第7話 月見草のココロ
週明けの今日は、中間テストの返却が一斉に行われる日。テスト終わりの、久保先生のあの一言が影響しているのか、生徒は浮かない顔をし、教室内に暗い雰囲気を作り出す。
「勇ちゃん、今回も負けないからね。私が勝ったら何か奢ってよ」
「しょうがないな。千夏が勝ったら約束通り何か奢るよ。逆に、俺が勝ったらどうすんの? 何奢ってくれる?」
「えー、今金欠だから、ジュース一本なら奢れるよ」
「じゃあ、僕が勝たないとな」
「勇ちゃんのそういうとこ、マジで嫌なんだけどぉ」
僕と千夏のやり取りを、陽馬は少し羨ましそうに見る。
「いいな、楽しそうで」
「陽馬も勝負する?」
「今回は勇希と副島さんだけの勝負にしてさ、期末のときに輪に入れてくれないか?」
「いい提案するじゃん! 転校生君が入るだけで、俄然やる気出てきた」
突然、闘志を燃やし始めた千夏は、天井に向かって拳を突き上げた。
「じゃあ、僕との勝負はつまらないとでも言うのか?」
「だって、一年のときはほとんど私が勝ったんだもん。たまには奢ってみたいの!」
口を尖らせる千夏を、僕と陽馬は顔を見合わせて笑う。今まで僕と千夏との会話に交わろうとしなかった陽馬。心情に何か変化でもあったのだろう。その変化をもたらしたのが僕だったら。そう考えるだけで頬が自然と緩む。
チャイムが鳴ると同時に、ドアを開けた久保先生。ネクタイは緑色無地のものを身に付けている。久保先生はトーンこそは低くないものの、何か気に食わない様子で出欠を取る。生徒は薄々勘づいているのか、返事をする声がハッキリとしていて、いつもより聞き取りやすい。出欠を取り終えた久保先生は名簿を静かに閉じ、「今からテストに関しての話をする。一時間目は俺の授業だから、話が延長する可能性もある。集中して聞くように」と、生徒一人ずつと目を合わせながら話す。
「今回の中間テスト、二年生全体の結果としては、俺が今まで見てきた中で、一番悪いものだった。もちろん、中には良い点数を取っている者もいる。俺含め、担任たちで話し合った結果、個人の要因もあるかもしれないが、全体として気持ちが緩んでいるのではないかという判断になった」
生徒は面倒そうに久保先生の言うことを聞いているが、それを拒む者はいなかった。
久保先生は一時間目の授業開始を告げるチャイムが鳴っても話を続けた。テストが返却され始めたのは、授業開始時刻からニ十分を過ぎたころで、残りの三十分は各問題の解説という流れで、五十分間の授業は終わっていった。
「千夏、何点だった?」
「私、八十九点だった。勇ちゃんは?」
「僕は八十七点。ちなみに、陽馬は?」
「八十点。勇希が教えてくれたからこの点数が取れたと思う」
「私たちって、いい感じで争えそうだね」
「だな、期末が楽しみだよ」
陽馬の点数が高いことに安堵した。
「残りの四教科は、放課後にまとめて点数見せ合うってことで」
「おっけー」
千夏は僕に二点だけ勝てたことに喜びを見せ、そのまま違うグループの輪へと入っていった。
「今日の連絡事項は以上だ。何かあれば放課後くるように」
日直が号令をかけ終え、久保先生が教室を出て行った。そんな教室からは、嘆きの声があちこちから飛んできた。長く感じられた一日は終わり、あとは千夏とテストの点数を見せ合うだけ。
「勇ちゃん、テスト見せて」
「はいよ、これ」
僕はテスト用紙をトランプを広げるようにして千夏に見せる。それを覗き込むように見た千夏は、「うわぁ」と声を出したあと、「今回は私の負けだぁ」と頭をがくりと下げる。
「点数見せてよ」
「見せたくないから口頭で言う」
そう言って千夏は、各教科の点数をぼそぼそと呟いた。負けたことに悔しがっている千夏を見たのは久しぶりで、どう慰めようかと頭の中で思考を回転させる。考える横で陽馬は自分のテスト用紙を徐に広げた。
「副島さん、僕より全教科の点数高いじゃん。勇希には負けたかもしれないけど、俺には勝ってる。点差も十点以内だし、期末は勝てるように頑張ればいいんだよ」
僕より先に千夏に声をかけた陽馬。頭の回転の速さに驚かされる。
「そうだね。転校生君の言う通りだよ。今回は負けちゃったけど、期末は二人に勝ってみせるから」
「その調子。副島さんは明るい方が似合ってる」
「えっ、そんなこと勇ちゃんにも言われたことないのに。誰かさんにも見習って欲しいなぁ」
