前編
「私はねっ! 二か月連続でっ! 贄になったのっ!」
ほうきの先には青井沙理が転がっていた。長い髪が床に散らばって埃に混じり、細い腕で顔だけを庇っていた。振り下ろされるほうきが腹に、肩に打ち込まれるたびにウッとかウンッと苦痛の声を漏らす。私たち五人は、固唾を呑んで眺めているだけ。
「あんたはっ! ただ見てただけっ! 後ろでコソコソっ! 見てただけっ! それがっ! ムカつくっ!」
乱れた息を整え、さつきはトドメといわんばかりに大きく振りかぶった。けど、振り下ろされることはなかった。天井を向いたほうきは、しなやかで綺麗な指に掴まれて運動を阻まれた。
「さつきちゃん、やりすぎちゃダメだよ。贄ちゃんだって人間だよ?」
ふたりの間に入ったのは、
上石萌咲は根っからの可憐な少女で、憐憫染みた瞳が私たちも捉える。この目はみんなを困らせる。この目にかかると、どんな自信も、決意も、みんな揺らいでしまうのだ。私たちは皆が緊張して、顔を俯かせた。
萌咲は長い髪をしなやかに靡かせながら、紗里の前に屈む。
「贄ちゃん、大丈夫だよ。もうすぐ、〈神様おみくじ〉だからね。もしかしたら、次で贄を逃れられるかもね」
贄ちゃんだなんて。紗里ちゃんには、ちゃんと名前があるんだ。青井紗里って名前が。声を大にして言いたかった。けど……。
思わず、拳を強く握りしめる。ギリギリ。ギリギリ。鈍い痛みが手の中で広がる。
自分で自分を鼓舞してみる。言え、
「次は誰が神様で、贄になるのかわからないからね」
萌咲が目を細めて笑う。心の底から笑っていた。視線がぶつかった瞬間、ふう、と息とともに全身の力が漏れた。なんと情けないんだろう。
神様なんていない。この倶楽部の
チャイムが鳴り響き、皆が一斉に顔を上げた。
「あ、掃除の時間終わっちゃったね。じゃあ、戻ろうか」
その一言で、全員の緊張は解けた。終わった。良かった。皆の表情がじゃっかん綻ぶのが見えた。
萌咲ちゃんが先頭に、誰ともなく理科準備室から出ていく。さつきの後ろ、私は最後から二番目。もちろん、最後は紗里ちゃん。
さつきは身体半分出たところで踵を返し、私越しに紗里ちゃんを睨んだ。
「おい、贄。わかってるだろうな」
敵意のある口調に、紗里は静かに頷く。口外するな、と念を押したのだ。さつき
私はわざとペースを落とし、さつきちゃんが廊下に消えるのを確認してから紗里に振り返った。
「紗里ちゃん、大丈夫?」
声をひそめていう。紗里はビクリと肩を震わせる。
「あ、あの、大丈夫です。私は贄だから、これくらい平気です」
怯えた目を隠すように彼女は伏せ目ガチにいう。普段だったら絵里ちゃんは敬語なんか使わない。絵里ちゃんは、おっとりした口調であるが優しい言葉を選ぶ子なのだ。私が介抱しようと肩に手を伸ばそうとしたその時だった。
「おい、フーカ」
思わぬ声にビクリを肩を震わせる。振り返ると、さっき消えたはずのさつきの姿があった。しまった。
「まさか、贄に同情したんじゃないだろうな?」
「え……?」
さつきの目は怪訝そうにギラついていた。思わず目を背ける。さつきは歩み寄り、私の肩を力強く掴んだ。
「わかってるよな? 同情はルール違反だ」
「ち、ちが――」
言いかけたその時、さつきが何かを差し出した。安全ピンだった。針はフックから外れ、鋭い先端が鈍く光っているように思えた。
「もし、フーカが同情してないなら……わかるよな?」
そっと安全ピンを掴み、顔の高さにまで持ち上げて、私は安全ピンの針越しにさつきを見た。
言おう。こんなことしちゃいけない。誰かを傷付けるなんて。
息を呑み、紗里を見た。すっかりと怯えた表情で私を見遣る。
「待ちな」とさつき。
「足や手はダメ。バレるから」
さつきが横を通り抜け、乱暴に沙里の両肩を掴み、私に背中を向けさせた。ギラつく目に、またしても私の決心は揺らぐ。安全ピンを掴む手は、すっかり油汗にまみれていた。
「背中なら、バレないから」
嫌だ。こんなの、間違ってる。
けど、私は見た。さつきの背後――角の向こうから覗く、萌咲の顔。すっごく、楽しそうだった。
「早く」と、急かすさつき。「もうすぐ帰りの会が始まるから」
(ごめん)
頭の中で謝罪し、力いっぱいに安全ピンの針を押し込んだ。ビクンと沙理の身体が震えた。針がジャージの繊維を破って肌を突き破る感触が伝わる。紗里は口を袖で抑え、声が漏れないように耐えていた。
引き抜いてみると、血はついてなかった。さつきを見たが、睨みつけながら頷いた。もう一度やれ、という意味だ。
二度目は、肩より下に刺した。今度はうぅ、と声が漏れる。ピンを抜くと、ようやく紗里は解放された。
「うちの学校のジャージ、厚手で良かったよ。ぜんぜん血が染み込まないからね」
キャハハハ、と愉快げな声をあげてさつきは去った。
紗里も一言も発さず、目を合わさぬよう、俯きガチで廊下の向こうへと消えた。
いたたまれない私は、しばらくぼうぜんとしてから理科準備室を出る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
鍵を閉めながら蚊の鳴くような声で、口の中で呟いてみる。恐ろしいほど、虚しく響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます