お品書き 二 『どら焼き』居場所を失くした者【5】
「お客様、もしよろしければ、若輩者の話を聞いていただけますでしょうか?」
「……なんだ」
雨天様が笑顔で切り出すと、お客様はひと呼吸置いたあとで雨天様を見た。
私も、お客様と同じように視線を隣に移す。
「その男性はきっと、願いを叶えてほしかったのではなく、お客様が守られていたお社が心の拠り所だったのでしょう。だから、最後の最後まで足繁く通い、あなたの分までどら焼きをご用意していたのではないでしょうか」
「ふん、なんの根拠もなかろう」
「ええ、おっしゃる通りです」
顔をしかめてため息をついたお客様に、雨天様は素直に頷いて見せた。
「ですが、彼は誰かと思い出話を共有したかったのかもしれませんよ。だから、願いは心の中で唱えていたのに、必ずひとつしていったという思い出話は声に出していたのではないでしょうか」
根拠がないなんて言ってしまえば、お客様を怒らせてしまわないだろうか。
そんな不安を抱いた私を余所に、お客様は目を小さく見開いた。
「なるほど、そういう見方もあるのか。だが、所詮は気休めであろう。本当のところは、あやつにしかわからぬ」
静かな口調が悲しみをよりいっそう色濃くするような気がしたけれど、雨天様は変わらずに微笑んでいた。
「はい。だからこそ、お客様の心が救われる方を信じていただきたいと思うのです。私がその男性でしたら、あなたを心の拠り所にしていなければ、勝手に名前など付けませんから」
優しい声が、静かに落ちていく。いつの間にか雨が降っていたことに気づいたのは、お客様が縁側の方に視線を遣ったから。
「……ああ、そうか」
ぽつりと零されたのは、柔和な声音。雨音とともに、鼓膜をくすぐるようだった。
「だったら、ポチなんてふざけた名前を付けたことくらい、大目に見てやらねばならぬな」
〝ふざけた名前〟なんて言いながらも、どこか愛おしそうに微笑んでいる。
外を見つめたままの双眸は、怖いと感じた外見からは想像もできないほど、とても穏やかで優しいものだった。
「まぁ、もし主に会えたとしたらポチなんて呼ばれていたことを笑われるだろうが、それも悪くない」
「いいえ。あなたの主はきっと、あなたをお褒めになるでしょう。最後までよく社を守ってくれた、と」
「お前に主のなにがわかる?」
「あなたの主のことは存じ上げておりませんが、私も神の端くれです。自身に仕える者への想いは、分かち合えるかと」
「若造のくせに生意気な」
視線を雨天様に戻したお客様は、雨天様の答えを聞いて目を見張ったあと、フッと笑みを零した。
ふとお客様の瞳を見れば、キラキラと光るものが浮かんでいた。
その美しさから目が離せなくなりそうだったけれど、見てはいけないものを見たような気がして、咄嗟に視線を逸らした。
「今宵は雨でございます。こうも激しく降っていますと、なにもかもが濡れてしまいますね」
雨はちっとも激しくないし、ここは室内で濡れるはずがない。
ただ、雨天様の言葉に小さく頷いたお客様を見て、私も外を見遣った。
曇った空から落ちてくる雨粒は、美しい庭を濡らしていく。
枯れ始めている紫陽花が嬉しそうに水浴びをするかのように、淡い紫やブルーの花に無数の雫を受けていた。
「ああ、なんだか疲れたな」
「きっと、腹が膨れて安堵したのでしょう。もうひとりでお待ちになることはありません。どうか、心と体をゆっくりとお休めくださいませ」
ひとり言のような声に、雨天様が穏やかな面持ちを見せる。
お客様は、「そうさせてもらおう」と頷き、雨天様に向かってそっと柔らかな笑顔を返した。
「雨天と子狐よ、最高のもてなしであった。心から感謝しよう」
深く頭を下げたお客様に、雨天様たちはニコニコと笑っている。
コンくんはほんの少しだけ不服そうだったけれど、笑顔を崩さなかった。
「小娘」
「は、はい」
突然呼ばれて驚いてしまった私に、お客様が優しい眼差しを向けていた。
無意識のうちに背筋を伸ばして、力強さを取り戻したような双眸を真っ直ぐ見つめ返す。
「そなたも、その心が早く癒えるとよいな」
「え?」
すると、気遣いの言葉を投げかけられ、どう返そうかと悩んだ。
そんな私を余所に、お客様がおもむろにその身を伏せたあとで小さな笑みをひとつ零し、そっと瞼を閉じた。
思わず雨天様を見て口を開こうとすると、唇にそっと人差し指が当てられた。
『黙っていなさい』と唇だけで伝えられ、戸惑いながらも首を縦に振る。
直後、お客様の身体が淡い光に包まれていき、その光は少しずつ強くなっていった。
目をまん丸にする私に反し、雨天様もコンくんもギンくんも様子を優しく見守っている。
お客様はまるで眠っているようで、私以外は誰も何事もないと言わんばかりだったけれど……。
「うそっ……! 消えた⁉」
ついにお客様の姿が光とともに目の前から消えてしまった時、驚嘆混じりの声を上げずにはいられなかった。
慌てて周囲を見渡したけれど、少なくとも部屋の中にはお客様の姿はなかった。
「来世もあなたに幸福の縁がありますように」
優しい声音でそんな言葉が紡がれたのは、それからすぐのこと。
雨天様の声につられたように隣を見ると、意味深な笑顔を向けられていた。
「訊きたいことがたくさんあるようだな」
「そ、そりゃあ、だって……」
さっきまでお客様がいた場所と雨天様を交互に見ると、雨天様がクッと笑いを噛み殺すように喉を鳴らす。
からかわれているような気がしたけれど、雨天様は「あとで答えてやろう」とだけ言い、お客様が使っていた食器を持った。
「雨天様~! 子狐なんてひどいですよね! コンはもう二百歳を超えているんですよ!」
そんな雨天様の後を追うコンくんは、不満を漏らしている。
さっきの不服そうな顔つきの理由はわかったけれど、今はそんなことよりももっと知りたいことがたくさんある。
「だいたい、雨天様のことだって神様とは思っていませんでしたよ! 失礼なお客様でしたね!」
「仕方あるまい。あのお客様は、我々よりも遥かに長い年月を生きてこられたのだ。私を若輩者と言えるくらいには、社を守り続けていたのだろう。神使という立場であったとはいえ、私は敬意を払いたい」
唇を尖らせてプリプリと怒るコンくんを、雨天様は優しい眼差しで見ている。
今まで気づかなかったけれど、雨天様はコンくんたちのことをとても可愛がっているようだった――。
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