二章 天界と下界/二 龍の住処【1】
凜花が仕事を辞めてから五日が経った。
聖から屋敷内では自由にしていていいと言われているが、外に出ることは許されていない。
理由はわからないが、右も左もわからない場所では言う通りするしかなかった。
とはいえ、仕事を辞める前の二日間を入れてこの一週間、凜花は下界に戻ったときしか外に出ていない。
これまで、学生時代にはバイトに勤しみ、社会人になってからもずっと働き詰めだった。休日には家にいることも多かったが、こんな風に何日も休んだ経験はない。
そんな日常から一変した今、毎日ただ屋敷の中で時間を消費するのは手持ち無沙汰で仕方がなかった。
しかも、身の回りの世話は桜火がしてくれるため、本当にすることがない。
家事でもなんでもいいからさせてほしいと言ってみたが、聖にお願いする前に玄信や桜火に猛反対された。
元来、凜花はじっとしているのが得意な方ではない。
ハヤブサ便は人手が少ないわりに休みはもらえていたが、学生時代からバイト漬けだったせいもあって、社畜生活が身についていた。
今させてもらえることと言えば、屋敷や敷地内を回るくらい。
広い屋敷は一日では回り切れず、二日かけて探検した。庭はさらに広く、未だに一番端まで見られていない。
よく敷地面積を東京ドームで例えたりするが、いったい何個分なんだろうと考えたところで答えはわからなかった。
そんな風に過ごした四日間は、意外と退屈せずに済んだ。
ただ、凜花が動けば必ず桜火を始め、蘭丸と菊丸もついてくる。
部屋の中ではともかく、どこへ行くにも護衛代わりに三人が傍にいる。そのため、さすがに申し訳なくなって、今日は朝からずっと部屋の中にいた。
(なんだかニートみたいな生活だな……。今日って何曜日だっけ?)
天界には曜日という概念はないらしく、そろそろ曜日の感覚がなくなりそうだった。
こんな生活をしていたらダメ人間になってしまいそうで怖い。
天界にいることは一応納得したが、せめて仕事くらいはしたい。
下界のようにお金がもらえるのかはわからないが、天界にも通貨に代わるものはあるだろう。
金銭があれば、少しは自由になれるかもしれない。
(仕事は難しくてもバイトってできないのかな?)
そんな風に思い至り、凜花は聖が帰宅したら直談判することに決めた。
ところが、この日彼が帰ってくることはなく、直談判どころか話す機会すらなかったのだった。
翌朝起きると、桜火から聖がつきさきほど帰宅したことを聞いた。
持ってきた服に着替えて居間に行くと、いつもの場所に彼が座っていた。
「おはよう、凜花。よく眠れたか?」
「おはようございます……って、その怪我どうしたんですか!?」
聖の綺麗な顔に、大きな引っかき傷のようなものがある。
「……ああ、これか。少し諍いがあって、止めに入ったら食らってしまった。顔だけ治し忘れたな」
苦笑交じりに答えた彼が、右手で頬のあたりに触れる。
生々しい傷はすぐに癒えていき、大きな手が退けられたときには肌には傷ひとつ残っていなかった。
「顔だけって……他にも怪我したんですか?」
「たいしたことはない。蘭と菊でも治せる程度の怪我だ。さぁ、食べよう」
凜花のことを起こしに来ていた蘭丸と菊丸は、いつも通り聖に纏わりついている。
聖の言葉が気になりつつも、凜花は彼とともに朝食を摂った。
「あの……お願いがあるんですけど」
「なんだ? 凜花の願いなら喜んで聞こう」
食後、凜花が意を決すると、聖が嬉しそうに瞳を緩めた。
「仕事とかバイトをさせてもらえませんか?」
「仕事? なにか欲しいものがあるのか? それなら、俺が用意する」
凜花は首を横に振り、彼を真っ直ぐ見つめる。
「欲しいものはありません。ここにいれば食べることにも困りませんし、服なんかは持ってきたものと用意してくださった着物で充分ですから」
「なら、どうして働きたい?」
