あの日の二人

和泉茉樹

あの日の二人

      ◆



 カシムという街は太守のおわす街であることもあり、様々なものが充実している。

 そして一つの街道が二つに分かれる分岐点であり、日中の往来は途絶えることはなく、日が暮れてからも様々な店が明かりを灯し続ける。夜の間もどこからともなく響く声が止むこともない。

「あまり好き勝手にしてはなりませんよ、若様」

 昼の盛りの往来を行く俺にくっついていることが仕事の中年男、クーサの言葉に、適当に相槌を打っておく。

「好き勝手にしようにも、お前がどこかの女郎にくっついて行くまで、しようもないさ」

「若様、長の前でそのようなことは決して口になさいませんよう」

「クーサも自分の命は大事と見えるな」

「その通りでございます。仕えている方の虚言で首をはねられるなど、あってはなりません」

 虚言でもあるまい、とは言わないでおいた。どうせすぐに実際のところはわかるのだ。

 カシムの大通りは人が多すぎるが、この通りを歩くことでクーサを上手く誘導できるのだから、この程度の苦痛には耐えるよりない。

 そうこうしているうちに、行き交う人の群れの中でクーサが少しずつ離れ始めた。人を避けているうちに自然とそうなった、とクーサは見せているが、実に上手い演技だ。

 ま、俺としても都合がいい。

 そのうちに二人の距離は離れすぎ、俺が振り返った時にはクーサは勝手に脇道へ入っていくところだった。それはつまり、お女郎を探しに行ったのである。

 俺ももう十七だが、女郎というのはどうもよくわからない。女郎を買う気持ちもまだわかっていない。わからないまま、クーサに勧められて相手をしたことは何度かあるものの。

 これで邪魔者はいなくなった。行くべきところへ行くとしよう。

 大通りをそれ、脇道を抜けていくうちに人の気配は薄くなっていく。同時に通りを行く人の雰囲気も変わっている。みな背が高く、肩が張っている。そして歩き方に隙がない。

 いかにもな武芸者の姿だ。

 細い通りを形成する商店は、刀剣を商う店が大半を占めている。

 何度か利用している店、碧空堂に入ると、番頭の男性が書類から顔を上げ、鋭い視線でこちらを見た。眼差しは根っからの商人ではなく、元は武芸者だろうと感じさせる。

 こちらの正体に気づき、少し口元を緩めた。

「ユーリ殿、どのようなご用件で?」

「剣が折れてしまった」

 腰に下げている剣を鞘ごと外して差し出すのに、男性はこちらへやってきて恭しく受け取り、剣を抜いた。

 柄にしろ鍔にしろ素朴な作りの剣だ。その刃は途中で折れて、半分がなくなっている。

 刃の断面や刃こぼれの様子を確認してから、小さな嘆息が向けられる。

「あまり乱暴に扱われるのでは、剣も不憫というものです」

「乱暴ではないよ。悪党と切り結んだのさ。まあ、相手の手斧を切ろうとしたのだけど」

 もう一度、嘆息が返ってきた。

「剣で手斧を切るものなど、いませぬよ」

「物は試し、ということもある。実際、手斧は切れたんだ。次には剣も折れたがね。具足を切ることはできると確信が持てた」

「具足を着たものを切るとは、戦でも考えておられるのですか」

 言いながら男性は剣を鞘に戻し、そっとそばの机に置くとこちらに背を向けて店の奥へ向かっている。そこには幾つもの木製の箱が積まれていた。話しながら男性は箱をいくつか、引っ張り出してくる。

「太守は戦などお考えではないはずですが、他の方は違うのでしょうか」

「戦など考えていないだろうよ。ただ、悪党が武装しているだけさ。剣だの槍だの盾だのから、具足はもちろん、馬具まで連中に流れている」

「悪党が馬を育てる余地などありますまい」

「馬は盗むのさ。牧に雇われている用心棒から聞いた。こっそりな」

 不穏な世の中ですな、と応じる男性は、すでに俺の前に四つの箱を並べて蓋を開けていた。中には一振りずつ、剣が収まっている。

「どれも似たような拵えです。感触もなじみのものかと」

 フゥン、などと気のないそぶりを見せながら、俺は素早く一本ずつ、様子を確認していった。武骨一辺倒のような外観だが、どれも頑丈にできている。切れ味も良さそうだが、それは研ぎに出せばはっきりする。

