第5話 ガーベラは前進させる
「おはよう。遅くなった」
「おはよう。全然、時間内だからセーフだよ」
僕らはいつものように待ち合わせをして学校に向かう。陽馬を見つけたあと、自分から電話し、叔父が医師として勤務している近くのクリニックに連れて行った。叔父に事情を話し、このことは僕と陽馬だけの内密にしてもらった。叔父も最初は戸惑っていたものの、僕の熱量に負けたのか、最後は首を縦に振った。
「勇希の親族に医者がいるなんて。だから勇希は賢いんだな」
「いやいや、それはないって。叔父さんが特別賢いだけで、僕なんて全然足元にも及ばないよ」
「でも、内密にしてくれてよかった。学校にバレたら、って思うだけでヒヤヒヤしてたからさ」
「僕には、ヒヤヒヤしてるとか、そんな感じには見えなかったけどね」
「一応、俺でもそういう感情っていうか、気持ちは持ってるから」
「安心した」
「なんだよ、それ。俺を何だと思ってんだよ」
「ごめんごめん。気にしないで」
陽馬の小さい顔に貼られた白の絆創膏。昨日のことを知っているのは僕だけ。その優越感に浸ってしまう。でも、陽馬の気持ちは。あの不意打ちの出来事は。そのことで頭は支配されていく。
「ねぇ、昨日のことなんだけど」
僕は陽馬の顔を見ずに、軽い気持ちで聞いた。陽馬はその場で足を止め、「今は言えない」と乾いた声を発する。
「中間試験が終わってから話す」
陽馬の唇は小刻みに震えていた。
「わかった」
この一瞬で、僕と陽馬との間には、妙な時間差が生まれていた。そんな中でも、一定のリズムで信号は青から赤に変わり、街路樹は葉を揺らしながら閑に佇んでいる。
「みんなに傷のこと聞かれるだろうけどさ、何て言うつもりなの?」
「嘘つくさ。親戚ん家の飼いネコに引っ掻かれたってな」
「本当のことは言えないよね」
「言ってもいいんだけどさ、俺からしたら、勇希しか知らない事実ってことで良いと思ってるんだよな。昨日の俺を知ってるのは、勇希しかいないんだし」
「そっか。僕はもちろん、昨日の陽馬のことは何も知らないって言い通すから」
「ありがとな」
歩道橋の下を車が走行する。アスファルトと車のタイヤが擦れる音は、今は心地よいサウンドとして耳に届く。
「勇希、頼みがある」
陽馬は歩道橋の真ん中で立ち止まり、真剣な目つきで僕を見てくる。
「えっ、怖いんだけど。なに?」
「俺に、勉強を教えてくれ。頼む」
四十五度に曲げられた陽馬残しを見て、僕は思わず声を出して笑ってしまう。
「なんで笑ってんだよ。こっちは真剣に頼んでんのによ」
「悪い、悪かった。いや、姿勢が綺麗すぎて、思わず、ね」
階段を上って来る女子二人組。制服を少し着崩し、ゆるくカールしてある髪を揺らし、楽しそうに会話をしている。
「僕にわかる範囲なら教えてあげるよ」
地下ずく足音。女子二人組は僕らを見ないように足早に過ぎ去る。
「ありがとな。マジ助かる」
「とりあえず、学校行こう。テスト対策は早くからやっとかないと、ね?」
僕は陽馬の手を取り、階段を降りる女子二人組を追い越した。後ろから「あの二人デキてんの?」と聞こえたが、気にせず走る。横を走る車も、急ぎ足で漕がれる自転車も、今は全部がゆっくりとした動きに見える。ぶつかりそうになる歩行者も、相手側が避ける。公園から流れてくるよくわからない音楽も、ノリの悪い音にしか聞こえない。ただひとつ、僕と陽馬だけが空間を壊していく。
時間が経つにつれ、クラスメイトは学校にやって来る。陽馬の顔を見るなり、「大丈夫なの?」「喧嘩でもしたのかよ」「痛そうだね」などと、男女関係なく声をかける。それに対し、陽馬は一貫してこう答える。
「親戚の家の飼いネコに引っ掻かれてさ。ちゃんと処置してもらってるし、痛くはないから大丈夫」
聞く度に、僕だけしか知らない出来事が、空に向かって浮上する。
「それで昨日休んだの?」
