前編

「私はねっ! 二か月連続でっ! になったのっ!」


 言峰ことみねさつきは何度も大きく振りかぶり、長いホウキを振り下ろす。怒り混じりの金切り声をあげていたが、その目は弱者特有の怯えと狂気が入り混じっていた。一年前までは女子バスケ部のエースで、静かな情熱を秘めていた。男気の溢れたボーイッシュな女の子であったが、今ではそれも過去のこと。

 ほうきの先には青井沙理が転がっていた。長い髪が床に散らばって埃に混じり、細い腕で顔だけを庇っていた。振り下ろされるほうきが腹に、肩に打ち込まれるたびにウッとかウンッと苦痛の声を漏らす。私たち五人は、固唾を呑んで眺めているだけ。

 

「あんたはっ! ただ見てただけっ! 後ろでコソコソっ! 見てただけっ! それがっ! ムカつくっ!」


 乱れた息を整え、さつきはトドメといわんばかりに大きく振りかぶった。けど、振り下ろされることはなかった。天井を向いたほうきは、しなやかで綺麗な指に掴まれて運動を阻まれた。


「さつきちゃん、やりすぎちゃダメだよ。だって人間だよ?」


 ふたりの間に入ったのは、上石かみいし萌咲もえ。途端にさつきの顔からは怒りが消え、緊張と恐怖の強張りだけが残った。

 上石萌咲は根っからの可憐な少女で、憐憫染みた瞳が私たちも捉える。この目はみんなを困らせる。この目にかかると、どんな自信も、決意も、みんな揺らいでしまうのだ。私たちは皆が緊張して、顔を俯かせた。

 萌咲は長い髪をしなやかに靡かせながら、紗里の前に屈む。


、大丈夫だよ。もうすぐ、〈神様おみくじ〉だからね。もしかしたら、次で贄を逃れられるかもね」


 贄ちゃんだなんて。紗里ちゃんには、ちゃんと名前があるんだ。青井紗里って名前が。声を大にして言いたかった。けど……。

 思わず、拳を強く握りしめる。ギリギリ。ギリギリ。鈍い痛みが手の中で広がる。

 自分で自分を鼓舞してみる。言え、水元みずもと風香ふうか。こんなこと、もうやめよう! って。


「次は誰がで、なるのかわからないからね」


 萌咲が目を細めて笑う。心の底から笑っていた。視線がぶつかった瞬間、ふう、と息とともに全身の力が漏れた。なんと情けないんだろう。

 神様なんていない。この倶楽部の神様リーダーは上石萌咲。彼女が右を向けといえば右を向くし、彼女が歩こうといえば、歩くし。そんな流れを、彼女は作ってしまう。

 チャイムが鳴り響き、皆が一斉に顔を上げた。


「あ、掃除の時間終わっちゃったね。じゃあ、戻ろうか」


 その一言で、全員の緊張は解けた。終わった。良かった。皆の表情がじゃっかん綻ぶのが見えた。

 萌咲ちゃんが先頭に、誰ともなく理科準備室から出ていく。さつきの後ろ、私は最後から二番目。もちろん、最後は紗里ちゃん。

 さつきは身体半分出たところで踵を返し、私越しに紗里ちゃんを睨んだ。


「おい、贄。わかってるだろうな」


 敵意のある口調に、紗里は静かに頷く。口外するな、と念を押したのだ。さつき

 私はわざとペースを落とし、さつきちゃんが廊下に消えるのを確認してから紗里に振り返った。


「紗里ちゃん、大丈夫?」


 声をひそめていう。紗里はビクリと肩を震わせる。


「あ、あの、大丈夫です。私は贄だから、これくらい平気です」


 怯えた目を隠すように彼女は伏せ目ガチにいう。普段だったら絵里ちゃんは敬語なんか使わない。絵里ちゃんは、おっとりした口調であるが優しい言葉を選ぶ子なのだ。私が介抱しようと肩に手を伸ばそうとしたその時だった。


「おい、フーカ」


 思わぬ声にビクリを肩を震わせる。振り返ると、さっき消えたはずのさつきの姿があった。しまった。


「まさか、贄に同情したんじゃないだろうな?」

「え……?」


 さつきの目は怪訝そうにギラついていた。思わず目を背ける。さつきは歩み寄り、私の肩を力強く掴んだ。


「わかってるよな? 同情はルール違反だ」

「ち、ちが――」


 言いかけたその時、さつきが何かを差し出した。安全ピンだった。針はフックから外れ、鋭い先端が鈍く光っているように思えた。


「もし、フーカが同情してないなら……わかるよな?」


 そっと安全ピンを掴み、顔の高さにまで持ち上げて、私は安全ピンの針越しにさつきを見た。

 言おう。こんなことしちゃいけない。誰かを傷付けるなんて。

 息を呑み、紗里を見た。すっかりと怯えた表情で私を見遣る。


「待ちな」とさつき。


「足や手はダメ。バレるから」


 さつきが横を通り抜け、乱暴に沙里の両肩を掴み、私に背中を向けさせた。ギラつく目に、またしても私の決心は揺らぐ。安全ピンを掴む手は、すっかり油汗にまみれていた。


「背中なら、バレないから」


 嫌だ。こんなの、間違ってる。

 けど、私は見た。さつきの背後――角の向こうから覗く、萌咲の顔。すっごく、楽しそうだった。


「早く」と、急かすさつき。「もうすぐ帰りの会が始まるから」


(ごめん)


 頭の中で謝罪し、力いっぱいに安全ピンの針を押し込んだ。ビクンと沙理の身体が震えた。針がジャージの繊維を破って肌を突き破る感触が伝わる。紗里は口を袖で抑え、声が漏れないように耐えていた。

 引き抜いてみると、血はついてなかった。さつきを見たが、睨みつけながら頷いた。もう一度やれ、という意味だ。

 二度目は、肩より下に刺した。今度はうぅ、と声が漏れる。ピンを抜くと、ようやく紗里は解放された。


「うちの学校のジャージ、厚手で良かったよ。ぜんぜん血が染み込まないからね」


 キャハハハ、と愉快げな声をあげてさつきは去った。

 紗里も一言も発さず、目を合わさぬよう、俯きガチで廊下の向こうへと消えた。

 いたたまれない私は、しばらくぼうぜんとしてから理科準備室を出る。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 鍵を閉めながら蚊の鳴くような声で、口の中で呟いてみる。恐ろしいほど、虚しく響いた。

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