白翼のゼノンと旗手のイリナ

瀧ノ蓼泉

第一章 灰中の芽

ep.0 戦端の狼煙

 ――あまりにも多くの内戦が起きすぎたとタクテオスは語る。それはまるで二人の旧友が口論になり、互いに取り返しのつかない酷い言葉をぶつけあった時に似ていると。「帝国は今、腐敗とは無縁の若い者たちによる新たな統治を必要としている。悪しき記憶も化膿した傷も、そうすることでしか和らげることはできない」そう彼は言葉を続けた。(ヴァルコスの息子にして、ボストラムの書士 アサイオス著 「カルラディアの旅行記」より引用)


1.

 焚火の火を見つめていると心が安らぐ。我が家の暖炉の前にいるような気分になって、まぶたが重くなる。ゼノンは自分の太ももをつねって眠気を我慢した。ここは家ではない。二日前に帝国南部の都市ダナスティカを出発し、三十人の小隊を率いてアセライ国との国境付近を巡回していた。もうすぐ、野営地を守る見張りの交代時間になる。


「早いな。では行こうか」


 天幕から出てきた下士官のシノールが低い声で呼ぶ。ゼノンは弓矢を背負い、シノールの後に続いて野営地の端へと向かった。


 ゼノンは隊を率いる身だが、まだ年若く着任して日が浅い新米小隊長だ。しかし、部下たちはまだまだゼノンを指揮官として認めていない。歴戦の下士官シノールがいなければ、この小隊は実戦に耐えないだろうとゼノンは常々思っていた。経験の浅い若造に指揮権があっても、より軍歴のある下士官に頼りたくなるのが末端の兵士の心情だ。数年の軍隊生活で、ゼノンにはその気持ちがよく理解していた。指揮官であろうと、不寝番ふしんばんに就く。ゼノンは少しでも早く部下からの信頼を得ようと、部下の兵士たちと同じように見張りに就くことにしていた。


 野営地は小高い丘にある林の端にあり、眼下に監視塔の篝火かがりびが見える。シノールとゼノンは野営地の周りを一周した後、入り口の見張りと交代した。いつもと変わらない、静かな夜だった。


「ゼノン、帝国軍に入隊して何年になる?」


「そろそろ八年になります」


「その間、アセライとの間には何事も起きていなかったな」


「なによりなことです」


「だが、近頃は何が起こるかわからん」


「アセライは帝国の同盟国では?」


「その通りだ。しかし、今や帝国の貴族は政争に明け暮れている。アセライ国とて例外ではない。実際、10年前の襲撃は寝耳に水だった」


「当時のことは父から聞かされています。父はあの戦争でフスン・フルク攻囲戦の最前線にいましたから」


「いくらアセライの指導者が戦争を望まずとも、不満が高まり続ければ」


「また戦争になるとお考えですか」


「我々にとっては力を示す機会だ。喜ぶべきかもしれない」


松明の灯りに照らされたシノールの表情に苦々しい影が差した。


「補助騎兵隊に配属されて二十年余り経つ。ずっと前から命を捨てる覚悟ができているつもりでいたんだがな」


言いかけて、自らを嘲るように鼻で笑った。


「いや、忘れてくれ。他のやつらに言わないでくれよ。隊の士気が下がる」


 シノールの顔から陰が消え、いつもの明るさが戻った。隊の仲間の笑い話や除隊した昔の仲間の話などをして、ゼノンを笑わせた。シノールは、兵士たちの前では若い指揮官を気遣ってゼノンを小隊長として立てていた。しかし、二人だけの時は容赦なく意見を具申ぐしんし、あるいは父親のように親身に励ましていた。


 見張りを終え、ゼノンたちは次の二人と交代して野営地の天幕へ戻って眠りについた。ここ数日の疲れが溜まっていたのか、全身が痺れるように重い。シノールの言葉が頭の中に響く。危機感を持つのは大事なことだと、ゼノンも理解している。しかし、ダナスティカの街や故郷の村ではアセライ人を見る機会が多い。人々が友好的に暮らしているというのに、急に戦争になどなるはずがない。それに、今のアセライの指導者は温厚で戦を好まず、帝国を敵対視する貴族たちをよく抑えている。ゼノンは不安を思考の隅へ追いやって眠った。



2.