話を聞いていたのか、途中で成瀬が口を挟む。
「あぁ、まぁな」
「なるほどな。でも、三好が元気そうでよかった」
背中を叩かれる陽馬。当惑している顔が愛おしい。
チャイムが鳴る。入ってきた久保先生は、眼鏡柄のネクタイをしていた。
「早速、今日から勉強しよう」
「どこでやる?」
「僕はどこでもいいよ。陽馬に合わせるから」
「試しに図書館しかないか。俺、一回も行ったことなくてさ」
「いいよ。じゃあ、行こう」
千夏に連れられて来た以来、約一年振りに図書館のゲートをくぐる。中にいるのは老人か、学校帰りの小学生。周りに僕らのような中学生の姿は見えなかった。
「へー、こんなところなんだ」
「あそこが、一応自習室として貸し出されてる部屋。職員の人に声掛けたら使用できるんだよね」
「行くか」
僕と陽馬だけに聞こえる声でやり取りする時間。これもたまらなく好きだ。
「すみません。あの自習室って、今から使えますか」
「はい、大丈夫ですよ。何時間ご使用になります?」
「一時間でお願いします」
「わかりました。では、開けますね」
いかにも読書が好きそうな女性が、自習室の鍵を持って僕らの前を歩く。履いているヒールも、カーペットによって音を立てないでいる。
「時間になりましたら、こちらからお声がけしますので」
「ありがとうございます」
閉まるドア。部屋にあるブラインドの隙間から差し込む太陽の光は、優しい明るさで部屋に光を灯す。
「よし、一時間しかないから早くやろうぜ」
「だね」
バッグから国語の教科書とノートを取り出し、僕は陽馬に勉強を教え続けた。陽馬はわからないところがあれば、すぐに質問をしてくれる。逆にありがたいと思った。こうして誰かと勉強会を開くのは初めてで、慣れないことに気持ちがムズムズしてしまう。
終了を告げるかのように鳴った十七時を告げるチャイム。鳴り終わりと同時に、職員がドアをノックした。
「お時間になりました」
「今、出ます」
急いで荷物を片付け、バッグを背負う。
「ありがとうございました」
お礼を言って、図書館のゲートをくぐった。夕日は山に隠れようとしていた。
教室内に張り詰めた空気は、一年生のときと変わらなかった。誰も余裕があるようには見えず、いつも騒いでばかりの生徒も、今日だけは静かに教科書やらノートやらを目で追っている。陽馬もまたそうだった。二人で対策したところを入念に確認している。僕は、周りを見て、一応教科書に目を通しておく。
予鈴が鳴る。生徒は先ほどよりも更なる焦りを見せ始めた。口々に「もうだめだ」「やばい、終わった」などと言い、教科書を片付けていく。
「勇希、教えてくれてありがとな。理解力なくて迷惑かけた」
陽馬は手に持っていた教科書を閉じながら言う。
「何言ってんの。陽馬なら大丈夫だよ。お互い、良い点取ろうね」
「おう」
僕らは見つめ合い、強く頷いた。陽馬に勉強を教えて欲しいと言われたあの日から、登下校時、授業が始まるまでの時間、昼休み、放課後と、常にテスト範囲のことだけを話した。陽馬が間違えやすい問題を何回も解き直したり、いつもとは違う時間の過ごし方をした僕らは、さらに絆を強めていた。
五教科、各語十分という制限時間はあっという間に過ぎ去った。間に給食や掃除の時間が挟まれているはずなのに、僕にとって、その記憶はほとんどないに等しい。なのに、問題を懸命に解く陽馬の表情や姿勢は、しっかりと脳裏に刻まれている。
五時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響く。久保先生が「ペンを置いて、後ろから回収して」と、どこか気怠そうに話す。試験から解放された気持ちからか、生徒の一部が「終わったー」「全然解けなかった」と話し始めた。久保先生はそれに対して何も言わず、テストの枚数だけを確認して教室を出て行った。その瞬間、教室には、まるで膨れた風船が急に割れたかのような、張り詰めていた空気が消えてなくなり、ゆったりとした時間が流れ始めた。
