お品書き 一 『あんみつ』銀の光に導かれて【3】

「……たぁた、きまっし」


「え?」



 考えるよりも先に口にしていたのは、聞いたばかりの不思議な言葉。

 耳慣れない声に呼ばれたような気がしたなんて言えば、きっと白い目を向けられるに決まっている。そう思うのに、唇は勝手に開いていた。



「そう、言われて……。なんだか、気になってしまって……」



 もとはと言えば、花街の名残を残したような茶屋街の賑やかな声から逃げたくて路地に入ったら迷った、というだけ。

 だけど、それとは違う理由を口にしたのは、そう答えるのが正解だ、と直感したからなのかもしれない。



「……コンか。いや、それよりも娘。お前はその声が聞こえたのだな」



 コクリ、と小さく頷く。

 それだけですべてを悟ったように、男性はため息をついた。



「まったく……。あのいたずら狐め、なにも人間まで呼ばなくてもよかろう」



 変な話し方の男性は、まるで中二病をこじらせた大人みたい。

 そう思うのに不思議と不安や恐怖心はなくて、むしろさっきまでよりも心は落ち着いている。

 もっと言えば、金沢に来てから初めて安堵感を持てたような気がしていた。



「雨宿りしていくか?」


「え?」


「これも縁だ。いや、巡り合わせというべきか……。どちらにしても、コンの声が聞こえたのならお前は屋敷に認められた、ということになる」


(コンの声? 屋敷に認められたってなに?)


「はぁ……」



 なんの話をされているのかわからない私は、答えるよりも先に気のない声を漏らしてしまった。無意識で取った態度だけれど、ハッとして慌てて口元に手を当てる。

 だけど、目の前にいる男性は特に私の態度を気にする素振りはない。

 そして、おもむろに口を開いた。



「どうする? 雨宿りしても、このまま帰っても、お前の自由だ」



 選択肢を与えられたのに、私の心は不思議とひとつの答えしか見ていなかったような気がする。

 理由はわからないけれど、この銀髪の男性が気になったからとか、知らない声の正体が知りたかったからとか、たぶんそういうことじゃなかったと思う。

 ただ、〝ここにいたい〟と、心が訴えかけてきたような気がしたから。



「雨宿り、させてください」



 控えめに自分自身の声が落ちた時、雨がやんでいたことには気づかない振りをした。



「こっちだ」



 言われるがまま足を踏み入れたのは、男性が背にしていた大きな屋敷の中だった。

 格子になった門を潜ると、視界を占めたのは広い庭。石に囲まれた池も見え、鬼ごっこやかくれんぼも充分できそうだ。

 緑が生い茂った木は、松や梅だろうか。どれもとても立派で、数年前に植えられたというようなレベルではなさそうだった。



「あの……」


「私の傍から離れるな。迷子になるぞ」


「迷子?」


「冗談だ。そんな顔をしなくても、なにも危険なことはない」



 首を傾げた私に背中を向けたままなのに、彼はなぜかそんな風に言った。

 その背中を見ながら、ますます首を傾けてしまう。

 顔も見ずに言うなんて、私の声がよほど不安げだったのか、それとも私が気づいていない間に確認されていたのか……。

 そのどちらでもないのかもしれない、という可能性も考えて怪訝な気持ちになったけれど、なぜかちっとも不安や恐怖はなかった。



 不意に男性が足を止め、立派な格子造りの扉がゆっくりと開かれていった。そして、振り返った男性が「おいで」と私を真っ直ぐ見つめた。



「まぁまぁ! 雨天うてん様、お客様をお連れになったのですね! 今宵はもう店じまいかと思っておりましたのに!」



 そんな声とともに、薄暗い玄関の片隅にあったロウソクの火が消え、代わりに玄関先がパッと明るくなった。控えめだった照明が、周囲をはっきりと見せてくれる。



「わざとらしいぞ、コン」



 どこか不機嫌そうに返した男性の向こう側には、十歳にも満たないような淡い栗色のふわふわの髪の男の子がいた。

 男の子は私を見てニコニコと笑うと、「ようこそいらっしゃいました」と頭を深々と下げた。



「……コン」



 慌てて会釈をしようとしたけれど、男性の声が先に落ち、倒しかけた上半身が止まってしまう。



「そんな顔しないでくださいよ! 私がお呼びしたって、雨天様のお力で突っ撥ねてしまえばこの屋敷には入れません。それは、雨天様が一番ご存知ではありませんか!」


「うるさい」



 私の目の前で繰り広げられる会話に、いまいちついていけなかった。言葉の意味はわかるけれど、その内容はちっとも理解できなかったから。

 それでも、口を挟めるような空気じゃなくて、私は煌々とした玄関先でふたりの会話の行方を待つことしかできない。

 そうしてしばらくこのまま待機することを覚悟した私を余所に、ふたりの会話は長引かなかった。



「雨天様、ここは私が」


「当たり前だ」



 どうやらこの男性は、〝ウテン〟というらしい。

 変わった名前だな、と思った直後、彼が振り返った。



「ひかり、ゆるりと休まれよ」


「え?」


(私、名前言ったっけ?)