千夏は僕の腕をさり気なく抓る。痛いという言葉を口にせず、そっと飲み込む。
「勇ちゃん、奢るの来週でもいい? お小遣い来週じゃないと入らなくて」
「いつでもいいよ」
「うん。あ、私そろそろ部活行くね。じゃあ、また明日」
「部活頑張れよ」
「副島さん、じゃあね」
僕らは千夏に手を振る。残っていた生徒は帰り、気付けば僕らだけになっていた。
「俺らも行こうぜ」
「だね、残っててもやることないし」
玄関に向かう廊下を歩いていると、職員室から出てきたジャージー姿の久保先生と目が合った。
「田代と三好、二人とも気を付けて帰れよ」
「はい」
久保先生はそのまま体育館へと続く階段を上っていった。
「ねえ、勇希、見たか?」
「えっ何を?」
「先生が履いてたズボンの裾、擦り切れてた」
「うわー、意外だなぁ。結構外見気にしてるタイプだと思ってたのに」
「久保先生の意外な一面ってやつだな」
花壇から流れる水はコンクリートを濡らしていく。わざとその部分を踏むと靴裏からピチャと言う音が微かに聞こえた。
「テストの結果、思ってたよりも良くて、正直驚いた」
「それだけ陽馬が頑張ったってことだよ」
「ありがとな、勇希」
「うん。期末も頑張ろうね」
雲の隙間から顔を覗かせる太陽。母の車が停まっている。もう帰ってきたのか。
「勇希、このあとなんだけど」
「ごめん、今日お母さんから用事頼まれてて。早く帰らないといけないんだ」
「そっか。なら仕方ねぇな。じゃ、また明日な」
「また明日ね」
空に浮かぶ雲は風に乗って形を自由に変えていく。雲よ、風よ。僕を自由にしてくれ。
「ただいま」
「おかえり。テストどうだった?」
「うん。まぁまぁかな」
「まぁまぁって。テスト見せて」
「先に着替えさせてよ。そしたらちゃんと見せるから」
「リビングにいるから、ちゃんと持ってきなさいよね」
テスト返却の日の母は、いつもの柔和な雰囲気から一変し、まるで能面を被ったかのような形相で僕を待ち受ける。両親は僕を大学に入れようとしていた。小学生の頃は、「進学校じゃなくても、大学に行ってくれれば」と言っていたが、中学生のある時期から地元の進学校に入学させようと必死になっていた。そこに追い打ちをかけたのが、久保先生に渡された進学校のパンフレット。そのことに希望を感じ、変な期待をし始めた両親は、勉強のことになると口煩く言ってくるようになった。しかし、今の僕は、両親の期待に応える気持ちはあまりない。そこそこの偏差値の学校で、陽馬と一緒にいられるのならそれでいい。洗面所の鏡に映る僕。決意した目に、燃え滾る炎が見えた。
「はい、これテスト」
テストを差し出すなり、母は目を吊り上げながら一枚ずつ確認していく。
「一番いい点数で九十二。悪いのなんて八十点じゃない。これじゃ、先生から勧めてもらってる高校に行けないじゃないの」
「期待に沿えるような点数取れなくてごめん。でもさ、僕、違う高校を受験したいと思ってる。先生が勧めてくれているところへは、現状行くつもりないから」
「なんでそういうこと言うの!」
「陽馬と一緒の高校に行きたいんだ。その学校からもちゃんと大学に行けるし、校風が自由を特徴としてる。だから― 」
「それ以上言われても、お母さん一人では何とも言えないわ。だから、今日、夕ご飯食べたら、お父さんも含めて三人で話し合いましょ。わかった?」
母の目を見れず、無残な姿のテスト用紙を見ながら返事するが、その声はなぜか震えて聞こえた。決意したはずなのに。
「あと、その高校について、今からちゃんと調べて、どういう学校なのか教えて欲しい。大学の進学率とか、そういうことよ? いい?」
「わかりました。ちゃんと調べます」
部屋は帰ってきたときよりも蒸し暑さを増している。星がデザインされたカーテンを開けると、窓ガラスには無数の雨粒が付着していた。降り始めたばかりなのか、アスファルトの一部分しか濡れていない。カーテンを閉め、そのままベッドに飛び込む。周りに置いているクッションがその場でバウンドした。
ポケットからスマホを取り出し、検索画面に高校の名前を入れてみる。一番上にはその学校の電話番号や住所などが載せられていた。指で下へスクロールすると、学校のホームページへと繋がるリンクが貼られてる画面が出てきた。指は迷うことなくタッチする。それから一時間、僕はスマホで情報を調べては、その情報をノートに書き写した。
