二章 天界と下界/二 龍の住処【2】
桜火が手伝ってくれたおかげで、身支度はすぐに整った。
「姫様、楽しんできてください。屋敷の外には姫様にとって驚くこともあるかと思いますが、姫様が天界を気に入ってくださると嬉しいです」
「ありがとうございます」
彼女の言葉に、自然と笑顔になる。
「聖さん」
「やっぱりその着物がよく似合うな。凜花のために仕立てさせたんだ」
聖のもとに行くと、彼はすぐさま満足げに微笑んだ。
着物は、天界に来て初めて着付けてもらったものだった。
「凜花が来るまではその着物をただ見ているだけだったが、こうして身に纏う凜花が見られて嬉しいよ」
ごく普通に褒められて、凜花の胸の奥が高鳴る。頬が熱くなった気がして、慌てて目を伏せた。
「ほら、行こう。街は広いから、色々と見て回るにはいくら時間があっても足りないんだ」
聖が凜花の手を引き、屋敷の外へと向かう。
池の傍にある大きな赤い門が開くところを見るのは初めてで、凜花は少しだけドキドキした。
門が開くと、森に囲まれていた。
目の前には人力車のようなものが用意されている。
「街にはこれで行こう。俺が龍になって飛んだ方が早いんだが、凜花にゆっくり景色を楽しんでほしいから」
彼の言葉は本音だったのだと思う。
その上で、凜花を驚かせない気遣いもある気がして、笑顔で頷いた。
突如、聖が凜花を抱き上げる。
驚きのあまり声も出せなかった凜花を、彼は人力車の座席に乗せた。
クッションのように柔らかく座り心地が好い。
聖も隣に座ると、凜花はその近さにどぎまぎしてしまう。
車夫は、聖の臣下のようだった。凜花と顔を合わせるのは初めてだったが、二十代中盤くらいの男性は丁寧に挨拶をしてくれた。
幌が下ろされ、車夫が人力車を引いて走り出す。
聖の屋敷がまるで人目を隠すように森の中にあったことを、凜花は初めて知った。
「街まではどれくらいかかるんですか?」
「十分もかからない」
どこを見ても緑しかないが、たった十分で着くと聞いて少しばかり驚く。
「凜花、上を見てごらん」
彼が指差した方向に顔を向けると、空にはたくさんの龍が飛んでいた。
「えっ……」
「天界に住む龍たちだ。もともと屋敷には結界が張ってあるから、外から中の様子は見えない。凜花がこちらに来てからは、屋敷からも空を飛ぶ龍の姿が見えないようにしていた。庭にいても空しか見えなかっただろう?」
「はい……。でも、どうして?」
「凜花を怖がらせたくなかったのがひとつ。だが、一番は怖がったことによって、下界に戻りたいと思われたくなかった」
聖の本心が聞けたことが嬉しい。
確かに、この光景を初日から見ていたら恐怖心を抱いていたかもしれない。
しかし、今はそんな風に思うどころか、空を舞うように飛んでいる龍たちを美しいとすら感じた。
赤、青、黄色、緑……龍の体は色とりどりで、まるで蝶のようにも見える。
なにより、凜花が知っている龍たちはみんな怖くはなかった。
玄信は見た目や話し方こそ厳しいが、下界に降りたときになんとなく心根の優しい人だと感じた。主に対する忠義の厚さもよくわかる。
桜火を始め、蘭丸と菊丸、他の臣下たちも優しい。
もっとも、凜花が聖のつがいであるから……という理由なのはわかっている。ただ、それでも今は龍に対する恐怖心みたいなものはなかった。
「龍って、みんな体の色が違うんですか?」
「厳密に言えば違うが、似た色の者はたくさんいる。たとえば、赤系なら火の力を、青系なら水の力を持っている」
「黄色や緑は?」
「黄色は雷、緑は大地だ」
「あっ……でも、聖さんは銀色でしたよね?」
「俺は龍神だからな。龍が操れるすべての力を持っているんだ」
「龍神って……」
そういえば、初めて会った日、そんなことを言っていた気がする。
もうずっとそれどころじゃなくて、忘れていたけれど……。つまり彼は、〝龍の中で最も力のある者〟ということなのだろうか。
「えっと、一番偉い人ってことですか?」
「まぁそうとも言うか。すべての龍を統べる者であることは間違いない」
聖が、凜花を外に出したくない理由がなんとなくわかった。
龍の世界がどういうものかはわからないが、人間の世界でも権力争いみたいなものはあって、上にいる者を蹴落とそうとする者はいる。
凜花はそんな環境とは無縁だったが、彼の気持ちは少しだけ理解できた。
「龍って姿が似ているんですね」
「俺たちから見ればそうでもないが、凜花の目にはそう見えるだろうな。だが、銀色の龍は俺だけだ。だから、俺が龍の姿になってもすぐに見つけられるだろう」
「ふふっ、そうですね」
冗談めかしたように微笑まれて、凜花は自然と笑ってしまう。
そんな凜花の笑顔を、聖は嬉しそうに見ていた。
「ほら、街が見えてきた」
「わぁっ……!」
凜花の視界に入ってきたのは、まるでマンガで読んだ江戸時代の花街のようだった。
和風の家のような建物が並ぶ道を、着物に身を包んだ人たちが行き交っている。店も並んでいるようで、賑わっているのがわかった。
