お品書き 一 『あんみつ』銀の光に導かれて【1】
『まもなく終点、金沢です。お忘れ物の――』
車内にアナウンスが流れ、乗客たちがゆっくりと降車の準備を始める。
隣で眠っていた六十代前半くらいの女性は、ゆっくりと瞼を開けると、欠伸をひとつした。
「やっと着いたのねー。長かったわぁ」
ひとり言のようにため息混じりに呟いた女性が、荷台からボストンバッグを下ろした。その言葉に、小さく苦笑してしまう。
私が知る限り、この女性は東京駅を出てから十分もしないうちに夢の中に旅立っていた。
たまたま乗り合わせただけの赤の他人の私に、『どこに行くの?』『今、高校生?』なんていう他愛のないことをいくつか訊いてきたかと思うと、自身は金沢にいる息子さんに会いに行くのだと嬉しそうに話していた。
その数分後、気づけば隣で女性が瞼を閉じていた時は、今の今まで話していたのに……と少しだけ感心したような気持ちになった。
眠気が吹き飛んだ顔で窓や前方を覗き込むようにしているところを見ると、女性はせっかちな性格なのかもしれない。
もしくは、久しぶりに息子さんと会えるのを心待ちにしているのか……。
「あなたは、ひとり旅なのよね。せっかくの大学の夏休みなんだから、気をつけて楽しんでね!」
新幹線が金沢駅に滑り込む直前、笑顔でそんな風に言い残してドアの方へと急ぐ女性の後ろ姿を見ながら、きっと後者だろうなと考えて、そっと微笑んだ。
東京駅から、新幹線かがやきでおよそ二時間半。
金沢駅前の有名な『鼓門』は、アメリカの旅行雑誌のweb版で『世界で最も美しい駅』のひとつに選ばれたのだとか。
『おもてなしドーム』とともに旅行客を出迎えてくれるそれらを前にすると、いつも美術館の一部でも見ているような気分になる。
前回ここを訪れたのは、まだ一ヶ月ほど前のこと。
毎年、夏休みや冬休みには、ひとり暮らしをしているおばあちゃんの家に遊びに来ることが恒例になっていた。
今年のゴールデンウィークの頃にも、『夏休みに行くからね!』なんて電話で話し、おばあちゃんはいつもと同じように『いつでもいらっしゃい』と優しく返してくれた。
だから……まだ夏休み前の六月下旬、金沢に住んでいる大好きなおばあちゃんの元に来る理由が、おばあちゃんのお葬式に参列するため――なんて、あの頃の私は想像もしていなかった。
私は生まれた時から関東に住んでいたから、金沢に住んでいたことはないし、友人だっていない。
思い出と言えば、おばあちゃんと過ごした日々のことばかり。
だけど、もうおばあちゃんはいなくて、目的地であるおばあちゃんの家にも誰もいない。
『四十九日が過ぎたら、あの家は引き払うことにしたから』
それでも、私はどうしてもここに来たくなって……。いないはずのおばあちゃんに会いに来るような気持ちを抱え、そう言った父が貸してくれた鍵を握りしめてこの地に降り立った。
金沢駅の東口から乗ったバスを降りると、目の前に広がる風景に、懐かしさが混じったような寂しさを抱いた。
同時に、涙が込み上げてきそうになり、それを抑えるように唇を噛みしめて息を吐く。
空から落ちてくる無数の雫が、アスファルトを叩いている。
舗装された道はそれをはじき返し、互いが自分自身の居場所を譲るまいとしているようにも見えた。
頭上で広がる傘は、白い生地に淡いカラーのカラフルなスイートピーがちりばめられていて、どんよりとした空を隠してくれる。
ついでに、泣きそうな顔も隠すように、少しだけ低い位置で傘を差して視界を狭めた。
ザーザーともボタボタとも違う、形容しがたい音。
雨と傘が奏でるいたずらでうるさいリズムを、今日は不快に感じていた。
『あら、ひかりちゃん。こんな雨だって、なんだか賑やかでいいじゃない』
おばあちゃんなら、きっとニコニコ笑ってそんな風に言うのだろう。
予想は当たっている自信があるのに、おばあちゃんの優しい笑顔が脳裏に浮かんだのに……。とても虚しい。
その理由はひとつしかなくて、それを解決する術はない。
心に負った傷が治る日が来ることはまだ想像もできなくて、幼い頃から何度も訪れた地の景観が胸を痛くする。
青空よりも明るい傘に隠れているのをいいことに、頬を伝う雫を拭わなかった。
雨粒と涙が混じったそれは、唇に触れるたびにしょっぱさを感じさせた――。
