もうひとつの物語1

ずっとくすぶっている人

第一部

第1話 ある世界の語り部

 最近は何でも物の値段が上がり、ほとほと困る。私は元々、生活にお金のかかる人間ではないと思っていて、いきなり生活が苦しくなるとか、そういったことは無い。ただ、これまで以上に節約は意識するようになった。例えば散髪。大体、3か月に一度のペースで髪を切る。少し前までは、駅の近くにある床屋を利用していたが、最近は専ら駅施設内にある1000円カットである。髪型に拘りがあるわけではなく、伸びたら切ればよい的な性格なので、カット以外のサービスは不要、従って1000円カットで十分なのである。ただ最近は1000円カットも値上げが頻繁に行われ、いまや1300円である。3割増し。2000円カットになる日もそう遠くないのではと思わせる値上げペースである。そんな1000円カット、物価高で需要が伸びているらしく、休日は開店前から長蛇の列。店の入り口に混雑度合いを示す3色のランプが設置されているが、ランプの色は、最も混雑している状況を表す赤のランプが点灯しっぱなしなのである。赤ランプだと大体1時間待ち。1時間も待たされるときついように思うが、スマホをいじいじしていればとあっという間である。休日に特段やることもなく、暇を持て余している私にとっては、その時間がもったいないと思うこともない。


 そんな訳で、この日も開店10分くらい前に店に着くと、10人以上の待ち行列。まあそうだよな、と思いつつ、最後尾に立ち、スマホを取り出す。最新のニュース記事などをパラパラと眺める。これといって気を引く記事は無い。ぼんやりする。頭の中を、断片的な過去の回想が駆ける。人生を30年以上も過ごしていると、もう目新しいことはあまりない。同じことを繰り返す毎日。すると、私の意識は過去に引っ張られていく。楽しい記憶より、辛い記憶のほうが、再生回数は圧倒的に多い。すぐに打ち消したくて、頭を左右にぶんぶん振ってみたり、両目をぎゅっと閉じてみたり、小さな声で独り言を言ってみたり。周りから挙動不審に見られないよう注意はするけど。あの時ああしていればよかったとか、後悔は山のようにあるし、でもどれだけ内省したところで、過ぎ去った時間はもう戻らない。スマホを見てるだけでは感情を抑えきれなくなりそうだったので、顔をあげて通路を行き交う人たちを眺める。人間観察はあまりしないが、今日はなんとなく、そのほうが気は紛れるように思った。まだ午前の早い時間帯で、これから出掛けるであろう人たちが、次々と駅構内に吸い込まれていく。家族連れだろうか。幼稚園くらいの女の子がとても楽しそうに、父親と母親に笑顔を振りまいている。あの子にとっては、世界は、きっと光で溢れかえっていて、満ち足りた日々を過ごしているのだろう。決して光のあたることはない、遠い過去に心をさ迷わせることもなく。一人の女性が私の前を通りかかる。いや、正確には、その女性は私の前を通りすぎた後だった。だから女性の顔ははっきり見なかった。後ろ姿から、20代前後だろうか。彼女の後ろ姿に意識が向かったその時、彼女のポケットからハンドタオルのようなものが床に落ちた。淡い黄色のハンドタオル。そのハンドタオルを認知したと同時に、私の世界は2つに割れた。いや、私の頭の中で、鮮やかに、そして、決定的に、2つのイメージが同時に広がる。その床に落ちたハンドタオルをただ眺め続ける私と、ハンドタオルを拾い、持ち主の女性に声をかける私。それはただのイメージではなく、両者とも、これから生まれてこようとする、現実のようだった。私は意識がぐらつき、よろめきそうになる。そして同時に、「平行世界」という4文字が、くっきりと、まるで音読でもしているかのように、頭の中に響きわたった。

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