第7話 大いなる調和

 教会で初めてシスターと視線を合わせた時、すべてを見透かされたようで胸がざわついた。どうやら、その感覚は正しかったようだ。私はあの人にもう二度と巡り合えない。その言葉が私の中で何度も反響する。反響が増すたびに、私の周りからあらゆるものが遠ざかるような錯覚に陥る。シスターを直視できず、視線が泳ぐ。恐らく、動揺を隠せていないだろう。

「ごめんなさい。もう少しオブラートに伝えることができればよかった」

シスターは膝元の猫に視線を少し落とした。

「あなたは似ているの。昔の私に」

どこか遠くで、鳥の甲高い鳴き声する。

「だから少し感情的だったかもしれない」

「いえ・・大丈夫です」

とにかく何か言葉を発せねばと思い、なんとか声にした。

「少し断定的だったわね。確かにこの先、その方といつかどこかで巡り会える可能性はゼロではない。でもね、この世界は、私たちが思っているより厳しく、非情で、そして冷酷なの。いえ、無垢な世界に対して、私たちが好き勝手に甘い幻想を抱いている。私たちが自分の理想を投影しようとして、世界を歪んだ目で見ている」

カップをコースターに置く乾いた音が聞こえる。黒服の女性は相変わらず帽子とサングラスを着用したままだ。

「私たちは、そうして誰かへの想いを抱えながら生きる。きっといつかはその願いが叶うと信じて。ある人はその大切な誰かと添い遂げることができる。でもある人は願いが叶うことのないまま、ただ時間だけが過ぎていく。そして過去に囚われ続けることになる。でもよく見てほしいの。過去ではなく、今を。そこには今まさに芽吹こうとしている、まるで幼い光のような邂逅がある。出会い、よ。あなたを大切に思っているくれる人は、すぐそばにいる。いま、ここにいるのよ。だから前を向いてほしい」

シスターは窓のほうに視線を向け、少し眩しそうに眼を細める。

「・・・あなたが想い続けるその大切な誰かのこと・・忘れなくてもいいのよ。ただ、その人のためにできることがある」

シスターは再び私に視線を向ける。

「祈りよ」

私も目をそらさない。

「ただ祈るのよ。その人の幸せを」

掛け時計の振り子は、そのペースを変えずに揺れ続ける。

「私たちはね、調和の中に生きている。誰かの思いが叶えば、その陰で、思いを叶えられない人もいる。そうして均衡が保たれる。これは自然の摂理よ。その摂理に抗おうとすれば、調和は乱れる。渇望は、どこかで歪を生む。その歪は、やがて負の連鎖になり、多くの不幸を生むことになる。あなたがどうしてもその人に逢いたいと願う。そうして心がさ迷う。過去に向かって行動する。あなたの近くにいる、あなたを思う人は、抜け殻のあなたをただ見ることしかできない。悲しみが生まれ、諦めが生じる。巡り合えるはずだった心はすれ違い、次第に離れていく。もう二度と届かない距離に遠ざかる。芽吹くはずの幼い光は夢の中に消え、また過去に囚われる人を生む。そうして負の連鎖は広がる。それは時に大きな悲劇を生むのよ」

シスター・クミコは言葉を紡ぐ。

「どうか、いまこの瞬間に目を向けて。過去に囚われることなく、その大切な誰かの幸せを祈りながら。そして今を生きて。あなたの近くにいる大切な人に気づいてあげて」

シスターが力強く、そして確信をもった視線を私に投げかける。

シスターが言うように、私はずっとあの人のことを想うあまり、心は今この場所に無いのかもしれない。もう前に進むべき時が来ているのかもしれない。今日、シスターとこうして出会ったことも、そのことを私に知らせているのかもしれない。でもどこか違和感を感じていた。心のどこかで、違う、と小さな、しかし悲痛な叫び声が聞こえた気がした。私はこのままではどこにも進めない気がした。このままではダメなのはわかっている。しかし、過去の一点を見つめ続けるもう一人の私と折り合いが付きそうにない。あの人の幸せを祈る。それは大切なことなのだろう。でも、同じ世界にいるはずのあの人の幸せを、遠くからただ祈るだけなんて、私には耐えられそうになかった。それは渇望であり、私を苦しめるだけなのだろうか?それとも私は、シスターが言うように、すぐ近くにいるはずの、別の大切な誰かに、ただ気づいていないだけなのか。それとも、気づかないふりをしているのだろうか。わたしは自分が奈落に落ちていくような不安に襲われる。

「クミコさん」

乾いた声がした。

「私はそうは思わない」

黒服の女性が、唐突に口を開く。

「忘れられない人がいるなら、もう一度逢いたい人がいるなら、自分の気のすむまで、納得するまで、求め続ければいい。例え人生の大半の時間を失うことになったとしても。後悔が残れば、それこそ、過去に囚われることになる」

彼女の口調は淡々としているが、少し熱を帯びていた。

「それに」

少し間ができる。

「私はそんな幸福論を聞かせるために、この人を連れてきたわけじゃない」

また、間ができる。

「・・・私にはまだ力が足りない。だから、この人を最初に見た時、まだはっきりわからなかった。でも・・教会でクミコさんがこの人を見た時の・・その一瞬の反応を見て、確信したわ」

古い掛け時計から鈍い鐘の音が聞こえる。文字盤の短針は11を指していた。

「この人の願いを叶えることができる。クミコさんの洗礼で」

しかし、彼女の言葉を予期でもしていたのだろうか。最後の言葉を言い終える前に、シスター・クミコは短い言葉をかぶせる。

「だめよ」

冷たく発せられたその一言に、部屋の空気は凍りつく。時間が静止してしまったかのようだ。膝元にいた猫は急に眼を開いて飛び降り、元居た書棚の隅に座り込む。シスターが黒服の女性に鋭く視線を飛ばす。まるで別の人格が乗り移ったかのように。

「法を乱せば、必ずその代償を払うことになる」

私はこの二人が、一体、何を話しているのか全くわからなかった。しかし、それが私の想像を超えた世界の話であることだけは、かろうじて理解した。

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