「なにが見たい?」
「なんでも見たいです! あっ、蘭ちゃんと菊ちゃんにお土産も買わないといけませんよね」
「ああ、そうだったな」
街に入ると、人々の目が聖に向く。すると、彼の姿を見た者は頭を垂れ、凜花のことを一瞥した。
「聖様よ」
「じゃあ、お隣が噂の?」
「ああ、つがいだろう。見たところは力が強そうでもないな」
「それより、どうして街に? お供は車夫だけか?」
どこからともなく聞こえてくる声が、凜花を不安にさせる。
直後、凜花の右手が優しく包まれた。聖が手を握ってくれたのだ。
「凜花。周囲の目や声は気にしなくていい。俺といれば危害を加える者はいないが、不安なら俺だけを見ていろ」
美しい顔が湛える自信に満ちた笑みには、蠱惑的な魅力があった。
凜花の鼓動が大きく跳ね、ドキドキと騒ぎだす。途端、人々の視線よりも目の前にいる彼の存在に心が奪われた。
「いい子だ」
外野がどれだけ凜花を見ていても、聖の声ばかりが鼓膜をくすぐる。
彼は凜花を慈しむように見つめると、人力車から降りて街を案内してくれた。
街にいる者たちは聖に気づくと、驚いたような顔をしていた。
しかし、彼の傍では滅多なことは言えないのか、さきほどのように凜花について言う者はいない。
好奇の視線にさらされてはいたが、凜花を気遣ってくれる聖のおかげで街での時間を楽しんだ。
屋台のようなものが出ていたり、茶屋があったりと、まるで下界と変わらない。
彼は茶屋で団子を買い、凜花に食べさせてくれた。
屋敷で口にする料理もだが、天界の食べ物は和食に近く、どれも口に合う。
この団子には、天界にしかない果実の果汁が加えられているそうだが、フルーティーでとてもおいしかった。
ふと、街の雰囲気が嵐山に似ていることに気づいた。
「なんとなくですけど、ここは嵐山に似てますね」
「ああ、向こうとこちらは鏡のようなものだ。まったく同じではないが、あそこに見える橋も下界のものとよく似ているだろう」
言われてみれば、川にかかっている橋は渡月橋のようだった。振り向いた先にあった山は今来た道だが、凜花が嵐山で迷い込んだ山と瓜二つだ。
「下界との共通点なら、街にも屋敷にもたくさんある」
「あれは?」
前に視線を戻した凜花は、石造りの建物を指差した。
石垣が積み上げられた先にあるのは、城に見える。
「あれは城だ」
予想は当たっていたが、城壁は雲にかかりそうなほど高く、天守閣は見えない。
「どうやって登るんですか?」
「龍なら飛べばすぐだ。俺もいつも飛んでいく」
「じゃあ、聖さんはあそこでお仕事してるんですか?」
「ああ、そうだ。凜花も連れていってやりたいんだが、城には龍の力がない者は入れない。だから、つがいの契りを交わしたあとで案内する」
つがいの契り、と言われても凜花にはやっぱりピンと来ない。
けれど、目に映るすべてのものに懐かしさのようなものを抱いている。初めて来る街も、見たことがないはずの城にさえも……。
「下界に戻りたいか?」
聖が不安げに眉を下げている。凜花は少し考えてから、首を小さく横に振った。
凜花の中に不安はあった。ただ、今の凜花には行くところがない。
そのせいか、帰りたいというような感覚にはならなかった。
なによりも、彼の傍にいると安心感がある。心が不思議なほどの温もりに包まれ、不安や恐怖心が溶けていくようなのだ。
「少し不安ですけど……そんな風には思ってないです。つがいとか契りとかはまだ考えられませんが、今はここにいたいって思ってます。でも……」
橋の欄干に手をかけ、流れる川を眺める。
「聖さんは龍神なんですよね? それがどういう人なのか私にはまだよくわかりませんが、街にいる人たちの雰囲気を見れば偉い人なんだってことはわかりました」
先が見えない川は、どこまで繋がっているのか……。見えない場所がまるで自分自身の未来のように思えて、凜花の中の消し切れない不安を煽るようだった。
「俺が怖くなったか?」
「いいえ、怖くはありません。ただ……」
眉を下げた聖に、凜花はなんとか微笑む。
けれど、不安を隠し切れなかったせいで、泣きそうな顔になってしまった。
「私がそんな偉い人のつがいだなんて……。私にはなにもないし、凜さんの生まれ変わりだって言われてもやっぱり実感はありません。そんな私が、聖さんの傍にいてもいいんですか?」
「言っただろう。凜花は俺のつがいだ。誰にも異論は唱えさせない」
聖が力強い眼差しで凜花を見つめる。
真っ直ぐで迷いのない瞳に、凜花の鼓動がトクンと高鳴る。
「なにより、俺が凜花に傍にいてほしいんだ」
彼の声音はとても優しかった。
それなのに、なぜか泣きそうにも聞こえた。
微笑を浮かべた聖が、凜花の頬にそっと触れる。
「なにも心配しなくていい。凜花は俺が守るから」
彼の真摯な言葉を信じていたい。
そんな気持ちになった凜花は、ただ黙って小さく頷いた。
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