四章 龍神のつがい /二 奪われる穏やかな時間【2】

 丘に近づくと、空に煙が舞い上がっていることに気づいた。

 火焔がいるのだ、と直感で悟る。

 緩やかな坂を駆け上がると、臣下とともに玄信がいた。



「火焔!」



 凜花の声に、振り返った玄信が瞠目する。彼は傷だらけで、左手と左脚の一部が焼けただれていた。



「……クッ、姫様! なぜここに……!?」


「あのガキ、ちゃんと伝言したみたいだな」



 火焔が不敵に笑う。彼の足元には、菊丸が倒れていた。



「……伝言?」


「こいつを返してほしければお前を呼んでこいと言ったんだ。弟とお前たちの姫を交換してやる、ってな」



 下卑た笑いが丘に響き渡る。



「あのガキ、『姫様は我々がお守りします』なんて言っておいて、結局は我が身が可愛いんじゃねぇか」


「違うっ……!」


「あ?」


「蘭ちゃんは『大丈夫』って……『稽古』だって……なんでもないって笑ってた……。あんなに傷だらけで、菊ちゃんが捕まってるのに……私をここに寄越そうなんてしなかった!」


「なら、どうして来た?」



 凜花の瞳から、涙がボロボロと零れ落ちる。



「大事だから……」


「ハッ……! こんなクソガキがか?」


「そうだよっ! 蘭ちゃんも菊ちゃんも……聖さんも、聖さんが大事にしてる人たちも、私にとってはみんな大切なの……ッ!」


「はははっ! 大切? 笑わせるな」



 喉が痛いほどに叫べば、火焔が腹を抱えるようにして笑い出した。



「お前は凜の魂の生まれ変わりで聖のつがい候補だから、凜の代わりに大事にされているだけだ。誰もお前自身なんて必要としていないのに、お前はそれでもこいつらが大切だと言うのか?」



 冷たい視線が、凜花を射抜く。



「大切よ」



 けれど、凜花はそこから目を逸らすことなく、彼を真っ直ぐ見据えた。



「身寄りのない私に、この人たちは家族のように接してくれた。たとえそれが凜さんの代わりでも、聖さんのつがい候補だからでも、私はすごく嬉しかった」


「へぇ。それで?」


「だから、この人たちを傷つけるなら許さない」


「ならどうする? ただの人間のお前になにができる? こいつの身代わりに俺の手に捕まるか?」


「ゥッ……ッ」



 火焔が菊丸を踏みつけ、菊丸が力なくうめく。



「やめてっ! 私が菊ちゃんの代わりにそっちに行くから、菊ちゃんを放して!」


「なりません、姫様!」



 玄信が止めるが、凜花は足を踏み出す。

 彼も臣下たちも深手を負っているようで、伸ばした手は凜花に届かない。



「ほう。お前がその気なら、こいつは返してやるよ」



 片手で摘まむように菊丸を持った火焔が、うっすらと笑う。



「だが、今すぐに来なければこいつを投げ捨てる」


「っ……」



 凜花は恐怖心を抱えながらも、さらに歩を進める。

 足が震えて走ることはできなかったが、できる限り早く歩いて彼に近づいた。



「物わかりのいい女は嫌いじゃない。……約束だ」



 言うが早く、火焔が菊丸を振り上げる。



「菊ちゃんっ……!」



 凜花が咄嗟に手を伸ばしたが、菊丸の体は勢いよく宙を走った。



「クッ!」



 跪いていた玄信が、体で菊丸を受け止める。

 菊丸は意識を失っていたのか、声ひとつ上げなかった。



「菊ちゃん!」



 思わず菊丸のもとに駆けだそうとすると、火焔が龍の右手で凜花の身の回りに火を放つ。



「おっと、お前は返さない」


「姫様! 火焔、姫様には手を出すな!」


「黙れ、役立たずの老いぼれが! お前が聖の右腕だと? どいつもこいつも笑わせる。聖はどれだけ腑抜けになったんだ」


「貴様……!」



 立ち上がるとする玄信に、火焔は左手も龍に変化させ、火矢を飛ばした。



「ぐぅっ……!」


「あまり俺を怒らせると、せっかくこの女が命に代えて守ろうとしたそのガキに当たるぞ? この女はここで俺に焼かれてもらう。凜と同じように、な?」



 たちまち火の手が上がり、すぐに凜花の背丈ほどになった。



「皮肉だな。ここはあいつが……凜が一番好きだった場所だ」



 ハッと吐き捨てるように笑った火焔は、火の中にいる凜花を見つめながら丘一帯へと視線を遣る。

 冬にもかかわらず、この丘には一帯に白い花が咲いている。

 蘭丸たちは、凜花のためにこの花を摘んできてくれるつもりだったのだろう。



「千年前に凜もろともこの地を焼いたというのに、いつからか草木が生えて再び花も咲いたなんて……どこまでも忌々しい女だ」



 独り言なのか、凜花に話しかけているのか。

 大きくなっていく炎の中では呼吸もままならず、凜花は火焔の言葉を聞く余裕もなくなっていく。



「さあ、再びここを火の舞台にしてやろう。聖のつがいを燃やすための炎が舞うぞ」



 彼が手を軽く振れば、火はさらに燃え上がる。



「姫様ー!」



 そこへ桜火の声が響いた。

 凜花がいないことに気づいた彼女は、きっと助けに来てくれたに違いない。

 しかし、火はより高く上がり、凜花の目では桜火の姿を確認できなかった。



「桜火さん! みんなを早く……!」


「なりません! 我々の命よりも姫様の方が大事なのです!」



 彼女の声とともに、地響きのような音が鳴った。

 直後、ボンッ!と爆発音が響く。



「あぁっ……!」


「桜火さん!?」


「姫より先に死にたいなら望み通りにしてやろう。お前程度の火なら片手で充分だ」



 桜火の悲鳴のような声とともに、反対側からバチバチと音が聞こえてくる。



「やめて! ……ッ、ごほっ……ッ! 約束が違うでしょう!」


「きゃああぁぁっ!」



 凜花は咳き込みながらも訴えた瞬間、桜火の悲鳴が上がった。



「やめて! やめてよっ!」



 火に囲まれている凜花には、状況が音でしかわからない。

 揺らめく炎の隙間から見える彼女たちは、地面に伏すように倒れていた。



「お願いだから……!」



 自身も呼吸ができなくなっていく苦しみの中、大切な人たちが傷つけられていくことがもっと苦しい。



 ずっと友人が欲しかった。

 家族が、愛してくれる人が、欲しかった。



 けれど、大切な人たちが自分のせいで傷ついていくことがつらい。

 自分になんの力もないことが悔しい。

 灼熱地獄のような火の中、凜花の瞳に映るのは怒りに似たような赤色。

 華奢な体は、この間よりもずっと大きな炎に包まれていく。



「聖さっ……!」



 意識を失いそうだったとき、無意識に口にしていたのは大好きな人の名前だった。


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