 その疑問の答えを探す私を余所に、ウテンと呼ばれている男性は男の子に視線を戻して「コン」と口にした。

 男の子の名前が〝コン〟ということは、彼の言葉通りに取るのなら〝私を呼んだ〟ということになるけれど、その意味はやっぱりよくわからない。



「はーい! 雨天様、ご案内はコンにお任せくださいませ。お台所ではギンが待機しております」



 男の子が胸を張るように元気よく返事をすると、男性は銀色の髪をふわりと揺らして私を一瞥し、廊下の奥に姿を消してしまった。



「さぁさ、お客様。今宵の雨は冷えますゆえ、中へどうぞ。ご案内させていただきましたら、すぐに温かいお茶をお持ちいたします」



 ペコリと頭を下げる姿は可愛らしいけれど、子どもだとは思えないくらいに丁寧で、言葉遣いにも所作にも目を見張ってしまう。

 靴を脱いでその子の背中を追う私は、どこに連れて行かれるのかわからないまま長い廊下を歩きながら、自分が置かれている状況を把握しようと努めていた。



「改めまして、ひかり様。雨天様のお茶屋敷へ、ようこそお越しくださいました」


「え? あ、はい……。えっと……」



 客間らしい広い部屋に通されると、一旦部屋から出て行ったコンくんはすぐに温かいほうじ茶を持って来てくれた。

 九谷焼らしき湯呑みからは、お茶の香りを漂わせる優しい湯気が立っている。



「私は、コンと申します。カタカナでコンでございます。そして、さきほどの男性は雨天様です」


「ウテン様……?」


「晴天や雨天――つまり、雨の天気と書いて雨天様です」



 変わった名前だということは、思っただけで口にはできなかった。それよりも、あの風貌の方がよほど気になる。



「それから、他には私とよく似たギンという者がおります。ギンはお台所を担当しており、私はお客様をご案内するのがお役目です。ちなみに、ギンも性別で言えば私と同様ですので、ここにいる者はみな、男です」



 性別のくだりは変な説明だな、と思いつつも、丁寧に教えてくれたことにお礼を言うと、コンくんは笑顔で「これも私のお仕事です」と笑った。



「コンくんって、何年生? 言葉遣いとかすごく丁寧だし、誰に教えてもらったの? 雨天……さん?」


「……〝コンくん〟ですか?」



 確かめるように私の呼び方をそのまま繰り返したコンくんは、程なくしてフフッと笑った。



「ひかり様、私は子どもではありませんよ」


「え?」



 クスクスと笑いながら紡がれた言葉に、思わず眉間に皺が寄る。決してバカにしているような口調ではなかったけれど、コンくんの言葉を信じられなかった。



「だ、だって……」



 そんなはずはないじゃない、と言おうとした唇は、コンくんの可愛らしい笑みに止められてしまう。

 コンくんは、「そうですよねぇ」なんて言いながら、少し釣り目がちな瞳をゆるりと丸めた。



「私は……人間で言うと、御年二百歳にはなりますね」


「は? ごめんね、それはちょっと……」



 信じられない、とまでは言わなかったものの、コンくんが私の意図を読んだように微笑んでいる。

 私の言いたいことを理解しているような表情は、とても子どもとは思えないけれど、『二百歳』なんて言ってのけるところは子どもの冗談だとしか思えなかった。



「なんと申し上げたらよいのかわかりませんが、私もギンも雨天様も、ひかり様とは違うのです」


「違う?」


「はい。その、なんと言いますか……いわゆる、人間という生き物からは外れてしまいます」


「ん?」



 首を捻り過ぎて、どこかの筋がおかしくなってしまいそう。それくらい、コンくんの話は理解しがたかった。



「私とギンは、雨天様の神使しんし神使。……そして、雨天様は神様です」


「か、かみ、さま?」



 嘘でしょう、っていう言葉は、声にならなかったかもしれない。

 信じられないという気持ちは間違いなくあるのに、なぜかそう言い切れなかったから。

 神様だなんて言われて素直に信じる人が、この世にどれくらいいるだろう。少なくとも、私は少数派じゃないはず。



「えっと、コンくん……神使とか神様とか、コンくんが考えた冗談なの?」


「ひかり様、これは冗談ではないのですが……。うーん、やっぱり人間のお客様に説明するのは難しいですねぇ」



 温かかったほうじ茶は、すっかり湯気を失っている。香りも弱まっていたけれど、いつの間にか喉が渇いていたことに気づき、そっと湯呑みに口づけた。



「あ、おいしい……」


「加賀特産の棒ほうじ茶でございます」



 思わず零れた素直な感想に、悩むように眉を寄せていたコンくんが嬉しそうな顔をする。

 どこか得意げな笑みは、やっぱりあどけなくて子どもにしか見えなかった。



「とりあえず、そろそろ甘味ができるはずですから、話はそれをいただきながらにいたしましょう」



 コンくんは、その笑顔のまま気を取り直したように提案した。


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