで僕は文字が読めません。そういう病気なのです。この病気のせいで、色々と苦労してきました。けれどもこの病気のおかげで、余計な面倒から逃れられたようにも思う。社会というのは実に上手くできている。

 誤解しないでください。僕は幸せです。幸せそのものです。

 さて、僕は文字が読めませんから、『ホワイト・ジャズ』も読めません。ですがジェイムズ・エルロイがそこで何について語ろうとしているのかは、ありありと分かります。つまるところ彼は、現実というのはままならないものだと、我々に伝えようとしているわけです。

 え、どうして分かるのかって?

 逆にどうして分からないのですか?


 ある日、男はいつものように図書館を訪れるが、ミサキの姿が見当たらないことに気づく。こんなことは初めてだった。すっかりパニックに陥った彼は、ちょうど近くにいた職員に声をかけた。

 ミサキさんはどこですか。誰ですか、ミサキさんって。いつもキーボードを叩いている、髪の長い女の子ですよ。いましたっけ、そんな人。いつもあの席に座って、カチャカチャと音を鳴らしていたじゃないですか。すみませんが、記憶にありませんね。そんな馬鹿な。あんまりしつこいと、警察を呼びますよ。嘘をつくな、本当のことを言え。やめてください。ミサキさんを返せ。誰か、誰か、早く警察を!

 こうして男は逮捕された。初犯だったので、執行猶予がついた。判決の日は、雪が降っていた。町のあちこちでスリップ事故が起き、渋滞が生じていた。

 他に行くところも思いつかないので、男は図書館へ向かった。出入り禁止になっていたが、警備員が新米だったので、難なく入ることができた。やはりミサキはいなかった。ミサキがいつも座っていた席には、坊主頭の高校生が座っており、彼はスマホでゲームに興じていた。

 ふざけるな、と男は思った。気づいたときには、高校生に馬乗りになって、その顔面を殴っていた。世界が遠く感じられた。血のにおい。誰かが叫んでいた。自分かもしれない、と男は思った。床に転がったスマホには、「ステージクリア」の七文字。もちろん男はそれを読めない。男は文字に囲まれていたが、文字は男に何も伝えなかった。


 あれから僕も少しは賢くなったと思います。刑務所に入って本当によかった。迷惑をかけてしまった人たちには、本当に申し訳ないと思っています。

 差し入れをありがとう。ジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』。ゆっくり、本当にゆっくりではあるけれど、読み進めています。やっぱりエルロイは、現実のままならなさについて、書いているのだと思います。

 ここへ出たら、南へ行こうと考えています。もっと早くそうするべきでした。博物館はないけれど図書館はある、そういう町に腰を落ち着けて、自分の人生を立て直したい。そう思うことくらいは、僕にも許されてしかるべきです。

 そういえば昨日、ミサキさんの夢を見ました。ミサキさんは相変わらずキーボードを叩いていましたが、驚くべきことに、キーボードがモニターに接続されていたのです。僕はミサキさんが何を書いているのか知りたくて、モニターを後ろから覗き込みました。するとそこには、こう書かれていたのです。


 私も。

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