第9話:羽化ってさ⋯⋯

 地上に出た僕は木に登った。

 ちょうど良い高さに達した後は、羽化の時間だ。

 だけど羽化なんてしたことのない僕はどうしたら出られるのか全く分からなかった。


 これまで何度か脱皮をしてきた。

 脱皮は自然と外側の皮がはがれるような様子で力は全く要らなかった。

 それに対して羽化は止まっていても始まらない予感がする。


 というのも頭の中で『羽化しろ』という狂ったような絶叫が響き渡るからだ。

 声に急かされて何かしなくてはならないという気持ちになるのだけれど、どうしたら良いのか分からないから焦りだけが募ってくる。




 前世で病院にいた頃、よくお世話をしてくれた看護師さんが産休を取ったことがあった。

 看護師さんはしばらく仕事を離れたあとでまた復帰し、僕の担当に戻ってくれた。

 その後、時間のある時にお産について話をしてくれたことがある。


 看護師さんは陣痛がきた後、手配していたタクシーに乗って病院に行ったらしい。

 そして破水があり、いざ分娩ということになったようなのだが、そこからどうしたら良いか分からずにかなり苦労したと言っていた。


 事前に聞いていた通りにいきんだらしいのだけれど、初めてのことにパニックになり、なかなか出産できなかったみたいだ。

 時間はどんどん過ぎるのにお産は進まず何度も心が折れてしまったらしい。


 今の僕の状況も部分的に似ているところがある。

 羽化しろと言われても初めてのことでどうしたら良いのか分からないし、頭に響く声のせいで軽いパニック状態に入っている。


 看護師さんはそのとき僕に教えてくれた。

 彼女によると結局大事なのはリラックスすることだったらしい。

 産もうと焦るばかりに余計なところに力が入ってうまくいかなくなってしまったようで、息をゆっくり長く吐いて落ち着くことでなんとかお産をすることができたと言っていた。


 やけに鮮明に残っている記憶を頼りに僕は心の中でゆっくりと息を吐いた。

 そしてその行為に意識を集中させ、とりあえず体の力を抜くことを優先した。


『ぱりっ』


 微かに何かが破ける音がした。

 この方法がもしかしたら羽化にも合っているのかもしれない。


 僕はできるだけ平常心を保てるように意識を集中した。

 体と精神がしっかり調和するように心の中で息を吐く。


『ぱりぱりっ ぱりっ』


 自然に体が動き、大きな音が立つ。

 きっとこの動きもセミの本能に刻まれているのだろう。

 僕が変に邪魔をするよりも自然に任せた方がうまく行くはずだ。


 このままリラックス状態を保っていれば羽化は成功する。

 そう確信した途端に体が大きく動き始める。


「う、うまれるぅ!!!!!」


 恥ずかしながら僕は見当違いの言葉を発してしまった。

 看護師さんの話の印象が強すぎてそう言ってしまったのだ。


 そして再び『ぱりぱりっ』という大きな音が鳴ったと思ったら、体中に得も言われぬ快感が走った。

 それは、自分が別の自分になったことを歓喜する極上の合図だった。


 突然僕は自分に羽(翅)があるということを理解した。

 体の感覚が切り替わるのを感じた。


 気がつくと自分の抜け殻が前の前にある。

 僕は羽化に成功したんだ。

 僕はセミになったんだ!


「やったぞおおおおおおお!!!」


 前世含めて一番の喜びを僕は感じていた。





 せっかく感覚が生まれたので羽を動かそうとしたけれど、うまくできなかった。

 もしかしたら少し時間が必要なのかもしれない。


 目もぼやけていてよく見えない。

 夜であることを差し引いてももっと見えても良いはずだ。

 あとなんか視界が変わった気がする。

 これまでは背中側はあんまり見えなかったのによく見えている。

 思ったよりも高いところにいるみたいなんだけれど大丈夫かな?


 成虫になった喜びを噛み締めながらゆっくりしていると突然空が白んできた。

 木に掴まりながら眺めているとだんだんと明るくなってくる。

 日の出の時間がやってきたのだ。


 最後に日の出を見たのはいつだったのだろう。

 前世のとても幼い頃だったのではないかと思う。


 その頃はまだ僕も元気だったから父さんと母さん、そして妹と一緒に山に登って、みんなと朝日をながめたんだった気がする。

 思えばあれが最後の旅行だったんじゃないかと思う。


 両親と妹にはだいぶ迷惑をかけてきたはずなんだけれど、もう顔もおぼろげにしか思い出せないし、名前すら分からなくなってしまった。とんだ不幸者だよね⋯⋯。


 地平線の彼方から日が昇ってくるのが見える。

 この木は一際大きいようなので、空の様子がよくわかる。


 夜が明ける。

 空は一斉に赤らみ、世界を染めている。

 暗かった地中での生活の終わりを告げるかのような神秘的な光景だ。


 きっとこれは毎日起きていることなのだと思うけれど、僕にとってはとても特別だった。


「父さん、母さん、そして妹⋯⋯。僕は異世界でセミになっちゃったんだけれど、元気に生きているよ。前よりも丈夫な体に生まれてさ、なんと毎日運動して魔力の練習をしちゃったりなんかしているんだ」


 再び僕は羽に力を入れた。

 するとさっきまでとは違い微かに羽を動かすことができるようになっている。


「あの頃みたいに朝焼けをみんなで見ることはもうできないんだろうけれど、病院で一歩ずつ死に近づいていく生活と比べたら生きがいに満ちているんだ」


 日の光が目に入って眩む。

 少し目が痛いけれど全然不快ではない。

 むしろ体中がぽかぽかとしていて嬉しいくらいだ。


 今日僕は生まれ変わった。

 ヒトがセミの幼虫になり、その幼虫は一人前のセミになった。


「みんな! 僕セミになれてやっぱりよかったよ!! セミ最高!!!」


 羽が激しくばたつき、僕は空に飛び上がった。


 この物語は僕が異世界で翔け上がる物語だ。

 セミよりも生きる価値のないと思っていた僕が生まれ変わり、空に羽ばたいていく特殊な物語⋯⋯。




 朝日を浴びながら空を飛ぶ僕は我に返って下を見てしまった。

 はるか下に地面がある。

 落ちたらひとたまりもないだろう⋯⋯。


 びゅっ。


 ⋯⋯びびっておしっこが出ちゃったけれど、内緒だよ?

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