四章 龍神のつがい /三 覚悟【1】

 身が焼かれるように熱い。

 咳き込んで呼吸が上手くできず、汗が滝のように流れていた。



(ダメ……もう、意識が……)



 必死に立っていた凜花だったが、思考がぼんやりとしていき、それとともに膝から力が抜けていく。



 もう目を開けている気力も失いかけ、瞼を閉じたとき。


――火焔を……火焔を救ってあげて。


 悲しみに満ちた声が、凜花の鼓膜を揺らした。



「りん、さん……」



 この声を知っている。

 夢の中でも、火焔に最初に会ったときにも、凜花に語りかけてきた。

 朦朧とする意識の中、凜花は両手をついて四つん這いの体勢になる。



「火焔……」


「どうだ、俺の炎の味は? ラクに死なせてやるものか。じわじわといたぶって、聖が来たら一気に焼いてやる」



 憎しみがこもった言葉が、やけに悲しかった。

 あんなに恐怖心を抱いていたのに……。かわいそうな人だ、と思った。



「あなたは……凜さんが好き、だったんだよね……? 聖さんとは、幼なじみで……親友で……」


「聖から聞いたのか?」


「今でも苦しいの……?」


「苦しい、だと?」



 ぜえぜえと息をする凜花は、もう話すのは限界だった。

 煙を吸いすぎたせいか、意識を保てそうにない。



「そんな生温い感情じゃない!」



 けれど、火焔の言葉を聞こうと、必死にこぶしを握る。



「俺には幼い頃から凜しかいなかった。凜も俺を好いていてくれたはずだった……。それなのに、あいつは……!」



 龍にとって、つがいとは唯一無二の存在。

 凜が好意を持っていたとはいっても、恋愛感情ではなく火焔自身に対して友人として好きだった……ということだろう。



「つがいがどういうものか、俺も龍だから知っている。それでも、俺が龍神になれば凜が振り向いてくれるかと思った。だが……」



 恐らく、火焔は聖に敵わなかったのだろう。

 龍の力でも、ひとりの男性としても……。



「あんなに大切だったのに、いつしか聖の隣で幸せそうに笑う凜に憎しみを感じるようになった」



 愛情が憎しみになり、心の中にあった愛が燃えていく。



「凜は、ずっとひとりだった俺に唯一優しくしてくれた。虐げられてばかりで強くなるしかなかった俺に、凜だけは優しくしてくれた。俺には凜しかいなかった。それなのに……」



 凜花の心の中には、憎しみがあった。

 蘭丸や菊丸、玄信たちを傷つけた火焔を許せない。

 けれど同時に、胸が締めつけられた。



「つらかったね……」



 体と心、どちらが苦しいせいかはわからないが、凜花の瞳からは涙が零れていた。



「お前になにがわかる?」


「私も……ずっと、ひとりだった……。ようやくできたたったひとりの親友も、簡単に失った……」


「それがなんだ? お前は今、幸せだろう。その程度の苦しみで――」


「でも……私の中の凜さんが泣いてる……」



 凜花が涙交じりに答えると、炎が弱まった。



「っ……適当なことを言うな!」



 火焔の動揺が火に現れたことは明らかであるが、凜花にはもう話す気力も残っていない。



(聖さん……)



 大きくなった炎に、いよいよ絶望が過る。



(好きって……言えなかったな……)



