第8話

 翌朝になってひとりになった時を見計らって部屋を出ようとしたところで公爵様と出会した。

「どこか行くのか」

「ええ、船医室に」

「私も行こう」

「いえ、大丈夫です」

「君は病み上がりだろう」

 ひとりで行くと伝えても公爵様は決して譲らなかった。

 納得はしていなかったけれどどうにか船医室の近くのラウンジで待ってもらえることになってやっとひとりで船医室にたどり着くことができた。

「あの、妊娠しているか確かめたいのですが」

 船医室を訪れると口にしていたパンから手を離した船医が快く迎え入れてくれた。

「いいよ」

 いくつかの質問と機械と尿の検査を済ませると「触診するから下着を脱いで寝転んで」と言われて戸惑った。

「ま、待ってください」

 ゴム手袋をはめた手で視線が重なった。

「あの。実はしたかわからないんです」

「わからない?」

「初夜の、記憶がなくて」

「⋯⋯⋯⋯ああ、なるほど。わかった。じゃあ機械と尿で検査をしよう」

 この時代、女性が結婚する場合、特に目上の人と婚姻を結ぶ場合、女性は純潔であらねばならない。結婚をしていたとして、もしまだ致していない場合触診をするとなると純潔ではなくなる。それがたとえ医療上のこととはいえ許されることではない。

 したかはわからない。

 初夜の記憶もない。

 そこに含まれるあらゆる意味を汲み取ってくれた船医に心の底から感謝する。

 少し時間がかかると助手の女性に別室へ案内を受ける。

 隣接された部屋は丸テーブルに椅子に簡易ベットに簡易キッチンがあった。中には個々のカップやソファーやラジオなども置かれ割と生活感があった。

「ココアいれたの。飲まない?」

 女性が微笑んで席を促した。

「ありがとうございます。いただきます」

 渡されたカップからは湯気とともに甘いにおいが包み口にすれば体を芯から温めて強張りを溶かしていくようだった。

 とっておきよ。と出してくれたケーキに舌鼓を打ちながら彼女の話を聞いていく。

「いろんな国を巡るでしょ。だからものが増えて、こんな感じになってるの。他の乗組員には内緒よ」

「はい」

「船医室って言っても患者なんて滅多に来ないの。大袈裟だから船を降りて即入院がほとんど。だからこうして最後にお茶を飲めるのは嬉しいのよ」

「⋯⋯最後?」

「今回で船を降りるから。私結婚するの」

「おめでとうございます」

「ありがとう!」

 嬉しそうに微笑んだ彼女がきらきらと輝いて見えた時ちょうど扉をノックする音が聞こえた。

「検査が終わったみたいね」

 お礼を言って船医室に戻る。

 船医が向き合った机の近くの丸椅子に座れば船医は書類を眺めて確認するように目を滑らせていく。

「検査の結果だけど。うん。君、妊娠してないよ」

 妊娠していない。

 そう言われて、不思議な感覚に陥っていた。

 落ち込むでもなく喜ぶでもなく。身体がふわふわとした不思議な感覚があった。

 自分のことだと思えなかったからだ。

「そうですか」

 言い表すなら感情の落ち着き場所が定まらないようなそんな感じだった。

「船酔いの方はどう?」

「だいぶ良くなってます」

「じゃあ薬は今のを飲んで終わりにしよう」

「はい」

「そういえば君、カサミラーニュに行くんだって?」

「はい。⋯⋯あれ、私話しました?」

「ああ、君の旦那さんと話してね。あの街は食事が美味い。ぜひ、満喫してくるといい。船酔いなんてものはすぐ忘れる。旦那さんにたんまり食わしてもらうといい」

 いくつか言葉を交わしてお礼を述べて船医室を出ると公爵様が駆け寄ってきた。

「船医はなんて?」

「うん、もう大丈夫みたい」

 妊娠していない。

 それはこの物語に沿っていてはじめからわかっていたはずなのに、私には公爵様の目を見ることができなかった。

「⋯⋯ベラ?」

「なに?」

 不自然に見えないように目を合わせるけれど視線がわずかに揺れる。

 それを公爵様は見逃さなかった。

「なにかあったのか?」

「なにも。それよりお腹空いたからなにか食べたい」

「⋯⋯じゃあ部屋で食事を摂ろう」

 公爵様は夢のように甘くはない。

 ごつごつとした無骨な手が繋がれているだけでキスもしない抱きしめることもそれ以上追求することもない。

 でも私にはそれが心地良かった。

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