第3話:『カチカチ』
僕の平穏な生活は花モグラの登場によって激変した。
楽しい魔力の鍛錬の時間もほとんど取ることができなくなったし、木の根に吻を突き刺して樹液を吸っていても気が休まらず、前ほど美味しさを感じなくなってしまった。
僕の生活は荒れに荒れた⋯⋯。
自分は矮小な存在なのだという意識が出てきて、辛い気持ちになった。
そんな時に現れたのがあの虫だった。
花モグラが作った道を通って僕のところにやってきた。
そいつは多分ゴミムシっていう虫だと思う。
頭から胸まではオレンジ色をしていて細長く鋭利な印象がある。
対して腹はずんぐりと太っており、漆黒に染まって威厳を感じさせる。
目も真っ黒だが、僕には血走っているように見えた。
もし人だったら絶対に堅気じゃないと思う。
イメージだけど、絶対に近づいてはいけない見た目の人がナイフを持ってこっちを見ていると思って欲しい。
「うわぁぁぁぁ!!!!」
そいつが目の前に現れた時、僕は何匹ものメスゼミに囲まれてハーレムを作っている妄想をしていたんだ。
優雅な生活を想い描いていたのに突然出てきたものだから僕は心の中で叫ぶ他なかった。
僕は一目散に逃げ出した。
例の花モグラが作った道を奴とは反対の方向に走った。
全速力だったけれど結局のところ僕は幼虫でしかないから実際には遅かったんだと思う。
のっしのっしと緩慢な動きを見せていて追いつかれないはずがない。
すぐに奴は僕の後ろにやってきた。
僕が振り返ると奴は細長いオレンジ色の頭を持ち上げて顎から『カチカチ』って音を出したんだ。
僕には奴が笑っているように見えた。
自分よりも弱い存在を蔑んで、惑う姿を見るのが楽しいような、そんなふうに感じた。
当然僕はそれを見るなり、また逃げた。
セミだから息をしていないはずなのにすぐに胸が苦しくなる。
あまりの恐怖に頭が痛いような気がしてくる。
「なんで⋯⋯なんでなんだよぉ⋯⋯」
僕は泣きそうだった。
セミに生まれ変わって平穏な生活を送っていたのにそれは崩れてしまった。
前世では病気で人間らしい生活を送ることができず、セミになったと思ったら今度は敵に襲われてその命が潰えようとしている。
やっと健康な身体が手に入ったのに⋯⋯。
それがセミのものだったとしても僕は嬉しかったんだ。
ちょっと激しい動きをすると咳が出ちゃうような身体じゃなくて、魔力の練習をしすぎて気絶してもすぐに回復するような元気な身体になれて楽しかったんだ。
自分が食べたい分だけ食べられるのが嬉しかったんだ。
それが樹液だったとしても、ただ栄養を摂取するだけの行為じゃなくて、好きなものを食べていると実感できるのが僕は心から嬉しかったんだ。
『カチカチ カチカチ』
奴の嘲笑うかのような顎の音が聞こえてくる。
いつでも追いつけるはずなのにわざと僕を泳がせて、逃げ惑う姿を楽しんでいるのだろう。
僕はせっかく得た喜びを手放してくなくて必死に逃げた。
涙は流れなかったけれど、時間が経つほどに何か大事なものが出ていくような気がしてならなかった。
僕が逃げ、奴が追いつき威嚇する。
それを見てまた僕が逃げる。
そんなことを何度か分からないほど繰り返した。
そしてついに僕はそれ以上進めない道まで追い詰められた。
これまで通ってきた花モグラの道は、道とは言っても柔らかい土に埋まっている通路だった。
一度大きなモグラが通った後だったので簡単にかき分けて進むことができたけれど、僕はいつのまにかその道を見失い、簡単には掘って進めないところに追い込まれてしまったのだ。
「終わった⋯⋯。もう終わったんだ」
逃げ道がないと悟ると、僕の頭は絶望でいっぱいになった。
気がつくと体は重く、動きも緩慢になっている。
一度にこんなに移動したことはなかったので、限界が来ていたのかもしれない。
もしかしたら道がまだ続いていたとしてもすぐに動けなくなってしまった可能性もある。
奴はそれが分かっていたのだろう。
だからノロマが必死にもがくのを見て、力尽きるのを待っていたのだ。
『カチカチ カチカチ』
重々しい足取りで奴が姿を現す。
その動きはいちいち勿体ぶっているように見える。
僕がもう限界であることに気がついているのだろう。
勝ち誇った奴の動きだ。
短い人生だった。
前世では多分三十年もなくて、今世はきっと長くても十年には満たないだろう。
合計で四十年足らず。
セミに生まれ変われたのは幸運だったかもしれないけれど、実りのある人生というにはいささか希薄すぎたのかもしれない。
僕はこわばらせていた体の力を抜いた。
あとは死を待つのみだ。
できればあんまり痛くしないでください。
セミにどれだけの痛覚があるのか知らないけれど。
僕がぐでっと横たわって身を捧げるようなポーズをとった時、奴も力を抜いて顎を『カカッ』と鳴らした。
それは本当に些細な違いだった。
『カチカチ』と『カカッ』。人によっては同じと思うかもしれない。
だけど僕には何故かその違いが許せなかった。
いたぶられるのは良い。
僕は弱いんだから。
逃げる姿を見て笑われるのも良い。
きっとみっともなかったのだろうから。
だけどさっきの『カカッ』は惨めなりにも必死に生きてきた僕の存在全てを笑われたような気がした。
苦しみながらも必死にもがいていた僕の努力全てを否定されたようなそんな気がした。
そう気づいた瞬間、僕は叫んでいた。
「お前! 僕を、セミをなめるんじゃねぇぞ!!!!」
奴はそのとき自慢の顎を大きく開いて僕に喰いかかろうとしていた。
油断していたのかその姿は隙だらけだった。
僕は丹田にあった魔力を全て頭に集中させた。
そして体に残っていた気力を全て動員して、奴に向かって突撃した。
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