 どれになさいますか、と言われて、一本に決めた。

「これでいい。研いでくれるかな」

「急ぎでやらせましょう。二刻ほどです」

「三刻待つ。日が暮れる前には受け取りに来るよ」

 承りました、と男性が頷くのに、俺には腰に下げていた袋の中から金の粒を適当に渡した。捧げ持つようにして受け取った男性は、俺が買った剣を店の奥へ持っていった。

 戻ってくるのを待たずに店を出てもよかったが、待つ気になった。少しくらい街に流れる情報を知っておこう、と思ったこともある。クーサはクーサで市井の情報を仕入れているだろうし。

 俺が立ち尽くしている時に、ふらりと誰かが店に入ってきた。

 俺が視線を向けた時、相手の視線と俺の視線は正面からぶつかっている。

 上背があるが、細身だ。いや、細すぎる。

 しかしそれもそうだった。相手は男ではなく、女だった。服装こそ男物だが、紛れもなく女。年齢は俺と同じくらいだろう。

 なんとなく視線を向け続けている俺に、相手も怯むことなく視線を向け続けた。

 ほぼ同時に視線の衝突を解き、俺はさっと場所を開けた。女は軽く頭を下げ、店の奥を見ている。足音がして、男性が戻ってくる気配がした。

「また来る。あとは任せた」

 まだ姿が見えないところへそう声を投げてから、俺は女に一応、一礼して店を出た。

 表に出て高い位置にある太陽をちょっと見上げ、何か食べて待つとしようと決めて歩き出す。

 だから、それに気づいたのは、意識的に気を働かせた結果ではない。

 歩き出した俺は自分に向けられた視線に気づいた。

 幼い頃から何度か向けられたことのある質の視線だったから、自然と察知できただけのこと。

 それでも俺は知らぬ顔をして歩き続けた。

 しばらく視線は俺を追っていたが、程なく気配は消えた。

 どうするかな。

 歩を進めながら、俺は意味もなく空を見上げていた。


       ◆


 私が刀剣を商う店、碧空堂に入った時、奇妙な男の客がぼんやり立っていたのには驚いた。

 驚きを悟られないように平静を装って相手を観察したが、正体はわからなかった。武芸者にも見えるが若すぎる。幼さが残っている顔立ちだった。しかし腕前に関して言えば、決して侮れないものをうかがわせる。