母が階段下で「勇希、ご飯」と呼んだ。僕は書き写したノートとテスト用紙を手に階段を降りた。仕事から帰ってきたばかりの父は、スーツ姿で、母同様、面を被ったまま椅子に座っていた。
「勇希、テストのことだが」
「わかってる。これ、今回の分」
父は静かにテスト用紙を見る。母は鮭のムニエルが盛り付けられた皿を運んできた。
「うん。まぁまぁな点数だな。このあと話し合いするからな」
「そのことなんだけど、今、端的に話してもいい?」
「なんだ?」
「僕、明自学高校に行こうと思ってる。受験はまだ先の話だけど、陽馬と一緒にこの学校を受験しようと考えてる。ちゃんと明自学高校のこと調べた。だから、ご飯食べ終わったらちゃんと調べたこと話すから」
「そっか。まぁ、ちゃんと話し合いの形はとるから。その前に、ご飯食べるぞ」
僕が熱く語るのに対し、父は冷めた様子で僕の相手をしてきた。
ドキドキした状態でご飯を食べ終えた僕は、食器が全て片付けらてから、テーブルにノートを広げる。
「じゃあ、話し合いの時間な。今から十分以内に明自学高校に行きたい理由を言いなさい」
父はスマホのタイマー機能を立ち上げ、そして開始のボタンを押した。それから僕は調べたこと、そして自分がなぜ明自学高校に行きたいのか、その理由を熱く述べた。息する間もなく話し続け、最後の一言を言い終わったとき、アラームが鳴った。
「時間ピッタリだな。勇希の気持ちはよくわかった。ここからは二人で話し合うから、勉強してなさい」
「わかりました」
リビングをあとにする身体は、何となく軽く感じた。今まで口にできなかった受験への思いは、まるで鎧のように重たかった。結局、その日のうちに両親から話し合いの結果を聞くことはなかった。
翌日、いつものように学校に行く準備をする。一人で朝食を食べ始めたとき、母が父の弁当を作りながら「今日の夜に昨日のことについて話すから」と言ってきた。
「わかった」
母の口調から、結果を聞かなくても結末が容易に想像できた。期末はもっと勉強しなければいけない。そう考えるだけで胃が痛み、箸を持つ手は動きを止めた。
陽馬と一緒に通学しても、学校で授業を受けても、気分が上がることはなかった。両親に何か言われても言い返す気力もない。こんな状態だからか、陽馬は僕のことを心配してくれた。
「勇希、なんかあった?」
「昨日さ、両親に明自学高校に行きたいって話したんだけど、反応から多分ダメかも。陽馬と同じ高校に行きたかったな。僕は親に決められたレールに乗るしか、道がないのか」
「ダメでも大丈夫。俺、勉強頑張って勇希と同じ高校に行くから」
「その学校、陽馬が着たいって言ってるブレザーじゃなくて、こんな感じの学ランだよ? しかも、うちよりも制服に関する規定が厳しいみたいだから」
「それでも、俺は勇希と一緒ならどこだっていい」
陽馬は嘘偽りのない澄んだ瞳をしていた。
「結果わかったらさ、俺に連絡くれよ。一日でも早く準備しないといけないだろ?」
「でも」
「いいんだって。俺には勇希が必要なんだからさ」
僕の手を握る陽馬の手は震えていた。不安な気持ちにさせてごめん。心の中で陽馬に謝った。
家に帰るも、両親はまだ帰宅していなかった。一人で玄関の鍵を開けて中に入る。静けさの中に佇む僕は、どんな気持ちで今晩を迎えればいいか、わからなくなっている。陽馬も僕と同じような考えを持っていたなんて。一緒にいられるならそれでいいのに。一人が気楽だと思っていた自分は、今はいない、過去の自分だということに気付いた。
カーテンの閉まっている部屋。埃っぽさを感じる空間。それでも、今は掃除をする気分ではない。だからと言ってリビングでテレビを見て笑いたいとも思わない。結局、そのまま机に課題を広げて、両親が帰宅するまで過ごすことにした。一時間もすると、カーテンの隙間から入る陽の光は傾いていき、薄暗くなってきた。まるで僕の気持ちを表すかのような天気に、思わず笑みを浮かべる。
「ただいま。勇希、暇なら手伝って」
母の声が階段から聞こえてきた。これに応じなかったらどうなるだろう。そう思ったときには、身体は既に階段に向いていた。
「おかえり」
「ただいま」
「勇希、今から夕飯作るんだけど、手伝ってくれない?」
「え、何で?」
「息抜きだって必要でしょ?」
エプロンの紐を器用に結ぶ母。
