一章 千年の邂逅/一 導く声【1】

 倉本くらもと凜花の意識がハッと覚醒する。

 視界に映る場所がどこかわからず、一瞬遅れて働き始めた思考が自分の家だということを教えてくれた。

 けれど、意識はまだ半分夢の中にいるようだった。



「また、誰かに呼ばれた気がした……」



 内容は思い出せない。

それなのに、なんとなく同じ夢を見たことがある気がする。一度や二度ではなく、もう何度も……。

 見慣れた天井に向いていた視線を、おもむろに左側に移す。ベッドサイドのチェストの上に置いている写真を見て、ようやくホッと息をついた。



「おはよう、お父さん、お母さん」



 上半身を起こして、肩を寄せ合う両親に笑顔を向ける。

 写真の中のふたりは、今日も優しく微笑んでいた。



 重い体に鞭打つようにベッドから下り、カーテンを開けてグッと伸びをする。

 窓越しの眩しい日差しを浴びると、窓を開けた。

 途端、近所にある公園の方向からセミの鳴き声が聞こえてくる。耳をつんざくようなけたたましさにため息をつき、少しの間そのまま空気を入れ替えた。



 顔を洗って歯磨きを済ませ、お弁当箱に昨夜の夕食のおかずの残りを詰めていく。白米に梅干をひとつ乗せ、作りたての卵焼きも二切れ入れた。

 残った卵焼きを摘まみながら食パンをトースターに放り込み、お気に入りのグラスに作り置きのアイスティーを注ぐ。



 服を着替えると、ちょうどトーストが焼き上がった。バターを塗ってお皿に載せ、グラスとともにローテーブルに運ぶ。

 毎日代わり映えしない朝食はあまり進まず、アイスティーばかりが減っていった。

 気も体も重いけれど、朝の時間は慌ただしく過ぎていく。出勤時刻が迫っているから、嫌でも動き出すしかなかった。



 凜花は、メイクをあまりしない。

 日焼け止めを塗ってパウダーを重ね、色付きのリップを塗るくらい。

 同年代の子たちと比べると地味なのは自覚しているが、基本的にこれで終わり。

 あとは、背中の下まで伸びた色素の薄い黒髪をブローしてヘアオイルを塗るだけ。



 身支度に必要な時間は、およそ十五分。朝食の後片付けを入れても、起床から出発まではだいたい一時間あれば足りる。

 バッグを持ち、最後に戸締りを確認してから普段通りに家を出た。



 凜花の職場である『ハヤブサ便』までは自転車で十分。

 ハヤブサ便は静岡県に展開している、運送会社だ。県内を中心に営業所が点在し、凜花が住む街にもある。

 凜花は、事務員として十八歳から働き、今年で入社二年目になる社員だった。



 仕事は大変なことも多いが、静かに黙々と作業をするのはわりと好きだから、事務職自体は向いている方かもしれない。

 待遇は特にいいわけではないものの、ギリギリひとり暮らししていけるだけの給料はもらえているし、少ないながらも先月には夏のボーナスも出た。

 裕福な暮らしはできなくても、贅沢をしなければなんとか生きていける。

 だから、不安は色々とあるけれど、生い立ちを考えれば今の環境があるのは幸せな方なんだ……と、凜花は思うようにしている。



 もっとも、それは自分自身に言い聞かせるために過ぎない。

 けれど、そういう風に考えなければ、三か月ほど前から頭を抱えている〝問題〟にそろそろ心が折れてしまいそうだった――。




「あっ、ごめーん! 手が滑っちゃった!」



 頭上から声とコーヒーが同時に降ってくる。



「きゃっ……!」



 昼休憩に、凜花が自分のデスクでお弁当を広げた直後のことだった。



 コーヒーに漬かった白米やおかずは、まるで泥水に埋もれたようだ。

 制服にもかかったことに気づき、凜花は慌てて更衣室に立ち寄ってから化粧室に駆け込んだ。

 社章のマークが入ったシャツを脱ぎ、コーヒーが飛び散った部分にシミ取り剤を塗ってハンカチで叩いていく。



(お願い、取れて……!)