おばあちゃんの家は古い日本家屋で、いつからか建てつけが悪くなっている玄関の引き戸は開閉にコツがいる。
私はいつも最初の一日だけ手こずってしまって、門の前で出迎えてくれるおばあちゃんはそんな私に手を貸すことはなく、どこか楽しそうに『頑張って』なんて言いながら笑っていた。
今日は、隣で見守ってくれるおばあちゃんは、どこにもいなくて。
私がどれだけ時間を掛けてしまっても、それでももしこの気まぐれな引き戸を開けられなかったとしても、助けてくれる人もいない。
ガタガタギシギシと不規則な音を立てる引き戸に、時々苛立ちを感じながらも、なんとか開けられた時にはわずかに安堵していた。
折り畳み傘からは雨粒が落ち続けていたせいで、引き戸の前の石畳の一部分だけが色濃くなっている。
ガラガラとドアを滑らせると、しん、と静まり返った玄関と廊下が視界に入ってきた。
いつも家の中は明るかったけれど、電気もおばあちゃんの笑顔もないと昼間でもこんなにも暗いのかと気づかされてしまう。
少し前に二十歳になったというのに、まるでどこか知らない場所にひとりできてしまった幼い子どものように心細くなって……。慣れた場所にようやく辿り着いたはずなのに、一瞬だけ足が竦んだみたいなためらいを覚えた。
ハッとして、息をゆっくりと吐く。
「……お邪魔します」
そして、少し悩んだあと、遊びに来た初日の時と同じセリフを紡いでから靴を脱いだ。
薄暗い廊下は、二ヶ所だけ大きな音が鳴る。
ギシギシと軋む古びた音を、幼い頃は少しだけ怖く感じた。
小学生になると、兄や姉、いとこたちとわざと踏み合いっこをして、よく両親や叔父たちに叱られた。
そんな時でも、おばあちゃんはいつも笑っていた。皺を刻んだ笑顔で『元気でいいわね』と口癖のように言い、私たちを見守るように見つめていた。
みんながそれぞれに成長していくにつれて、おもしろ半分で廊下の床板を踏んで音を鳴らすことはなくなっていったけれど……。ここに来た時には、なんとなくなにかを確かめるように一度だけ踏むことが癖になっていた。
ギシッ、と大人ひとり分には少し控えめな音が響く。
『そんな音が鳴っても現役なの』と、おばあちゃんが笑う。
訪問時のルーティーンは、もう叶わない。
ギシギシミシミシとわざと大きな音を立ててみても、優しい笑顔も楽しげな声も返ってこない。
(ああ、そうか……。ここにはもう、私を迎えてくれる人はいないんだ……)
わかっていたはずの現実が荒波のように押し寄せてきて、途端に熱いものがせり上がってくる。
鼻の奥がツンと痛んで、喉に感じた熱に息が詰まりそうになった。
滲む視界を手の甲で拭い、キャリーバッグとトートバッグを持って廊下を進む。
台所も居間も水を打ったように静かで、電気を点けても障子を開けても、どんよりと濁った曇り空のせいで部屋は薄暗いままだった。
仏壇の前に腰を下ろし、手を合わせる。
口うるさいことはなにも言わなかったおばあちゃんに唯一言われていたのは、『ご先祖様へのご挨拶はきちんとしなさい』という言葉だった。
『どうして?』
『今日も無事に過ごせるように見守ってください、ってお願いするの』
『そうすれば、元気に過ごせるの?』
『おばあちゃんは、そう思っているのよ』
子どもの頃、投げかけた疑問に答える笑顔は、いつだって真っ直ぐにおじいちゃんの写真を見ていた。その横顔を綺麗だ、と感じたことは今でも鮮明に覚えている。
おじいちゃんは、私が幼い頃に病気で亡くなった。
それからも、おばあちゃんはずっとおじいちゃんのことを想っていたのかもしれない。
私にはおじいちゃんの記憶があまりなくて、思い出といえば縁側に座っている後ろ姿か、金魚鉢を眺めている横顔くらい。
あまり笑わない人で、いつも笑っているおばあちゃんとは正反対だった。
孫である私たちどころか、おばあちゃんとすら話しているところをあまり見なかったくらい寡黙だったけれど、おじいちゃんの話をするおばあちゃんは不思議なくらい幸せそうだった。
まるで、今でも恋をしているかのように。
そんなおばちゃんの笑顔を見ていると、私まで嬉しいような気持ちになって、瞳が緩んでいた。
今頃、ふたりでお茶でも飲んでいるのだろうか。
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