第2話 近くて遠い気配

 早くなった鼓動は、次第に落ち着きを取り戻してきた。淡い黄色のハンドタオルは、同じ場所にある。何人もの人がその傍を通るが、まるでハンドタオルなど落ちていないかのように素通りしていく。持ち主の女性はすでに構内に吸い込まれていて、タオルが持ち主の元に帰ることはないと、すぐに悟った。床屋の中に案内された私は、カットされている間、ずっと頭の中で展開されるストーリーに意識を委ねていた。そのストーリーとは、もちろん、ハンドタオルを拾い、持ち主の女性に手渡した私のその後である。でもそれは、いつもの私の妄想と違いは無かった。あの瞬間、鮮やかに脳内に展開されたイメージと、いつもの妄想は明らかに違ったのだ。私は、タオルを拾わなかった現実に居る。だがしかし、タオルを拾った現実も、間違いなく、そこに存在したのだ。カットが終わり、店をでると、淡い黄色のハンドタオルは、すでにそこに無かった。きっと誰かが拾ったのだろう。そう思う私の傍ら、つい少し前に起こった一連の出来事が、現実のものか、少し自信を持てない私がいる。

 帰宅する道すがら、私は地に足がつかず、ふわふわと浮いているような感覚に覆われる。空は抜けるような青空が広がり、柔らかな風が頬に心地よい。ふと、あの女性の後ろ姿に、記憶の糸がピンと引っ張られるような気がした。この季節と、陽だまりと、そして、風になびくやわらかい髪。どうしても喚起してくる遠い記憶。最近読んだ仏教思想に関連する本で、阿頼耶識という概念が説明されていて、つまりこの世界は、瞬間の連続なのであって、そこに過去や未来などといった時間の流れは存在しないと。そしてその瞬間瞬間を想起するのは、人の意識であると。もしそうであるなら、あの瞬間を想起したのは他の誰でもない、この私である。だが、こうも考えられないだろうか。誰が私にあの瞬間を想起"させた”のだろうか?そんな疑問が唐突に、湧き上がってくる。瞬間を想起するのが人の意識であるなら、その主体は、当然、私だけではない。意図があってもなくても、何かの因果が、そこにあるような気がして、私の心に、波風を立たせ始めた。

 翌朝、私は会社に向かういつもの道を歩いている。大きな水路の両側は、桜が満開に咲き、時折吹く風に、花びらが美しく舞っている。駅ビルからその水路へ降りる階段を下っていた私は、ふと遠くに、髪を背中で束ねているスーツ姿の女性にくぎ付けになる。また鼓動が早くなる。一輪の風が吹き抜ける。胸が締め付けられる。この光景。この匂い。現実がゆらゆらと揺らぎ始める。でも、停止していた足元のエスカレーターが、人の接近を感知して自動で動き始めた機械音に、ハッと我に返る。一瞬、エスカレータを確認するために下げた視線を、もう一度、彼女のいた方に向ける。しかし、そこに彼女の姿は無かった。まるで、桜の花びらとともに、一輪の風になって吹き消されたかのように。私のまわりには日常の時間と空間が戻ってくる。

私が彼女をずっと求め続けたように、彼女ももしかして、同じように求めてくれているのだろうか。無限に分岐した世界が、もう二度と重なりあうはずのない世界が、儚い想いで紡がれた細い細い糸で、今また、あのとき巡り合った、たったひとつの世界へと私たちを導いてくれているのだろうか。彼女の気配を確かに感じる。でもそれは、近いようで、あまりに遠い気配だった。

xxさん、そこにいるの?

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