「陽馬、試験どうだった?」
「勇希、ありがとな。大きい声出せないけど、点取れてる気がする」
陽馬は声に出せない喜びを、クールな表情の下から覗かせる。
「なら良かったよ。今日、ちゃんと約束してた打ち上げ、やろうね」
僕は微笑みかけるも、陽馬は少し俯き、「そうだな」と静かに呟いた。
休み時間を使っては最終確認を行い、互いの健闘を祈った一日。賑やかな教室の中で、会話の主導を握っているのは千夏だった。千夏は僕に向かって親指を立て、できないウインクをしてきた。恐らくテストが上手くいったのだろう。僕も千夏に親指を立てた。
六時間目を告げるチャイムが鳴ると、急ぎ足で生徒は席に座る。何人かは試験に対する思いを引きずったままの様子で、千夏はその生徒を想い、優しく声をかけていた。鳴り終わるのと同時に久保先生がドアを開き、険悪な顔で入ってきた。先ほどの気怠そうな感じからは一変した姿に、僕らは静かに、口が開かれるそのときを待った。
「ちゃんとテスト勉強したのか」
重く圧し掛かる言葉。誰も答えようとしない。
「まだ全教科の採点が終わっているわけじゃないが、点数はそこまで期待しない方がいい」
生徒の大半が俯く、誰も久保先生と目を合わせようとしない。
「それって、どういうことですか?」
黙って過ごせなかったのか、千夏が手を挙げて聞く。
「全体的に点が取れていないということだ。それでちゃんと勉強したのかを聞きたい。この用紙を回わすから、記入してくれ」
久保先生は表情を変えないまま、手に持っていた用紙を配っていく。
「全部で十の質問がある。嘘だけは書くなよ」
生徒はどこか面倒そうに、でもどこか力強くもある返事をする。
教室に響く、紙とシャーペンが擦れる音。その中で、誰かが芯を入れ、カチカチとノックを続けている。遠くで聞こえる時計の秒針は一定に音を鳴らし、リズムをかき乱す。
質問に答え終わった僕は、紙を手に席を立つ。久保先生は音で気付いたのか、僕の表情を見ながら、「田代、書き終わるの早いな。もしや」と言ってきた。その言葉に答えず、僕はそのまま教壇の前に立つ。
「先生、僕は嘘なんて書いていません。正直に書いています。それでも点数が悪かったら、僕の努力が足りなかっただけです」
僕は思っていたことを口にした。試験時間を十分に確保し、挑んだ二年最初の中間試験。それでも点が悪いのなら仕方ない。そう心のどこかで思っていた。久保先生は「そうか」と、どこか納得していない様子の返事をする。そして、続けざまに「俺な、田代に話したいことがあるんだ。これ終わってから時間取れるか?」と、皺が深く刻まれた顔で僕を見てきた。
「すぐ終わりますか」
「なんだ、用事でもあるのか」
「いえ、五時までに帰れば大丈夫です」
「そうか。じゃあ、終わったらすぐ職員室来てくれ」
「わかりました」
陽馬との用事は十七時半からの予定で、それまでに家に帰っていれば十分間に合う。僕が提出したのをかわきりに、ほかの生徒らが続々と用紙を提出していく。その中の陽馬も含まれていた。提出し終えた陽馬は、「もしこのあとの話が、あのことだったら」と小声で話しかけてきた。僕は、「大丈夫。本当のことは言わないから。それに、時間に遅れないように行くから、ね」と、陽馬よりもさらに小声で話す。陽馬は小さく頷き、笑っていた。
六時間目の終了を告げるチャイムと共に、久保先生は重そうな身体を起こし、椅子から立ち上がった。
「全員分、ちゃんと読ませてもらう。もし、何かあればすぐに面談するからな。そのことを覚えておくように。以上」
表情を一回も崩さないまま教室を出て行った久保先生。重圧に耐えた生徒の中には、うっすら涙を浮かべている人もいて、改めて久保先生の圧の強さを思い知った。
