二章 天界と下界/四 心の距離【1】

 翌朝、朝食を済ませると、凜花は身支度を整えた。

 桜火が口紅を塗ってくれたからか、鏡に映る凜花の姿はいつもよりも大人びている気がする。

 聖は、そんな凜花を目にするなり、「とても可愛い」と褒めてくれた。



 街へは彼とふたりで行くはずだったが、蘭丸と菊丸がしょんぼりしているのを見ると、凜花は放っては行けなかった。

 蘭丸たちを連れて行ってもいいかと頼むと、聖は微妙な顔つきになったが、嫌がることなく頷いてくれた。

 結果、ふたりの子守りとして玄信と桜火も付き添うことになり、大所帯での移動となってしまった。



 とはいえ、人力車に乗るのは聖と凜花だけ。

 玄信と桜火は、背後を涼しい顔で走ってついてきていた。彼に至っては、蘭丸と菊丸を両肩に乗せている。

 一見すると強面の玄信だが、蘭丸たちは彼にも懐いている。以前に凜花が感じた通り、彼は見かけと違って心根の優しい人なのだろう。



 街に出ると、車夫は人力車とともに広場に留まることになった。

 聖の案内で、先日回れなかった街の奥の方へと歩いていく。

 後ろからは四人がついてきていたが、はしゃぐ蘭丸と菊丸とたしなめる玄信はさながらふたりの父親のようだった。

 なんだかおかしくて、凜花の頬が綻んでしまう。



「よかった。凜花が笑ってくれて」


「え?」


「昨日、紅蘭が来てからずっと元気がなかっただろう」



 ずばり指摘されて、曖昧に微笑むことしかできなかった。

 紅蘭の言葉が、ずっと心に残っていた。彼女の敵意はわかりやすく、天界には同じように思う人もいるのだろう……と実感させられたのもある。

 その上、紅蘭は彼と並んでいてもお似合いで、自分とは月とスッポンほど違う。

 なにもかもが、凜花の胸の奥を重くさせたのだ。



 そもそも、凜花にはまだ、聖のつがいだという自覚はない。

 彼の千年前の恋人の生まれ変わりなんて言われてもピンと来ないし、自分の気持ちだってちっともわからない。

 紅蘭の方が聖とお似合いだと思うと胸が痛んだが、それだって彼女から伝わってくる憎しみによってそう感じただけかもしれない。



 彼のことをどう思っているのか、ずっと考えてはいる。

 しかし、凜花はまだ明確な答えを出せずにいるのだ。

 もっとも、凜花のことを知っていた聖とは違い、凜花の方は彼と出会ってから一か月にも満たない。

 ただでさえ目まぐるしかった日々の中、心に余裕はなかった。

 自分の本心がわからないのも無理はない……と言えるだろう。



「着物やかんざしを見ないか? なにか凜花に贈りたいんだ」



 凜花は、すぐに首を横に振った。

 今日着ている着物は先日街に来たときと同じものであるが、屋敷に戻れば着物もかんざしもたくさんある。恐らく、一か月は毎日違う着物を着られるだろう。

 どれも聖が用意させたものだと、桜火から聞いている。

 正直、これまで質素な暮らしをしてきた凜花の手には余ってしまっている。



「凜花の好みが知りたいんだが」


「いえ……。用意してくださっているもので充分ですから」



 凜花がさらに遠慮すると、聖が残念そうに眉を下げた。

 こういうとき、凜花は素直に他人からの厚意を受け取れない。

 これまでにそういった経験がないことが大きな理由だったが、なによりも凜花が欲しいのは物ではないからである。



 両親、居場所、自分を求めてくれる人。

 ずっと願っても手に入らなかったものたちは、決してお金で買うことはできない。

 仮に金銭で手に入れたとしても、それは偽り以外の何物でもない。

 彼は凜花のことを求めてくれているが、すべてを真に受ける勇気はない。

 自分の中に凜の生まれ変わりだという自覚がないことよりも、紅蘭の言葉がずっと引っかかっているからである。



 胸が疼くたびに漏れそうなため息はなんとか押し込めたが、賑わう街に反して凜花の表情は曇っていく。



「聖様、お腹空いたです!」


「おやつが食べたいです!」



 それをとどめてくれたのは、蘭丸と菊丸の無邪気な笑顔だった。



「これこれ。蘭丸、菊丸、おふたりの邪魔をしてはいけませんよ」



 ふたりをひょいっと抱き上げた桜火は、まるで母親のようだった。



「いや、構わない。少し休憩しよう」



 聖は小さく笑い、すぐ近くの大きな日本家屋へと促した。



「ようこそおいでくださいました、聖様。お席のご用意は整っております」



 どうやら彼の贔屓の店らしく、女将と思しき女性が甲斐甲斐しく出迎えてくれた。



「聖様、おやつですか?」


「先に昼食だ。おやつは食後に食べさせてやる」



 聖が蘭丸の質問に答えると、蘭丸と菊丸が嬉しそうに目を輝かせる。