「ここ数日、することがなくて……。お屋敷の中やお庭を回るだけだと、自分がダメ人間になりそうっていうか……。それに、今までは働くことが当たり前だと思ってきたので、突然することがなくなるとどんな風に過ごせばいいのかわからなくて……」
「なるほど」
「私は天界のことはまだなにも知りませんし、雇ってもらえるのかもわかりません。でも、このままなにもせずにいるのは嫌なんです……」
凜花が必死に訴えていたからか、聖はひとまず最後まで話を聞いてくれた。
けれど、彼の顔が困ったような笑みを浮かべる。
「凜花は苦労性だな。それに、凜と同じようなことを言う」
複雑そうな表情と言葉に、凜花の胸の奥がチクリと痛んだ。
上手く表現できないけれど、心がモヤモヤする。こういう感覚をどう呼べばいいのかわからず、凜花は戸惑いながらも見ないふりをした。
「凜花の願いなら聞き入れてやりたい。だが、それは無理だ」
「どうしてですか……?」
「凜花はいずれ俺のつがいとなる身。天界にはその存在を疎ましく思う者がいて、命を狙われる可能性もある。この屋敷にいれば俺の結界が働いているが、一歩外に出れば凜花を襲う者が現れないとも限らない」
凜花には、龍のつがいになるという意味がまだよくわかっていない。
詳しく説明されていないというのもあるが、ピンと来ていないのだ。
「じゃあ、私はずっとここにいなければいけないんですか?」
だからこそ、自分の命が狙われるかもしれないと知り、一度は飲み込んだはずの不安が大きくなる。
「いや、そんなことはない。契りを交わせば俺の加護が受けられるし、凜花自身にも少しだが龍の力が与えられる。そうなれば、今よりは自由を与えてあげられるよ」
「でも……それじゃあ、契りを交わさない限りはここから一歩も出られないってことですよね? そんなの……」
まるで閉じこめられているようだ、と凜花は思う。
口には出さなかったが、凜花の顔は曇っていった。
「確かに不自由を強いてしまう。それについては申し訳ない。だが、どうかわかってくれ。まだ契りを交わしていない今は、凜花は俺の座を狙う龍たちにとって格好の餌食なんだ。ここにいる限りは安全だが、日常的に外に出すわけにはいかない」
「わかりました……」
納得したわけではない。しかし、凜花にはそう返事をするしかなかった。
聖は申し訳なさそうに眉を下げつつも、優しい笑みを浮かべた。
「今日は街に行かないか?」
「え? でも……」
たった今、聖は外に出ることをはっきりと禁じたばかり。
それなのに、急に街に行くことを提案されて驚いてしまう。
「ああ、大丈夫だ。今日は俺がついている。俺がいれば、凜花に危険は及ばない」
彼の言葉を信用していいのか、と悩まなかったわけではない。
けれど、凜花はなぜか自然と聖のことを信じられた。
なにがあっても彼がいれば大丈夫だ、と素直に思えたのだ。
「ただし、着物に着替えてくれ。その格好は少し目立つからな」
凜花が身に纏っているのは、Tシャツとデニムというシンプルなものだが、天界では馴染みがないのだろう。
聖も屋敷内にいる臣下たちも着物を着ているため、すぐに意味を理解した。
「わかりました」
「桜火、凜花に着物を」
「御意」
桜火に促され、凜花は立ち上がる。
「聖様、蘭丸も行きたいです」
「菊丸もです」
「野暮を言うな。俺と凜花はふたりで出かけるのだ。土産を買ってきてやるからいい子にしていろ。街には今度連れて行ってやる」
「はぁーい……」
背後のやり取りを聞きながら、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
それでも、ようやく屋敷の外に出られることが嬉しくて、凜花の心は弾んでいた。
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