「まぁ。で、何すればいいの?」
「蕎麦を湯がいて欲しいの。今日は、勇希の好きな天ぷら蕎麦を作るから」
僕の機嫌を取るために、夕食のメニューが天ぷら蕎麦になったのだろう。そう思うと、またも胃が痛む。
「暗い顔してるけど、何かあった?」
「いや、別に何も」
「そう。なら良いけど」
天ぷらを盛り付けているときに帰ってきた父も含め、家族三人で食卓を囲む。できるだけ笑顔を見せて、明るく振る舞うが、両親にはその嘘が通用しなかった。
「勇希、昨日の話し合いの結果が気になってるんだろ」
持っていた天ぷらを蕎麦の中に落としてしまう。
「別に、気にしてないから」
父は蕎麦を啜ったあと、「ふーん」と静かに言った。母は笑みを浮かべた。
「動揺して天ぷら落としちゃって。それに、そんな顔で食べられても、蕎麦も喜ばないわよ?」
「だから、違うって」
「嘘付いたって、お父さんにもお母さんにもバレる。食事が終わればすぐに話すから。暗い顔せずに食べなさい」
父の言う通りだと思った。でも、素直に言うことが聞けない。そんな思いを胸に蕎麦を啜る。
母は食器を洗っている。そんな中で父は僕の目の前に座り、腕を組んでいる。その態度の威圧さに押しやられる。
「昨日、お母さんと話し合いをした。その結果、勇希の好きなようにさせることにした。行きたいと思う学校に行けばいい。ただし、ひとつだけ条件がある。大学にだけは進学して欲しんだ。偏差値は問わない。その条件さえ守ってくれるなら、好きなようにしてもらって構わない」
ダメだと思っていたからか、父の言うことがよく理解できなかった。
「大学行くなら、明自学高校に行ってもいいの?」
「そういうことだ。だからって定期テストの点数を落とすなよ」
「わかった。僕、頑張るから」
その瞬間、僕は雲になれた気がした。次は何の形に変化しようかな。
「結果、どうだった?」
「明自学高校を受験していいって。まぁ、条件付きなんだけどね」
「どんな条件なんだよ」
「偏差値は問わないから大学に進学しろ、っていう条件」
「なるほどな」
「ま、大学に行くことは前々から言われ続けて、ずっと考えてたことだし、それが条件だったから良かったよ。それ以外の条件とか出されたらとか思ってたりして、ヒヤヒヤしてたんだから」
「え、それ以外の条件?」
陽馬は僕の顔を覗き込む。
「言わないと思うし、考えたくもないけど、例えば、陽馬とは別の高校を選べとか、なんで一緒に行くんだとか言われたらさ、何て返せばいいかわかんないじゃん」
「確かにな」
「まだ陽馬との関係性について、ちゃんと言葉にして親に説明できてないし」
「そっか。打ち明けられない、って感じだな」
「ちゃんと、時期を見て説明するつもりなんだけどね。その時期が意外と難しくて」
「そうだよな」
信号待ちの列に並ぶ。目の前に立つ女子小学生三人組。「私のタイプは、優しくて、イケメンで、料理もできる人なんだ」「私もイケメンがいいな!」「うちのクラスは誰もイケメンじゃないよねー」などと、恋バナをしていた。
「俺らも恋バナしてみたいな」
「僕も。でも、恋バナしてくれる相手なんていないけどね」
「俺でよければお相手になりましょうか?」
「ふざけてるでしょぉ! もう、可愛いな陽馬は」
信号が変わったタイミングで走り出した女子小学生。
「で、勇希の好きなタイプは?」
「僕は、一緒に楽しい時間を共有できる人かな」
「ありきたりだな」
「そういう陽馬はどうなの?」
「俺か? 俺は、例えば、勇希みたいな人。と言うより、勇希本人が俺のタイプ!」
陽馬の純粋な心から放たれる言葉。僕の心に弓矢が刺さる。
「えっ、ちょっと待って。ホントに僕みたいな人がタイプなの?」
「”僕みたいな”、じゃなくて、”僕自身”がタイプなんですけど。何か問題でも?」
「いやいやいや、問題はないけど。驚いちゃって」
「勇希も、可愛いぞ」
「なんて返すのが正しいかわからないから、思ったこと言うね。陽馬―」
陽馬の目を見て伝える。細めた目。赤くなった耳。淡いピンク色に染まった頬。
ガーデニングの手入れをしているお婆さんは、「今年もツキミソウが可愛く咲いてくれたの。朝だからしぼんじゃってるんだけどね」と、花を指しながら、お隣さんとの会話を楽しんでいた。
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