明日の連絡事項などの説明も終わり、生徒らは足早に教室を出て行く。千夏は僕に「勇ちゃんなら、久保先生に何言われても大丈夫。頑張って!」と、少し馬鹿にしてくるような、しかし、その中には応援の意味が込められているような、そんな言い方をして部活に行った。
「じゃあ、俺先に帰るわ。家で待ってるからな」
「できるだけ急いで帰るから。じゃあ」
「おう。またあとで」
陽馬に別れを告げ、僕は教室を出てすぐの階段を駆け足で降りる。職員室の前で、乱れた呼吸を整える。職員室という、あの空間に飲み込まれないように。
「失礼します。二年二組の田代勇希です」
「おぉ、田代か。まぁ、こっちに来てくれ」
久保先生はボールペンを片手に手招きをする。僕はそれに釣られるように、職員室の中に入る。教師たちは赤ペンを持ち、回答用紙に丸やバツを付けていく。
「俺も時間が無いんでね、手短に質問させてもらう」
黄ばんだ歯は、近くで見るとより際立っている。
「田代が欠席した日、あのとき三好も休んでいた。しかし、三好の場合は理由も言わず、ただ単に休んだんだろうが、何か知らないか」
「いえ。僕は何も知らないです」
「そうか。いつも一緒にいる田代なら、何か知ってると思ったんだが」
「あの、何で陽馬じゃなくて僕に聞くんですか」
久保先生は持っていたボールペンを床に落とした。動揺を隠しきれていない様子でペンを拾い上げる。
「まぁ、別に。ごめんな、急に呼び出して三好のことを聞いて」
「いえ、大丈夫です」
帰れる。そう思ったとき、久保先生は立てかけてあるファイルの中から、冊子を取り出した。
「あとな、これは田代に関する話なんだが」
「はい、何ですか」
「田代に、これを渡そうと思ってな」
そう言って、久保先生は取り出した冊子を、僕にて渡してきた。地元で有名な進学校のパンフレットで、表紙には『君の夢、花開く!』と行書体で書かれている。
「田代にこの学校を勧めようと考えてるんだ。田代は学年でもトップクラスの成績を修めてるからな。実はな、副島もこの学校を志願している。一緒に受験するのもいいんじゃないか」
この言葉を発したあと、久保先生のスイッチに熱が入ったのか、パンフレットに書いてあることを、自身の経験談を織り交ぜながら話し始めた。久保先生の熱血な性格と、断れない僕の性格ゆえ、互いに話の区切りをつけることができず、気付けば十七時を過ぎていた。
僕の気持ちを汲み取ったのか、隣に座る数学担当の天城先生が、「久保先生、もう十七時過ぎてますよ」と、透き通った声で話しかけた。
「おっと、もうこんな時間か。ごめんな、つい熱くなり過ぎた」
「いえ。色々と教えていただいて、ありがとうございます」
「じゃあな。気を付けて帰れよ」
付箋が付けられたパンフレットを受け取った。手が触れていたところは、少し歪んでいた。
「はい。失礼します」
陽は山の向こうへと帰っていく。ポケットに入れたスマホの電源を入れると、画面に一件の着信履歴が表示された。
「もしもし?」
「陽馬、連絡遅くなってごめん。先生が勧めてる高校の話を一方的に聞かされてさ。今、学校出たところだから、今日はもう会えないや。ごめん」
「それは仕方ないな。勇希が悪いわけじゃないから。だから、もう謝らないでよ」
「ありがと」
陽馬の吐息が聞こえる。
「ところでさ、勇希。明日何か用事ある?」
おそらく何かあったのだろう。それとも、あの話のことか。不安になる僕を揶揄うように吹く風は、僕の背中を押した。これで前進できる。
「いや、何も用事ないよ」
花屋の店主が、店の表に並べられた花瓶を片付けていく。ほかの花に混じって、ピンク色のガーベラだけが、ぽつんと花瓶に残されていた。
「明日、会おう。十一時に、いつものところで」
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