 男が奥に声をかけて店を出て行ってから、番頭のゴウリが出てきた。彼はさっと店の様子を見たようだった。

「先ほどのお客は出て行きましたよ」

 こちらからそう言うと、そうですか、とゴウリが頷く。

「あのお客はどちらから?」

 私の方からそう尋ねたが、はて、とゴウリは明らかなとぼけ方をした。言いたくない、もしくは言えない、ということだ。それが理解できたので問い詰めないことにした。

「頼んでおいた品はできている?」

「こちらに」

 ゴウリが素早く動き、木の箱を持ってきて開封する。

 箱の中には一振りの剣がある。派手ではないが、鍔にはこだわりの意匠が施されている。それ以外は平凡に見える。

 どうぞ、と差し出される剣を受け取り、鞘を払った。

 研ぎあげられた刃は、吸い込まれるような不思議な光り方をしている。

「切れることは間違いありません」

「ええ、それは見ればわかるわ。素晴らしい仕事です」

 鞘に戻し、懐から財布を取り出し、小さな金の粒を渡す。ゴウリは捧げるようにして受け取った。

「世話になりました。また、仕事をお願いするかもしれません」

「はい、お待ちしております」

 失礼します、と私は一礼し、店を出た。腰の剣の位置を調整してから通りを歩き出す。

 それに気づいたのは、過去に何度も向けられた気配そのままだったからで、進むうちに数が増えたのも感じられた。

 足を止め、腰の剣の位置を加減した。

 誘いだったが、相手はそれに乗ってきた。

 前に二人、後ろに一人、男が飛び出してきた。既に三人ともが剣を抜いている。

 私も構わずに手に入れたばかりの剣を抜く。

 こういう場面で合図なんてものは存在しない。名乗ることもなければ、何かを宣言することもない。

 三人はほぼ同時に突っ込んできた。

 私は前に踏み込みながら、左側の一人を狙う。

 三本の筋を刃が突き進むのを、最小限の動作で回避する。空間が限られていたし、三つの切っ先のうちの二つは私の着物を切っていた。皮膚にも浅く触れたかもしれない。

 だが、その時には三人のうちの一人は片腕を肘で切り落とされ、絶叫して倒れこんでいる。

 もしこれで残りの二人が退いてくれれば良かったのだが、二人ともが私に殺到してきた。

 下がりながら斬撃を払い、どうにか隙を作ろうとしたが、切り立てられて下がることに集中するしかない。

 追いまくられる私は通りを横断し、商店の壁を背負う形になっていた。これ以上は退がれない。

 覚悟を決めたのは一瞬のこと。

 飛び込んで、死中に活を求めるしかない。

 ぐっと足を踏ん張ったときに、それは起こった。

 影が差した。

 次には上から降ってきた何かが私に斬りつけている男の一人を踏み潰し、次には突然のことに動きを止めたもう一人は当て身を食らってクタクタと崩折れていた。

 私もまた、状況が読み取れていなかった。

 私の前では着物の裾を払う男がいて。

 記憶が瞬時につながって、先ほど、碧空堂ですれ違った若い男だと理解できた。

 私も訝しげな顔をしていただろうが、向こうは向こうでこちらを不思議そうに見ている。

 ただ、いつまでもこの場に留まる余地はなかった。二人が倒れ、地面には肘から先の人の腕が落ちている。もちろん、地面には血しぶきがはっきり見えた。

 何の言葉もなく、私と男は同時に同じ方に駆け出したのだった。

 ついて来るな、と言いたかったが、助けられたということもあるし、別に男も私についてきたいわけでもないようだった。

 結局、カシムの街の外れまで二人で走り、誰も後をつけてこないことを確認して、落ち着くことができた。男は大袈裟に深呼吸して、首を傾げてこちらを見ている。

 私に何か話せと言いたいのだろうか。

 私の方こそ、この男の正体が気になっていた。


      ◆


 妙なことになった、とは思ったが、俺としても説明する方法がなかった。

 碧空堂を出た時、誰かが誰かを見張っていると気付いた俺は、悟られない距離まで離れてから適当な路地から建物の屋根に這い上がり、静かに元来た方へ戻ったのだった。通りを行く者は気づかなかったし、謎の見張りも俺に気づかないのは上々の出来だった。

 そうして碧空堂を俺も見張ったわけだが、少しすると例の女が出てきた。と思った次にはどこからともなく三人の剣士が飛び出してきたではないか。

 あとはあっという間に斬り合いになり、女はちょっとお目にかかれない剣術を見せて一人を退けたが、残り二人には押される一方になった。

 助ける義理がないどころか、女とはちょっとすれ違っただけだった。

 それでも助ける気になったのは、女の境遇が気になったからだ。

 俺がやったことといえば、時期を見計らって屋根から飛び降り、一人を蹴倒してからもう一人に当て身を食らわせただけだった。蹴倒した方は半ば押し潰されたので、大怪我をしたかもしれない。当て身の方は程なく、気を取り戻しただろう。

 で、女と俺は何故か、同じ方向へ逃げ、人気のない街の外れまで来てしまった。

 俺としては目の前にいる女が何者か、ぜひとも知りたいところだが、女からすれば俺もまた、何者か気になるところだろう。

 先に口を開かせてやろうと首を傾げて待っていると、女は不機嫌そうに一度、鼻をすんと鳴らした。

「助けてくれて、ありがとう。でもあなた、何をしていたわけ?」

 初めて声を聞いたが、どこか舌ったらずで甘ったるい声だ。俺を詰問しているようだが、とても迫力はない。剣を抜いて立っている姿には気迫があったが、普段はそんな様子なんだろう。

