酪農

酒井創

酪農

 酪農家は不思議に思いながら、牛舎の中にずらりと伏して並んだ、沢山の牛たちを目の前にして立ち尽くしていた。白地に黒い水たまりを浮かべた牛たちは、まだ日が昇ったばかりの明るい朝なのにもかかわらず、揃ってすやすやと深い眠りに陥っていた。

 酪農家は一日の始まりと共に牛舎に入ると、いきなりこの光景を目の当たりにした。困惑したまま愛しい我が子のような牛たちに向かって、声をかけてみたり、体をさすってみたり、むりやり持ち上げてみようとしたが、目を覚まして起き上がってくれる牛は一頭たりともいなかった。どの牛も体に麻酔銃を撃ち込まれたかのように、長く穏やかな寝息を立てたまま深い眠りの底に横たわり、目覚める気配すらまるでなかった。寝ている牛から無理やり乳を搾ろうとも試みたが、牛たちの神経は眠ることそれのみに集中して費やされていて、一滴の乳すら出してはくれなかった。

 酪農家は最後には、まあ長く酪農をやっていればたまにはこういう日もあるか、と考えてその日は休むことにした。また明日から乳を搾ればいいさ、と自分自身に語りかけ、納得させた。

 しかし牛たちは次の日もその次の日もそのまた次の日もぐっすりと眠り続けていた。酪農家は毎日、牛を何とか起こして乳を搾ろうと試み続けたが、牛たちはその重たい体をぴくりとも動かそうとせず、意識は深く沈んだままで上がってくる兆しすらなかった。

 最終的に酪農家は牛たちから乳を搾ることを諦めるしかなかった。こんなことではいよいよ酪農を廃業しなくてはならないか、と考えるとまともに夜も眠れなくなってしまった。


 何日も経ったこの日も、酪農家はベッドの中に入ったはいいが、眠りにつける気配はまるでなかった。牛たちが自分から眠りを吸い取ってしまい、その分日中もすやすやと眠っているのではないかと考え、悩み続けていた。横になっていてもらちが明かず、眠るのを諦めてベッドから起き上がり、ぼんやりとした頭を窓の方へ向けた。外の牧場は夜にもかかわらず、異常に明るく感じられた。

 不思議に思った酪農家がパジャマのまま外に出てみると、空には巨大な乳白色の月が浮かんでいた。まるで地球に衝突するのではないかと思うほどに大きな月は、牧場に眩しいほどの光を大量に降り注いでいて、辺り一帯はまるで昼間のように明るかった。

 酪農家が眩しさに目を細めながら、月から降り注ぐ光の中をよく見ると、そこには牛舎の中にいたはずの、飼育している沢山の牛たちが浮かんでいた。どうやって牛舎を出たのか、牛たちは一匹残らず目覚めていて、空中をぷかぷかと漂っていた。宇宙遊泳でもしているようにゆっくりと光の中を漂う牛たちは皆、リラックスして気持ち良さそうな顔をしていた。

 酪農家が目の前の光景に唖然として目を奪われているうちに、牛たちの身体には月の光が蓄えられていった。乳白色の光にいっぱいまで満たされると、牛たちは一斉に口を開け、モオオオォォォ! と激しく声を上げ始めた。そしてその一斉の雄叫びを合図として、皆揃って乳頭から乳を勢いよく吹き出し始めた。放たれた白い乳は栓を目いっぱいに開いたシャワーのように、猛烈な勢いで牧場中に降り注いだ。草に覆われて緑一色だった牧場はみるみるうちに真っ白に染まっていった。

 酪農家は白い雨に打たれながら、屋根の下に避難することすら忘れていた。光の中を泳ぎ、乳を出す牛たちを見つめながら、もう少し酪農を続けてみよう、と思い直していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

酪農 酒井創 @hajimesakai1223

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