コレクトインコレクト/あるいは古池紗芽の異常な日常
靄
第1話 出会いはいつも春 その①
***
『世界』歴13803571291年142日。帝国正暦1077年ラスタの2の月、4月の3日。『世界』誕生からの経過時間を読者の方々の基準で言い表すと、西暦2024年4月3日にあたるその日。揺り椅子に腰かける少女がいた。椅子のそばのサイドテーブルには、アロマフレグランスとしての役割に徹してから久しい黒々とした液体が、砂糖とミルクを入れられるのを待ちわびているうちに冷め切ってしまっていた。
少女がページを捲る。表紙に箔押しが施された上製本で、齢十歳ほどに見える少女が読むにしてはいささか仰々しすぎるような装丁の本だ。完全に一定のペースで捲られていくそのページたちには改行もスペースもなく、従って同じ速度で捲られ続ける様子からは少女がただただ『情報』として文字列を処理し続けていることが見て取れる。
そうしてしばらくが経ったとき、ふいに少女の手が止まった。天変地異が起こったのだ――天変地異が起こったせいで手が止まったのではなく、手が止まるということが天変地異である、という意味だが――。微かに目を見開くと、ふらふらと遊ばせていた足を地に付け、本を持つ両手に力がこもる。心拍数が上昇する。呼吸が浅くなる。慣れ親しんだ自宅の間取りがある日突然変わっていたとして、驚かない人間がいないように、少女もその違和感に驚いていた。
そして違和感が確信に変わったとき、少女は立ち上がった。少女が揺り椅子に腰かけてから、実に13803571291年と142日ぶりの出来事であった。
***
正義について考えたことはある?
私はある。なんならさっきまで考えてた。真の正義というものは一体どこにあるのだろうか、と。私の持論になるが、正義なんてものは人の数だけ存在する。誰かにとっての正義とは誰かにとっての悪でもあるのだ。その逆もしかり。
などとくだらないことを考えて目的地までの時間を潰す。本当にくだらない。人間が百人いれば九十五人ぐらいは考えたことがありそうな人類普遍の疑問である。……しかしこれが私の悩みなのだ。正義どうこう、ではなく人類普遍のくだらないことに悩んでしまう、ということが。
私、
おまけに私の「能力」も何と言うか、曲者である。
人はみな生まれながらにして異能力を持っている、というのは、この世界に生きる人ならどんなに馬鹿でも知っている常識だ。異能力の性質は念力や瞬間移動といった、いかにも超能力的なものから「こんなの何に使うんだ?」ってな感じの能力まで千差万別だ。
もっとも、能力がいつ発現するかは個人差があるのだが。成人しても能力が未発現の人は0.01%以下に限られる――といえば異能力がどれほど私たちの生活に身近であるかが分かるだろうか。
ちなみに、こういった異能力は通称として「タスク」と呼ばれている。厳密にいえばタスクとは能力発現にかかわる人間の潜在意識のことであってなんたらかんたら――。まぁ詳しくは専門書でも買って読んでほしい。タスクを研究している学問があるぐらいだ、専門書も探せば山のようにあるだろう。
話を戻すと、私のタスクは極めて特殊な部類のものである。しかしながらそれはまるで私をあざ笑うかのように「普通」とは切っても切り離せない性質で……まぁこれについては追々分かるだろう。
「……ふぅ。」
こんなくだらないことで悩んでしまうことにさえ凡庸さを感じてしまう。こうなっては思考の無限ループ、さながらペンローズの階段だ、それも下りの。レールの小さな切れ目によって一定のリズムで揺れる車両の中にはかなりの数の乗客がいる。無人駅のホームから乗り込んだときは私一人だったのに、今では空いている座席はほぼない。
私は気分を変えるために茶色い癖毛の短髪に手櫛を通すと、小さく背伸びをし、身体を大きくひねって窓の外を眺める。等速直線運動を続ける車窓の風景は自然と文明が調和したような不思議な街並みを描き続けていた。
そう、もうこんな悩みとはおさらばだ。私はそのためにこの街へやってきたのだから。
***
ふかふかと座り心地のいい座席に名残惜しさを感じつつ、駅のホームへと降り立つ。少し前まで長袖長ズボンでもないと凍死してしまいそうな気候だった覚えがあるが、4月の日差しは暖かく降り注いでいた。昨日スマホで確認した通り、雲ひとつない快晴だ。新たなる人生の門出としてはこの上なく相応しい。自動改札に切符を通すと、駅前のレンガ造りの広場に出た。
「プロジア」と呼ばれるこの都市は、摩天楼の立ち並ぶ大都会ではないにせよ、多くの人が住む街だ。レンガ造りの建物と植物が奇妙かつ絶妙なバランスでマッチングした街並みは、観光名所としても名高い。
やはり都会ということもあって人通りはかなり多い。少し圧倒されそうになるが、そこは気合を入れて平常心を保って歩き始めた。目的地はすぐそこなのだ。……呆けた顔を見られるわけにもいかない。お手製のフリーハンド地図と、風景画の題材にも申し分なさそうな街並みを見比べながら歩みを進める。
駅から延びる大通りから脇に逸れ、人通りの少ない、淀んだ空気がひんやりとした路地を通り抜けようとしたとき、背後で物音と声がした。
「キャッ――」
その声の主を確かめようと私が半身になった瞬間、今まで私の身体のあった空間を掠めるように何かが通り過ぎた。
「ッ――!」
その風圧に目をしかめながらも私が見たのは、両手と両足が肥大化した男と、その脇に抱きかかえられ、口を塞がれた女だった。身体操作系の能力持ちと思しいその男は、私に目もくれずに走り去っていった。
――誘拐だ、と脳が理解したのは、脚が走るのを始めてから数秒が経過してからのことであった。考えるよりも誘拐犯を追いかけることに酸素を使った方がいいと本能が判断したかのようだった。
正直なところ追いかけてどうにかできるような術があるわけではない。しかし私は「困っている人を見ると放っておけず、後先考えないで突っ込んでしまう」というこれまたステレオタイプな正義感の持ち主なのだった。
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