「何をしていたって、様子を見ていた」

「何の様子を?」

「誰かを見張っている奴の様子をだよ」

 正直に口にしたつもりだが、女は名乗りもせずにため息を吐いた。

「善意の人助けかもしれないけど、剣も持たずに二人を相手にするつもりだったの? あなたってよっぽど命知らずなのね」

 言葉の意味を理解してから、はあ、と俺は言葉にしていた。それが気に障ったのか、女の目尻が少しつり上がる。

「失敗したら二人とも、今頃、死んでいるわよ。私に構っていないで、どこかへ行けばよかったのよ」

 何言っているんだ? と思ったが、俺は意味もなく自分の様子を見ていた。

 どこにでもいそうな若者、というなりをしているし、ついでに言えば剣も帯びていない。

 つまり、女はどうやら俺をそこらにいるただの無謀な若者、と見ているのか。

 それはだいぶ不服だったが、しかし、自分の身分や力量を証明することなどできないし、うーん、今はこのまま、ただの若造のふりをしていた方がいいか。

「すまないことをした、お嬢さん。余計な好奇心など見せず、逃げるべきだった」

「私みたいなのに関わると、余計なことがないわよ」

「肝に銘じます」

 そう答えつつ、俺は内心、首を捻っていた。

 この女は、何者なんだ? 剣の腕もだが、それよりもいきなり刺客に狙われるなど、普通ではない。どう解釈しても非日常だ。それが日常の生活とは、どこかでよほどに恨みを買ったのか。

 それはそれで気になったが、ここで下手に口出しすると藪から蛇を出すことになりそうだ。

 女は勝手に頷くと、「さっさとどこへなりとも行きなさい」とこちらに背を向けていた。高慢ちきで気にくわないと言えば気にくわないが、我慢しよう。

 俺は一度、太陽を見上げて、これからどこで時間を潰すかと女とは逆方向に歩き出したが、背中に不意に声がかけられた。

「あなた、名前は?」

 振り返ると女も少し離れたところでこちらを見ている。

「ユーリです」

 俺がそう名乗ると女は一度、はっきりと頷くと、名乗ってきた。

「エバよ。ユーリ、達者でね」

「エバ殿。では、これにて」

 そんな形ばかりのようなやり取りで俺は今度こそ女、エバに背を向けたし、エバの方もこちらに背中を向けたようだった。

 その日、俺は日が暮れかかるまでカシムの街をぶらぶらして、それから碧空堂へ戻って剣を受け取った。試し切りをするかと確認されたが、やめておいた。時間もないのだ。

 表へ出て、夜の闇が降りて来る中を大通りへ進む。すでに多くの店が表に明かりを灯し、客引きの声や、店店からの賑やかな声が空気に乗って届いてくる。

 クーサと打ち合わせてある集合場所へ行くと、すでに彼は待っていた。俺に気づくと恭しく一礼するが、俺は思わず笑っていた。

「頬に紅が付いているぞ、クーサ」

「若様、ご冗談を」

「白粉の匂いもするな」

「お戯れを」

 そんなやり取りの間にも二人で揃ってカシムの街を離れていく。途中までは街道を進んだが、脇道へ入る。明かりもないので、月明かりが頼りだが、俺もクーサも夜の闇には慣れている。

 歩きながら、二人で情報を交換した。

 クーサが言うには、カシムの太守は銭を作るために配下の兵の数を減らし、さらに余った武具を売り払っているらしい。兵の数は太守の管理する領分とはいえ、中央から指示があればある程度の数を用意するのが絶対だ。その時、太守が率いる兵の武具はどうするのだろう。

「ともかく、その辺りが盗賊どもの武具の出どころでしょうな」

 なんでもないようにクーサは言うが、政治の乱れは世の乱れに直結するとも見れる。

「太守も器が小さい、ということか」

「かもしれませぬ。ただ、太守のお子のことはご存知で?」

「太守の子? ああ、双子という話だったか。それがどうした?」

「まだ若いそうですが、太守のそばに仕えるものが担ぎ出しているとか」

「父を殺せとでも迫っているのか?」

 はて、とクーサは明言しないが、そういうことなのだろう。

「それはそれで面白くなりそうだが、長は好まぬだろうな」

 何気ない俺の言葉に、口を慎みなさいませ、と素早くクーサが口を挟んだ。口を慎めも何も、クーサが言わせたようなものだった。

 俺はその話題をやめることにして、刀剣を買ったのがきっかけで会った女、エバについて話すことにした。

 ただ、最初は軽口を挟んでいたクーサが、少しずつ沈黙していった。

「何だ、この話題も口を慎む対象か?」

 いえ、とクーサは困惑しているようだった。

「何でも、太守の双子のお子の片方は、女性なのです。剣に秀でて、なかなかの使い手だとか」

「あの女が、その太守のお子だと言うのか? 冗談を言うな」

 思わず笑っている俺の横で、クーサは神妙にしている。

 俺も思わず黙ってしまったが、信じられない。エバが太守の娘で、命を狙われている? それは、太守が我が子を除こうとしているのか?

