第8話 人は誰もが皆、等しく幸せになる権利がある
二人の女性の視線が交錯する。
「私は知ってる」
黒服の女性が確信に満ちた声で切り出す。
「クミコさんがさっき話した調和と均衡。それを保つために人は時に苦悩を背負う。でもそれは全ての人間が均等に背負ってるものじゃない。一部の人間はとても大きな苦しみを背負わされている。この人もその一人よ」
サングラス越しなので、相変わらずその表情は読み取れない。
「誰かの犠牲の上に保たれる調和・・?そんなのおかしいよ。たとえそれが自然の摂理だとしても。人間は誰でもみんな等しく幸せになる権利がある」
何か彼女の信念が垣間見えた気がする。
「それと」
私に顔を向ける。
「この人は過去に囚われてなんかいない」
わずかな間がある。
「この人が思い続けるひとは今ここにいる。ずっとここにいる。その気配をずっと感じているはずよ。そうでしょ?」
まるで私に訴えかけるような口調だ。
「だから・・・忘れられるはずもない。だっているんだもの。すぐそばに」
私は徐々に自分の感情が揺さぶられるような気がした。
「おかしなことを言ってこの方を混乱させてはいけないわ」
シスター・クミコはどこまでも平坦な口調だ。
「それにあなたは何か思い違いをしている。私には誰かを救える力なんてない。私にできるのは、教義を通じて苦悩を少しでも和らげるお手伝いをすることよ」
「クミコさん、はぐらかさないで。あなたには悲しい運命を背負った人を救う力がある。その力で私の母を救ってくれたじゃない。その力をなぜ使わないの?なぜ避けようとするの?」
「さきほど言った通り。代償を伴うからよ。・・・あなたのお母さんは・・とても気丈で芯の強い人だった。そうね・・あなたにまだ話していないことがある。いつか時がくれば話そうとしていたけど。でもいまここで話すことではないわ」
シスター・クミコの言葉を全く予想していなかったのか、黒服の女性のとまどいがそのサングラス越しから伝わってくるようだ。
「お母さんは言ってた。クミコさんのお陰で私は真実を知ることができた。そして苦しみから逃れることができた。クミコさんにはとても感謝してるって」
黒服の女性の声が少し震えているのがわかる。しかしシスター・クミコは一切の迷いがないかのように受け答える。
「知らなくていいこともあるのよ。・・・選択肢が増えるほど人の苦悩は増える。それが大きな決断を伴うものであればなおさら。私の洗礼は誰かを救うどころか、苦悩を深めるだけなのよ」
シスターは記憶を辿るような口調で話す。部屋には相変わらず微かな風が絶え間なく吹き込み、レースのカーテンを優しく揺らし続けている。窓から入る日差しが強くなるにつれ、部屋の陰影が色濃くなっていくようだ。時間の感覚はすっかり失われている。
「さあ、そろそろ次の礼拝の準備をしなくちゃ」
シスターが唐突に話を切り上げようとする。すると、計ったかのように、ドアをノックする音がして、失礼します、とシスター・ノブコが入室してくる。そして、手際よくティーカップをトレイに回収していく。
「いかがでした?この紅茶。とても美味しかったでしょう?ここに来られるお客様はみんな美味しいって言ってくださるのよ」
「ノブコさん、この方々をお見送り差し上げて」
「え、あ、はい・・院長は?」
「私はこの場で失礼させてもらうわ」
「はい・・わかりました」
怪訝な表情を浮かべつつもシスター・ノブコはさあ行きましょうか、と私たちをドアに誘導する。
私は腰を上げる。黒服の女性は手を握りしめ、唇を固く結びながら立ち上がる。
「また来てくださいね。礼拝は毎週あります。いつでもあなたのお悩みを聞くことができるわ」
あっはい、と私は振り向きざまに返事をする。シスター・クミコはまるで私達を慈しむかのような表情を浮かべている。
「レミちゃん」
シスター・クミコが優しく彼女の名前を呼ぶ。
「近いうちにゆっくり話しましょう。あなたには伝えないといけないことがある」
しかし彼女は振り向かずにそのまま部屋を出ていった。
シスター・ノブコに先導されて長い廊下を歩きながら、私の頭の中では無数の疑問が渦巻く。この人を混乱させてはいけないわ、とシスター・クミコは言った。黒服の女性が語ったことは荒唐無稽なことだったのだろうか。私にはとてもそうは思えなかった。むしろ、黒服の女性が言った通り、シスター・クミコが何かを避けているように感じた。黒服の女性はこうも言っていた。私は過去に囚われているのではない。大切な人はすぐそばにいる。しかしそれは、物理的な距離のことではないと私は直感していた。それに、いまここにいる、という表現にも何か違和感がある。どうしてそんな表現をしたのだろう。それは単に彼女特有の言い回しなのだろうか。しかしそれも私の直感が否定していた。そのことと、シスター・クミコが避けていたことには何か繋がりがある気がしてならない。だとすれば、私にはまだあの人と巡り合える希望があるのだろうか。すぐ近くにいるのなら、その可能性があるということではないか。この願いを叶えるためにもし何か特殊な力が必要なら、そのシスターの洗礼というものを受けたい。でもそれには代償が伴うと言っていた。一体どんな代償を払わなければならないのか。恐らく、私がその洗礼をお願いしても、シスターは断固として断るだろう。あの有無を言わせない拒否の仕方。洗礼は相手の苦悩を深めるだけなのだと。私は、シスター自身が何か大きな十字架を背負っているようにも感じた。聞きたいが山のようにある。私のすぐ後ろを歩く黒服の女性に。でも今はそのような雰囲気ではない。そういえば猫の姿が見当たらない。まだ部屋にいるのだろうか。とにかく、この教会を出て少し落ち着いたら、彼女に聞いてみよう。そもそも、彼女と初めて会った時、彼女は私に対して何かを感じ、そしてシスターに合わせようとしたのだ。それはやはり、シスターの洗礼を受けさせるためだったのだろうか。様々な疑問を抱えたまま、私たちは勝手口で靴に履き替え、再び教会へと入った。
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