 玄信と桜火は外で待機していると言ったが、聖が「みんなで食べる方が凜花も嬉しいだろう」と告げた。

 かくして、大部屋に通された一行は、仲良く昼食を摂ることになった。



 料理は、まるで茶懐石のように次から次へと出てくる。

 箸をつければどれもおいしくて頬が綻んだが、ひとつ食べれば次の料理が出てくるため、凜花は面食らった。



「これはなんの料理ですか?」


「ハクの実の煮つけだ」


「えっ? ハクの実の?」


「前にうちの庭に実ったものを食べたのだろう? ハクの実は天界では高価なものでな。こういった店でしか出てこない」



 聖の屋敷には、ハクの木がたくさんある。

 それこそ、蘭丸と菊丸はあの日以外にも何個も食べていたし、臣下たちも普通に口にしているようだったため、まさかそんな高級品だとは思いもしなかった。

 そんなものに火を入れるなんて、とても贅沢なことではないのだろうか。



 ハクの実の煮つけは、あの日食べたものとは全然違う。

 生で食べたときには食感はりんご、味は桃のようだったが、これは煮込んだ大根のように口の中でとろけていった。

 味付けも、醤油ベースに近い感じがする。

 どちらもおいしいが、凜花は実をそのまま食べる方が好みだと思った。



 その後も料理は出てくる雰囲気だったものの、お腹がいっぱいだと言って止めてもらった。

 凜花よりもずっと小さい蘭丸と菊丸は、凜花の四倍以上は食べていただろう。

 聖や玄信はそのさらに倍、桜火はふたりほどではないものの、蘭丸たちよりもたくさん食べていた。

 普段は聖としか食事を共にしないからさして気にしていなかったが、龍というのはよく食べるのかもしれない。



「みなさん、よく食べられるんですね」


「龍は常に力を使うからな」


「力……?」


「ああ。俺たちの中には自然を凌駕するほどの力を持つ者もいる。そういう強い力を制御し続けなければいけない。そのためにも食欲は人間よりも遥かに多いだろう」


「蘭丸も強くなるです!」


「菊もです!」


「お前たちはまだまだだ。龍の姿で満足に飛ぶこともできないだろう」



 聖と桜火が苦笑し、玄信が呆れたような顔をしている。



「もっと大きくなったらできるです」


「玄信様みたいに強くなって、聖様のお仕事をお手伝いするです」



 しかし、蘭丸と菊丸はキラキラした目で玄信を見た。

 玄信は「修行に励みなさい」と言っただけだったが、その顔はどこか気恥ずかしそうでもある。

 聖と桜火が小さく噴き出し、凜花もつられてしまう。



「厳しい玄信もこいつらの純粋さの前では形無しだな」


「からかわないでください」


「そう言うな。こいつらにとってはお前が目標なんだ。たまには稽古でもつけてやれ」


「……御意」


「稽古ですか?」


「玄信様が教えてくれるですか?」


「聖様のご命令だ。今度、稽古をつけてやる」


「わぁーい!」



 ため息交じりの玄信に、蘭丸と菊丸は大喜びで凜花のもとにやってきた。



「蘭たち、もっと強くなるです」


「姫様をお守りするです」


「うん、ありがとう」



 ふたりのおかげで、凜花の心が和んでいく。



 少しして料理屋を出ると、蘭丸と菊丸の希望でお菓子を買いに行くことになった。

 ふたりは『雲飴くもあめ』というものが大好物らしく、聖に買ってもらっていた。

 見た目は薄い水色で、雲のようにふわふわである。綿菓子によく似ているが、食感はまったく違うのだとか。

 彼が凜花にも買ってくれたため、凜花は恐る恐る口にしてみた。



「んっ……! なにこれ、シャリシャリしてる……!」



 どう見ても綿菓子のようにふわふわなのに、口に入れた瞬間に見た目に反した食感が広がっていった。

 砂糖のような、かき氷のような……。とにかく、シャリシャリとした食感なのだ。



「それなのに、優しい味っていうか……甘いけど、いっぱい食べたくなっちゃう」


「天界の子どもたちに一番人気のお菓子なのだ。甘くておいしいだろう?」


「うん! ……あっ、はい」


「言い直さなくていい。むしろ、凜花の余所余所しい話し方は少し寂しいからな。今のように普通に話してくれる方が嬉しいんだが」


「えっと……じゃあ、善処してみます」



 聖が嬉しそうに微笑み、凜花の胸の奥に甘い感覚が広がっていく。

 甘ったるくて優しいそれは、まるで雲飴のようだった。

 凜花を見つめる彼の目があまりにも柔和で、凜花はどぎまぎしてしまう。

 時間は、優しく穏やかに、ゆっくりと過ぎていった。


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