 いつの間にか月が遠くの稜線のそばに見える。

 思わず溜息を吐き、俺とクーサは先へ進んだ。


      ◆


 カシムの街の中央に砦があり、そこが私の住まいである。

「父上は何を考えているのかしらね」

 その日も私は剣術の稽古を終え、宵の口に兄の寝室を訪ねていた。

 双子とはいえ、男と女では顔つきはまるで違う。兄は私と比べるとはるかに小柄で、私の背丈とは対照的である。手足も私より細く、弱々しい。

 兄は寝台に横になったまま、微笑んでいる。

「父上には父上のお考えがある。ただ、家が乱れるのが好ましくないね」

「兄様の身が心配です」

「僕はこの通り、身動きもままならないからね、どうしようもないさ。家はいずれ、きみが継ぐんだよ」

 やめてください、と思わず口にしたけれど、兄は返答しようとしない。

 結局、その日もこれといって答えが出ないまま、私は自室に戻り、剣の手入れをした。

 カシムの街を中心に周囲を治める太守である父は、少しずつ中央から距離を置きつつある。家臣たちはそれに従う者もいれば、中央を支持して相反する立場を見せつつある者もいる。

 家が二つに割れれば、悲劇でしかない。

 しかし私にはできることがない。

 その夜、寝台で眠っていた私はかすかな音に目を覚ました。

 部屋は小さな明かりでかろうじて照らされている。しかし人の気配はない。いや、もう一度、軽く扉が叩かれている。

「誰?」

「姫様」

 その声は私についている侍女の声だった。侍女と言っても、普段から一人しか私のそばにはいない。

「どうしたの?」

「兵士たちが不穏な動きを……ひっ!」

 不自然な声に私は寝台を降りたところでとっさに動きを止め、壁に掛けてある剣の方へそっと足を進めた。

 それが起こったのは唐突で、激しい音とともに扉が蹴り開けられたかと思うと、強烈な明かりが部屋に差し込んできた。

 声も聞こえたが、構っている余裕はない。誰が、何人が飛び込んできたのかも、考えていられない。

 私は窓際へ走り、押し開けた。

 怒号とともにおそらく兵士だろう数人が突っ込んできた時、私は窓の外へ身を躍らせていた。

 高さは二階程度だが、無防備に落ちることができる高さではなかった。

 ただ、そこには背の高い木が生えているし、木の茂みもある。

 枝の中に突っ込み、太い枝細い枝を幾本も折りながら落ちていく。反動で跳ね飛ばされないように、姿勢を作った。最後の枝が折れて体が一瞬だけ自由になり、次には茂みを突き破って墜落した。

 左肩を痛打し、悲鳴が漏れそうになるがぐっと堪える。足や腰は無事なようだ。すぐそばに落ちていた剣を拾い上げ、私は駆け出した。

 砦は周囲を壁で囲まれているが、乗り越えられなくはない。ただ、今の騒ぎでそんなことができるだろうか?

 それでも寝巻きの帯に剣を引っ掛け、城壁に取り付いた。わずかなおうとつを頼りに、体を持ち上げていく。左腕は痺れてて頼りないが、それでも使うしかない。

 苦心の末に壁を乗り越え、反対側へ落ちた時には腰を打ち付けたが、私は立ち上がった。城壁の向こうは道が囲んでいるが、堀があるわけでもないのが今はありがたい。

 カシムの街は砦での出来事など何もなかったかのように、普段通りだ。深夜のはずだが、歓声がどこからともなく聞こえてくる。

 私は息を潜めて、砦を離れようとした。

 だが、不意に明かりがこちらを照らし、足を止めざるをえなかった。

 どうやら砦の周囲にも兵士が配置されているらしい。間違いなく、父の手勢だ。

 ついに、我が子を排除すると決めたのだろう。

 奥歯を噛み締め、私は光から逃れるように進んだが、自然、街道に近づく形になった。そして向かいからも兵士の一群が現れ、行く手を塞いでいく。

 場違いなどこかの宴席からの笑い声を聞きながら、私は唇を噛むしかない。。

 ついに兵士たちは私を街道の中央で包囲し、切っ先を並べてきた。

「姫様、ご抵抗なさいませぬよう」

 指揮官らしい一人が、そう声を向けてくる。

 抵抗するなだと?