 ぼんやりとする意識の中で、再び瞼を閉じる。



「凜花!」



 刹那、自分を呼ぶ声が凜花の耳を突いた。



 空から聞こえたのが聖の声だとわかるのに、もう目を開ける力もない。

 けれど、体が彼に抱きしめられたのを感じ、一筋の涙が零れた。



「よう、聖。随分と遅かったじゃないか」


「火焔!」


「俺が用意した龍たちはどうだった? お前の相手にはならんだろうが、あの数だ。城と屋敷を少しくらいは傷つけられただろう?」



 聖は答えなかったが、火焔の口ぶりからは城と屋敷を襲わせたのだろう。



「龍神だなんて崇められていても反乱分子は必ずいる。俺やあいつらのような恨みを持つ者はまだまだいるぞ」


「それがどうした?」



 聖の右手が龍に変化し、凜花と彼を囲む炎を薙ぎ払う。



「一度ならず二度までも俺のつがいに手を出したこと、後悔させてやる!」



 凜花を横たえさせ、聖が立ち上がる。

 左手も龍の姿になった彼は、空に翳したその手で雷雲を呼び、竜巻を生み出す。

 右手は地面に翳すと、火焔に向かって地割れを起こした。



 聖はそのまま右手で炎も放ったが、火焔も炎で応戦してみせる。

 膨大な力がぶつかり合い、中央で炎が舞い上がる。



「玄信、桜火、凜花を!」


「御意!」



 玄信と桜火は、傷だらけの自らの体も顧みず、凜花をこの場から逃がそうとする。



「……ん……桜火さん? 玄信さん……?」



 そこで気がついた凜花は、目の前の光景に瞠目した。



「聖さん!」


「姫様、ひとまず屋敷へ!」


「聖様なら大丈夫です! あの方は万物を操れる、龍の頂点に立つお方ですから!」


「でもっ……!」



 玄信の説明にも、凜花は食い下がる。

 聖は、万物においてすべての基本物質とされている空・風・火・水・地を操ることができる。

 龍神として力を認められたただひとりの龍だけが手に入れることができる、唯一無二の強大な力なのだ。



 玄信からそう説明されても、凜花にとっては重要なのはそんなことではなかった。

 凜花の中にある、凜の魂が泣いている。

 これまでは無意識下でしか感じられなかった彼女の魂の存在を、こんなにも強く感じている。

 それはまるで、凜が最後の力を振り絞っているようでもあった。



「ぐあっ……!」



 次の瞬間、ぶつかりあっていた炎が火焔を襲い、彼が唸るように声を上げた。

 炎に巻かれた火焔は、火を操る龍だというのに自身を焼く炎をいなせない。

 力の差は歴然で、程なくして彼の体は炎でボロボロになっていた。



 聖が炎を消し、指に力を入れた右手を火焔に向ける。



「このまま心臓を焼き尽くしてやる! あの世で凜に詫びてこい」


「っ!」



 直後、凜花は玄信と桜火の腕を振り解いて走り出した。



「姫様!」



 ふたりの声が重なるが、凜花は気にも留めずに炎を纏う聖の手にしがみつく。



「ッ!? 凜花!? 放せ!」


「ダメッ!」



 凜花は灼熱に顔を歪ませながらも聖の腕を離さず、彼は動揺しつつも炎を消した。



「なぜこんな無茶を……!」


「だって……」



 困惑と驚愕でいっぱいの様子の聖に、凜花が首を横に振る。



「ふたりとも、もうやめよう? 憎しみ合うのは苦しいし、つらいよ……」



 凜花は知っている。

 人を憎む苦しさとつらさを。

 そこから生まれるのは、悲しいものばかりだということを……。



「凜花……」



 凜花の着物が焼けていることに気づいた聖の顔が、罪悪感で満ちていく。

 けれど、凜花は小さな笑みを浮かべた。



「凜さんは、こんなこと望んでないよ」


「え……?」


「友達を傷つける聖さんを見たいはずがない。凜さんも私も、ふたりにこれ以上憎しみ合ってほしくない。だから、もうやめよう」



 凜花を通した凜の言葉が、聖の心に届く。

 彼は苦しげに顔を歪ませたあと、意を決したように小さく頷いた。



「ああ、そうだな……」



 聖の双眸には、微かに涙が滲んでいる。

 それでも、彼はもう火焔を攻撃する気はないようだった。



「う……」



 少しして火焔が目を開けたが、もう起き上がる気力すら失っていた。



「聖……とどめを刺せ……」


「……いや、できない」


「は……?」


「止められたからな。凜花と、凜に……」


「……っ」



 聖の言葉に、火焔が顔を歪める。



「だが、お前の龍の力を奪う。お前はこの先ずっと、火の龍の力を失くして生きていくんだ」


「……好きにしろ。どうせもう、俺はなにもできない……」



 火焔の両手は焼けただれ、着物が燃えた上半身にも大きな火傷を負っている。

 体を起こすこともできないようで、聖が火焔の心臓のあたりに手を当てても微動だにしなかった。



「……ぅ」



 火焔が小さなうめき声を上げると、聖の手が光を纏った。

 それは、火焔の体から出て聖に吸い取られていくようでもあった。



「これでもう、お前は火を操れない。力を失くした龍は飛ぶこともできない」


「俺をどうする?」


「……城で投獄していろ」



 火焔は力なく笑い、聖は悲しげに見えた。

 凜花は視線を逸らさずに、ふたりの姿をしっかりと目に焼きつける。



 凜に伝えるように、聖と火焔のことを見守るように。

 ただ真っ直ぐな双眸を向けていた。


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