 ハヤブサ便では制服は支給され、仕事中のハプニングなどで汚れたり破れたりした場合にも会社が補償してくれる。

 しかし、就業時以外や自身の不注意によって破損した場合は、新しい制服は自分で購入しなければいけないのだ。



 一か月前、凜花の制服のシャツがビリビリに破かれていた。

 恐らく、カッターのような刃物で傷つけられたのだろう。元の形を保っていないほどボロボロになったシャツは、明らかに仕事中の事故では通らなかった。

 前日にはきちんとロッカーの鍵をかけた記憶があり、解錠するための鍵は凜花が持つ合鍵と営業所で保管されている本鍵しかない。

 翌朝に出社したときには、制服を見て驚きと困惑でいっぱいになったが、事情を話せば所長はわかってくれると思っていた。



 ところが、制服の破損は凜花の不注意と判断され、支給してもらえなかった。

弁償しなくてはいけないとわかっているのに、わざわざ自ら制服を切り裂くバカがどこにいるだろうか。

 シャツ一枚とは言え、制服ともなれば安価ではない。

 ひとり暮らしで生活に余裕がないこともあり、凜花は必死に事の始終を説明して無実を訴えたが、彼は『いくらなんでもこの状態で再支給は無理』の一点張りだった。



 凜花以外でロッカーの鍵を管理しているのは、所長だ。

 まさかとは思ったが、制服を見せたときの彼の顔は驚きでいっぱいだった。そのため、犯人ということはないだろう。

 そもそも、凜花にはこんなことをする人物に心当たりがあった。

 もちろん、所長以外に……という意味で。



 ただ、証拠はなく、本人に話しても知らないふりをするのはわかっている。

 誰ひとり味方がいない状況では、自分が不利になるのも目に見えていた。

 結局、凜花はシャツ代を支払い、新しいものを購入した。

 さらに二週間後、今度は制服のスカートが油性ペンでグチャグチャにされているなんて思いもせずに……。



 シャツよりも高価なスカートを弁償すれば、凜花の生活は一気に苦しくなる。

 普段から無駄遣いはしないが、月々の貯金は微々たるもの。全財産だってたいしたことはない。そこから補填するとなれば、〝痛い出費〟では済まされない。

 シャツのときと同じように訴えたが、故意にスカートを汚したのは明らかで、所長の返答は二週間前となんら変わらなかった。

 以来、シミ取り剤を持ち歩くようになったのだが、はっきり言ってこの程度のことでは予防にも解決にもならない。



(よかった……。取れた……)



 それでも、シャツにシミがつかなかったことに安堵する。

 濡れたシャツをタオルで挟んで水気を吸い取るようにすれば、まだ湿っているが着られないことはなかった。



(こんなこと、いつまで続くんだろ……)



 考え出すと気が重いが、今はデスクに戻るしかない。

 昼休憩はあと十五分しかなく、コーヒーに浸されたお弁当を片付けなくてはいけないのだから。



 重い足取りで事務室に戻った凜花は、自身のデスクを見て目を見開く。

 コーヒー塗れのお弁当箱が、ひっくり返っていたのだ。



「嘘っ……!」



 昼休憩だったため、デスクの上は片付けてあった。

 とはいえ、そこには社用パソコンがある。

 慌てて持っていたタオルで水分を塞き止め、咄嗟にキーボードを持ち上げた。

 幸い、裏側が少し濡れた程度で済み、恐らく壊れてはいないだろう。

 ホッと息をつく凜花の背後で、クスクスと笑い声が漏れ聞こえてくる。



「やだー、信じられない。パソコンがあるんだから、先にデスクを拭くでしょ」

 凜花の耳に届いたのは、大谷茗子おおたにめいこ…の嘲るような声音。さきほどコーヒーの雨を降らせた張本人である。

 その隣で「だよねー」と同調している同僚にも、静かな苛立ちが募った。



「制服買うお金がないから焦ったんじゃない? ほら、誰かさんって貧乏だし。天涯孤独の人って可哀想~。しかも、友達もいないなんて、私なら生きていけないかも」



 茗子の声が、凜花の鼓膜を容赦なく叩く。

 悔しさで唇を噛みしめたが、彼女は事務員の中心的存在のため、同僚の中に凜花の味方はいない。

 ここで反論しても、凜花の立場が悪くなる一方なのは明白だった。



 けれど、こんな状況になってもう三か月。

 そろそろ心が折れてしまいそうだった。

 ただ、凜花に逃げる場所などない。

 同僚や上司に庇ってくれそうな人はいない。

 プライベートでも、親身になってくれる友人や知人どころか、頼れる身寄りも誰ひとりいない。

 茗子の言う通り、凜花は天涯孤独だからである。


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