第37話 花火、完全敗北

「桐ケ谷たちに猿轡なんて用意させる暇があったら、簡単には解けないロープの縛り方を調べさせるべきだったな」


 解いたロープと切断したロープを花火に向かって掲げてみせると、花火の口元がひくっと引き攣った。

 これ以上、こんなところにいる必要はないし、キャンプファイヤーを一緒に見ようと約束した雪代さんを待たせてしまっている。

 この場を去ろうとして花火に背を向けたところで、後ろから慌てたような声が聞こえてきた。


「ま、待ってくださいっ!! だ、だめ……!! センパイをあの人のところへは行かせませんっ!!」


 花火の身勝手な訴えを無視して足を動かす。


「だめですってば……!! センパイ!! いかないで――きゃっ!?」


 切羽詰まった叫び声が上がる。

 その直後、ズザザザザザッという不穏な音が響いた。


 さすがに振り返った俺の視界のどこにも花火がいない。


 崖を覗き込むと、かなり下のほうに丸まって苦しむ花火の姿があった。

 花火が手にしていた懐中電灯は、その遥か下で小さく点滅し、やがて消えた。


 ……何やってるんだ、あいつ。


 呆れ交じりのため息が零れる。

 花火を心配する気なんて起きないし、自業自得、なんだったら罰が当たったとさえ思えたが、ここで見捨てると、打ち所が悪くて万が一のことがあった場合、寝覚めが悪そうだ。


 仕方なく崖をさらに下り、花火が倒れている場所まで向かう。


「うっ……あうっ……」


 土の上で丸まった花火は、青白い顔をして、呻き声を零している。

 額には脂汗が浮かんでいた。

 痛みの原因は、ありえない方向に曲がった右足にあるのだと一目見てわかった。

 素人目に見ても、間違いなく折れている。


 林間学校の参加者である俺のほうは、消灯前の点呼にいない時点で不在に気づいてもらえるだろうが、ここにいるはずのない花火のことは、俺が報告しない限り、誰も探しに来ないだろう。

 桐ケ谷たちが様子を見に来る保証はないし、俺が黙って置き去りにしたら、花火はこのまま誰にも発見されることはなく――なんてこともありえるのだ。


 花火なんかのせいで、間接的な殺人者になるなんて冗談じゃない。

 崖の上に戻ったら、教師に報告してなんとかしてもらおう。


 そう考えて、俺が歩き出そうとしたとき――。


「あ……っ……」


 さっき俺を引き留めた時とは違う。

 消え入りそうなほどの小ささで、花火が心細げな声を上げた。

 理由は考えるまでもない。

 一人で暗闇の中に取り残されるのが怖いのだ。

 花火の持っていた懐中電灯は壊れてしまったし、いつの間にか月は雲に隠れている。

 昼間、押入れに入れられただけで、パニックを起こしていた花火だ。

 普通の人でも林の中の暗闇に一人きりでいるとなったら、怯むと思う。

 暗闇恐怖症なうえ、脂汗をかくほどの怪我をしている花火にとっては、ほとんど拷問のようなものだろう。

 花火がどんな想いをしようがまったく興味のない俺としては、微塵も躊躇わずにこの場に花火を置き去りにしていくことができる。


 だからこそ、ふとある考えが過った。

 これまで花火に対しては、一切優しさを見せずに突き放してきたが、その方法では花火の抱く謎の執着を断ち切ることはできなかった。


 ならば、少しやり方を変えてみたらどうか?


 暗闇は花火唯一の弱点だし、ここまで追い詰められている花火を目の当たりにする機会はなかなかない。

 この弱味に付け込み、恩を売って、今後俺に関わらないよう約束させる――、そんな作戦を試してみたくなった。

 だめで元々。

 馬鹿のひとつ覚えて突き放すより、もしかしたら効果があるかもしれない。


 ――やってみるか。


「……」


 俺がため息を吐きながらその場に座り込むと、花火は痛みを堪えた顔のまま、わけがわからないとでもいうように俺のことを見上げてきた。


「センパイ、どうして……?」

「花火は一人で暗闇にいるのが苦手だろ。この暗さの中、花火を背負って急な崖を登るのはさすがに無理だし。キャンプファイヤーが終われば、すぐに点呼があるから、二人でここにいても三十分後ぐらいには発見してもらえるだろ。ただ、怪我の痛みが辛すぎて耐えられないから人を呼んできてほしいって言うならそうするけど?」


 花火は眉を寄せたまま、首を横に振った。


「……なんで……優しくしてくれるんですか……」

「……」

「……絶対……うっ……置き去りにされると思ってたのに……」

「……へえ。そうされても仕方ないことをしたって自覚はあったのか」


 なんでもかんでも都合のいいように解釈する花火の姿に何度も呆れさせられてきたから、今回もまたそんなことを言い出すのではないかと想像していたのだけれど。


「花火のことだから、『本当は私を好きだから放っておけなかったんですよね?』ぐらいのことを言ってくるのかと思ってた」


 そっけない口調で俺が言うと、花火は青白い顔をくしゃりと歪めた。

 それから力なく項垂れる。


 たとえ自分に得があるとしても、俺に対して気弱な表情など見せないのが花火だ。

 花火は、見下している俺に弱いところを晒すぐらいなら、死んだほうがマシだと考える人間なのだ。

 だから、今のこの態度は演技ではない。


 痛みのあまり、まともな判断ができていないんじゃないか……?


 弱っている花火のことを、珍獣を見るような目で観察していると、色のない陶器のような花火の頬を、一滴の涙が伝い落ちた。

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