白夜

白い。

見渡す限り白い。

何も無かった。

自分が座っているのか立っているのかもよくわからない。

ぼんやりとして意識がはっきりしない。

ただ、ただ、何もないを眺めた。





無、だ。


本当に何もない。

このまま時間ばかりが過ぎていくのだろうか。

そもそも時間という概念があるのかどうかもわからない。

不満も欲求も無い。

このまま自分も白い世界に溶けてしまうのもいいかもしれない。


そうだ。いっそ溶けてしまおう。

この白い空間に混ざり合っての一部になってしまえ。


「あぇ、」


???

なんだ、今のは?

声だろうか?

もはや肉体も無くし、ほぼになった私のどこかの器官がそれを捉えた。


「んにゃっ!!」


声を感じたと共に、微かな衝撃が走った。


これは、、だ。


微かな感覚に神経を集中させると、また次のがやってきた。


「うふふふふ!!!やめてよ、くすぐったい!」


思わず声を出して笑っていた。


「さっきから私のおしりをくすぐるのはだあれ?」


振り向くと小さな白い生き物がいた。

見たこともないふわふわの愛らしい生物だ。


「あら、これはなあに?ウサギかしら?それにしては耳が短いわね。」


「わ、わ、来るなっ!!!!僕を食べても美味しくないぞ!!!!」


うさぎかなにかの子供らしい。

いっちょまえに威嚇している。


「食べないわよぉ。だってここへ来てから全然お腹が空いていないんだもの。でも、さっきまですごくお腹が空いてた気がするわねぇ。」


「ほんとに食べない?」


腹が減っていればこの小さな可愛い生き物を食べていたかもしれないが、腹は空いていなかった。

たとえ食べたとしても腹の足しになったかどうかわからないが。


「大丈夫よぉ。よく見るとあなたとっても可愛いのね。耳がとんがっててキツネにも似てるような気がするけど、違うわね。」


キツネほど賢そうでもないし、ほんとうにただただ可愛らしいだけの生き物にみえる。


「ふわふわで真っ白くてまるで…、まるで…、あら、なんだったかしら?」


ぼんやりしていた頭がいつのまにかすっきりと冴え渡り、色んなことを思い出していたが、何かが足りない気がした。


「なんだか大事だったものに似ている気がするんだけど、それが何か忘れちゃったわねぇ。」


思い出そうとしたが、その部分だけぽっかりと穴が開いているような感じがしてまるで思い出せなかった。


「ま、いいか。あなた本当に可愛いわぁ。お鼻はピンク色で、お目目も晴れた日の空みたいに青くって、赤ちゃんペンギンよりもずっと可愛い!」


小さな生物は少しずつ慣れてきたのか、表情が和らいでいた。

丸く透き通った瞳がとても美しい。


「ね、ねぇ、おばさんはいったい何者?ここはいったいどこなの?」


「おばさんは見ての通りクマなわけだけど、ここがどこかっていうのは私にもよく分からないのよねぇ。お腹が空いて寒くてひもじくてもうだめだぁ、と思って気がついたら、ここにいたのよね。変なところねぇ、と思ってぼーっとしてたら、あなたにお尻をツンツンされたって訳。あなたこそ何者なのかしらね、かわいこちゃん。」


かわいこちゃんは、決まりが悪そうにもじもじした。

あぁ、なんと愛らしいのだろう!

ぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られたが、潰してしまいそうなので我慢した。


「ぼくも、ぼくもおなじだった。お腹空いて寒くて苦しくて気がついたらもうお腹減ってなくて…。」


「あら、そうなの?ひょっとして私たち同じ夢を見ているのかしら?」


「ユメ???」


「きっとそうよ。あなた、夢みたいに可愛いんだもの。私の夢に出てきてくれてありがとう!」


そうっ、と潰さないように頭を撫でた。

柔らかい耳の感触が肉球に触れてこそばゆかった。


「ねぇ、夢ならきっと何でもできるわよ。どうせなら素敵なものを見ましょうよ。」


自分でも不思議な事を言っているな、とは思ったがさっきからずっと現実にはあり得ない事が起こっているのでこの場を楽しむ事にした。


何がいいだろうか、見慣れたものだが、オーロラなんていいかもしれない。


記憶の中で一番美しいオーロラを思い出しながら念じた。


すると、突然真っ白だった世界が闇に包まれた。


「嫌だ、夜は怖いよ。」


おチビちゃんがぎゅっと目を閉じて体を固くした。


「あら、そうなの?やっぱりおチビちゃんはおばさんとは遠く離れたところに住んでいるのね。おばさんが住んでいるところはね、ずっと夜が続くのよ。」


「朝が来ないの?」


「そうよ。毎日ずっと夜なのよ」


「そんなの嫌だあ。僕、夜は嫌いだ。」


「ずっとずっと夜なんだけどね、そんな日が続いて何日も何日も夜なんだけどね、今度はずっと昼になるのよ。」


「何それ、変なの。でも僕ずっと昼の方がいいや。昼の方が明るくてあったかいんだもの。」


「そうね。でも、夜にしか見えないものもあるのよ。上を見てごらんなさい。」


見上げた先には満天の星空が広がっていた。

吸い込まれそうな闇に、幾千、幾万の光が揺らめいたり、瞬いたりしていた。


「うわぁ…すごく綺麗。おばさん、あれなあに?」


「あれは星よ。夜でないと見えないの。ずっと昼だったらこんなに綺麗なものも見られないのよ。」


「夜がこんなに綺麗だなんて知らなかった。ぼく、こんなの初めて見たよ。」


「あっ、ほら、あっちを見てごらん。あれがオーロラよ。」


幾重にも重なる光の帯が、色や姿を変えながらぼんやり浮かび上がったり、時に強く輝いたりしながら佇んでいた。

向こう側に星の煌めきが透けて見えてとても美しかった。


「すごい、すごいね!あんなに綺麗なもの、見た事ない!!」


「うふふ、喜んでもらえてうれしい。ねぇ、今度はおチビちゃんもやってみせて!あなたが知ってる綺麗なものも見たいわ。」


「どうしたらいいの?」


「私はオーロラが見たいよ〜!って念じたら出てきたから、きっとおチビちゃんにもできるわよ。ほら、何か思い出してみて。」


コトン、と小さな音がして茶色い小さな物体が現れた。

ピカピカ光ってとても綺麗だ。


「まぁ、これがおチビちゃんの綺麗なものなのね。すごく綺麗だわ!」


「ね!すごくピカピカでしょ!見つけた時嬉しくて、ぼくお母さんに見せたくって大事に隠しておいたんだ!」


おかあさん


という響きが心のどこかにかすかに引っかかった。


「あらそうなのね。それはとても大切なものを見せてくれてありがとう。」


「ねえ、もっと他にも見たいわ。何か思い出してみて?」


「うんとねぇ、うーん、うーん、あ!あれだ!!!」


おちびちゃんが閃いた!という顔をした途端にあたり一面をピンク色や黄色、様々な色と緑色の植物が埋め尽くした。

私はこんなに美しいものを見た事がない。


「まぁ…、なんて綺麗なんでしょう!!これはなあに?」


「お母さんがお花だって教えてくれたよ。僕、うんと小さかったからあんまり覚えてないけど、お散歩の時に言ってた!」


それからおちびちゃんは私の知らないたくさんのものを見せてくれた。

だいたいが見たことのない小さな虫や植物だったが、どれも新鮮で心を揺さぶられた。


おチビちゃんが見せて見せて、とせがむのでそこらじゅう流氷や暗い海で覆い尽くされた。


「ねぇねぇ、おばさん次はなぁに?」


おチビちゃんが目をきらきらさせながら言った。


「そうねえ、おばさんもうそろそろ思いつかなくなってきちゃったわねぇ。」


「そうだ」


「おチビちゃんが抱っこさせてくれたらもう一つくらい思いつくかもねぇ。」


「ええっ、ちょっと恥ずかしいよ…。」


おチビちゃんはもじもじして地面を掻いた。

たまらなく可愛い。


「いいじゃない、ちょっとだけ、ね!」


小さな体を潰さないようにふわりと抱き上げた。

そうっと、そうっと、包み込んだ。


「おかあさん…」


「おばさんがお母さんなの?」


腕の中の小さな白い生物が私をまっすぐ見て言った。


突然ひどく不安になった。

頭の奥の方で白い何かを思い出しそうになったがすぐに消えてしまった。


「わからない…。」


ひどく混乱していた。

思い出したいような、思い出してはいけないような。

だけどとても大切な。


ただ、腕の中の白い小さな生き物は「違う」と言うことだけはハッキリしていた。


私はそれをそっと下ろした。

そして見ないようにした。


何か思い出しそうでとても怖かった。


嫌だ、思い出したくない。

でもとても大切だった。


私の、可愛くて、小さな、白い、


私の、


わたしの…、


そして突然それは現れた。

とうとう思い出してしまった。


可哀想な我が子。

白い毛皮が、赤い血で汚れて無惨な姿になっていた。


この記憶は、消し去ってしまいたかった。


そうだ。


自分で全て消したのだ。

いっそ無になりたいと。



「お母さん?」


変わり果てた姿の我が子が突然そう呼びかけた。


いや、違う。

今のは背中にかけられた声だった。


私は我が身可愛さにこの子を見捨てて逃げ出したのだ。


なんの因果かはわからないが我が子とは似ても似つかぬ謎の白い生物によって恐ろしい記憶を呼び起こされた。


もう一度、すべて忘れてしまおう。

悲しい記憶を忘れるために、冷たく厳しい故郷のことも、うっとりするような星空も、すべて、白で埋め尽くすのだ。


辺りを埋め尽くしていた夜空や流氷が消え、小さな白い生物が見せてくれた美しい色とりどりの植物も、全て消えて元の白い世界に戻った。


私は当てもなく歩き出した。


白い、白い、白い。


上も下もない真っ白な世界。


「ね、ねえ!お母さん、待って!!!」


あの小さな弱々しい生き物が後をついてきているようだ。

私は、母ではない。


「違う!!!!!」


さっきまではあれほど愛らしいと感じていたが、今は妙に癇に障った。


「あんたはこっちに来ちゃいけないよ。引き返すんだ。」


交わるべきではなかったのだ。

ただ、お互いに白い被毛を持っているという共通点だけで妙な仲間意識を持ってしまったが、おそらく住む場所も環境もまるで違う。


「嫌だよ!僕もお母さんとそっちへ行く!!!」


にゃあ、にゃあ、と叫びながら追いかけてきた。

可愛らしい悲鳴が当たりに響いて胸を締めつけた。


「違うったら!!!!」


思わず叫んでいた。


「私の子はそんな可愛い声で鳴いたりしないよ。」


母を求める叫びに耐えられそうも無かった。

胸が張り裂けそうだ。

早く引き離さなければ。

また、我が子の事を思い出してしまう。


「絶対についてくるんじゃない!!!!今すぐ引き返せ!じゃないと食っちまうよ!!!」


振り向いて牙を出して唸った。

腹は減っていないし、本当は食べたいとも思わない。

早くここから去ってくれ。


三角の耳をぺたりと頭に引っ付けてじりじりと後退りした後くるりと方向転換して駆け出していった。


これでいい。


私はまた歩き始めた。

白い白い、果てのない白の中を、歩いている感覚がなくなるまで、ただひたすらに進んだ。





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