 私は思い切って剣を抜こうとした。

 そうしなかったのは、聞き慣れない音が聞こえたからだ。

 最初は微かな振動のようだった。

 次に低い音、高い音が幾重にも重なって聞こえ、轟音へと変わった。

 街の空気はその音に支配され、音の源は、光の塊となって街道をあっという間にこちらへ向かってきた。

 兵士たちが隊列を組む前で、松明を並べたのは騎馬隊で、数がすぐにはわからない。

 兵士たちも数の差を理解したのか、明らかに浮き足立っていた。

 騎馬隊の先頭にいた何者かが馬を降りると、数人を引き連れて近づいてくる。

「我々はクバ族のものである。これより、ルストス様とエヴァンス様に加勢する。太守殿とはまずは話し合えるものと思うが、どうか」

 若々しい声に、兵士たちは無意識にだろう、ジリッと後退した。

 兵士の指揮官が抗しきれず、砦へ戻るようにと指示を飛ばした。声が行き交い、兵士たちは私を残し、下がっていく。騎馬隊が代わりに前進し、先を歩く誰かの後へ続いて私の前に整列した。

「エヴァンス様ですね? 私はクバ族のユリウスというものです」

 そう声をかけてきた人物を見て、私は思わず目を丸くしてしまった。

「ユーリ?」

 目の前にいるのは、いつか私を狙った刺客を退けた青年だった。

 見間違いかと思ったが、見間違いではない。

 私が絶句しているのに対し、青年は私の言葉には少しも応じずに別のことを言った。

「エヴァンス様、あるいは戦となるかもしれませぬ。ご辛抱を」

「ユーリ、いえ、ユリウス。これはどういうことですか」

 私が気を取り直して問いかけるのに、ユリウスは初めて表情を緩めた。

「太守様の不穏な動きは把握しております。我々は中央の意を受けております」

「中央の意を受けている? 中央はこの地のことを詳細にご存知ということ?」

「我々がお知らせしたのです。中央はエヴァンス様、もしくはルストス様がこの地を治めることを望んでおります。今の太守殿には退いてもらうことになろうかと」

 そうか、としか言えなかった。

 味方がいないと思っていたが、どうやら違ったらしい。しかし、父を追うなどということは、私や兄ではできなかっただろう。

 ユリウスたちは馬を降りると隊列を組み、砦を囲む壁に設けられた門を全て押さえたようだった。私は彼らに保護され、その夜を明かし、翌日もそのままだった。

 数日ののち、父は太守の座を降り、隠居することが決まった。

 兄のルストスは、すでに害され、亡き者にされていた。

 私は感情の整理もつかないまま、ユリウスの属するクバ族と他の有力部族を後ろ盾に、カシムを治める太守の座に着いた。

 街には何も混乱はなく、日々は継続した。

 砦で起こった事態についての噂も、すぐにどこかへ行ってしまった。

 私の日常だけが変化したようだった。


       ◆


 砦の一室で、俺は太守の側に控えていた。

「ユリウス」

 書類に署名していくだけの仕事をしている太守が声を向けてくる。

「何故、あの時に名前を名乗らなかったの?」

 いつのことかと思ったが、今はない碧空堂でのことかと理解した。

「クバ族の長の子などと名乗れるわけもないだろう」

 そうかもね、と太守は答える。

「そういうお前も偽名を名乗ったな。何故だ?」

 俺の問いかけに、太守は少しだけ笑ったようだった。

「誰にも秘密はあるものよ」

 そうかい、と俺は相手にしない態度を見せた。

 幾度かの戦もあったが中央の政権は安定し、今ではカシムの太守もその中で大きな力を持ちつつある。

 俺がしているのはその太守の側近として兵をまとめることで、場合によっては隊を指揮するが、そんな場面も減ってきた。そのせいか、太守は時折、俺を呼びつけてそばに置くことがある。

 やること、できることもなく、俺はただ控えているだけだが、太守は不意打ちで言葉を投げかけてくる。重要な内容ではなく、世間話だ。

「あの頃は若かったわね」

 太守の声は、少しだけ掠れている。

 俺はどうとも答えずに、直立していた。

 あの頃は若かった。その通りだ。

 時は流れ、様々なものが変わった。

「元に戻りたいと思う?」

 問いかけに、さあ、と答えがあった。

 戻りたいかどうか、言う必要はない。

 秘密でもなんでもないのだ。

 当たり前の感情は俺の中にもある。

 彼女の中にあるのと同じものが。



(了)

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あの日の二人 和泉茉樹 @idumimaki

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