 深い眠りを妨げたのは、警鐘けいしょうの音だった。天幕から飛び出すと、眩しい朝日に目がくらむ。何かが焼ける匂いが鼻をつく。


「監視塔が襲われているぞ!敵襲だ!」


 隊の誰かが叫んでいる。この巡回騎兵隊の最先任者はシノールだ。皆の視線が集まる。


「武器を取れ! 敵の数は?」


「見たこともない規模の軍勢です! 砂塵ではっきりとはわかりませんが、前衛だけで2000を越すかと思われます。この様子では総勢で万を超えるかと」


 高台からの光景に、隊の一同が身震いした。ごく小規模の監視塔を、輝く甲冑を付けた数千のアセライ兵が取り囲もうとしている。アセライ兵のときの声、矢を受けた守備兵の悲鳴が響く。アセライの重装歩兵は処刑人のような大斧で人々を薙ぎ払っている。一方的な殺戮にあちこちで悲鳴が上がり、血煙が起こった。鈍い金色のメッキが施されたアセライの甲冑は、瞬く間に赤く染まった。


 戦陣の奥では予備兵力の重装騎兵が整然と待機していた。暁の砂漠のような、赤みがかった黄色の軍旗がはためいている。中央に一騎、一際大柄な騎士が悠然と監視塔の惨状を眺めているのが見える。あれがアセライ軍の総大将に違いない。


「全員、馬に乗れ! この場を離れる」


「監視塔の部隊を見捨てるのですか?」


 ゼノンの言葉に、若い兵士が異議を唱えた。


「我々は斥候だぞ。全員生きて、ダナスティカと周辺の村へ警報を伝えるんだ。ここもすぐに敵の騎兵が来る。さあ急げ!敵兵は待ってはくれないぞ」


 シノールの檄が、硬直しかけた全員の体を瞬時に兵士に戻した。


「一班はポリシア、二班はカイラへ行け。三班は私と共に狼煙台≪のろしだい≫へ向かう」


 シノールが矢継ぎ早に指示を飛ばす。


「俺はダナスティカの領主館へ第一報を伝えに走る。全員、任務を完遂してダナスティカで会おう。騎兵隊、前進!」


 ゼノン小隊長が号令をかけると、各班長の元に掌握≪しょうあく≫された騎兵たちが草原を疾駆しっくした。


 監視塔から上がる黒煙を横目に、ゼノンは夢中で駆けた。前線から最も近い村、ポリシアからも幾筋いくすじかの黒煙が上がっている。一刻の猶予ゆうよもない。軍勢が進むには時間がかかるが、既に略奪隊が入り込んでいる。略奪隊は本軍の進撃に先だって、行く先々で食料を集め、人々を殺戮する。援軍が遅くなれば、それだけ犠牲も増える。


 故郷の光景が脳裏に浮かぶ。


 ゼノンの故郷、パラセムノスはダナスティカの北の森の向こうにある小さな村だ。アセライの軍勢がダナスティカを包囲するつもりならば、パラセムノスも略奪の限りを尽くされるだろう。今すぐに故郷へ向かいたい衝動を抑えていると、ゼノンの不安を察した馬がひと鳴きした。


「俺のことは気にするな、大丈夫だよ。一緒に務めを果たそう」


 ゼノンは馬を撫でて励ました。



3.

 街道を駆けに駆け、農場を過ぎると、眼前に石造りの城壁が現れた。


「急報!」


 ゼノンはありったけの大声で叫び、城門の守衛に合図した。


「第Ⅲ百人隊、補助騎兵小隊のゼノン! オロス閣下に急報あり!」


 門前で急停止し、棹立ちになった馬上から名乗る。開ききるのを待たず、両開きの木戸の間に馬を進めた。


「すまない、退いてくれ! 急報だ!」


 石畳の街路を往来する人々に声を掛けながら、街の中心にある領主館を目指した。


「危ないぞ!」


 市民たちは文句を言いながら端へ避けた。郊外の村々の惨状を、彼らはまだ知らない。商人が果物の籠をひっくり返して怒鳴る。馬の尻越しに聞き流しながら、緩やかな階段を駆け上る。


 領主館は住居であり、都市で最も堅固な要塞でもある。帝国様式の石造りの建物の周囲は、高い壁に守られている。有事の際はこの館が最後の砦であり、戦士の墓標となる。門には槍を手にした重装歩兵が配置され、普段より厳しい顔つきで警備にあたっていた。


 息を切らせて領主館に飛び込むと、城内は騒然としていた。狼煙≪のろし≫が馬よりも早く届き、緊急事態に対応する為に各部隊の長が広間に招集されていた。


 広間に整列した領主の近衛弓兵たちの視線がゼノンに集まる。


 ダナスティカの領主オロス・メストリカロスは鋼の小札鎧こざねよろいに身を固め、背に青紫の外套がいとうを付けている。腰に佩く剣は、金の装飾が施されたパラメリオンと呼ばれる様式の十字の鍔をもつ曲刀だった。帝国の上級軍人を象徴する刀剣だ。


 広間に集まった幹部たちは、いずれも長年軍務に努めてきた猛者たちだ。10年前、フスン・フルク攻囲戦で前線の指揮を執っていた者も多い。


 領主は宝石付きの兜を脇に抱え、集まった百人隊長たちの意見に耳を傾けていたが、ゼノンが大広間に入ってくるのを目に留めると、広間の中央まで歩み寄った。

広間は吹き抜けの構造で、領主館の中央の最も高い塔の中にある。領主が謁見や儀礼に使うための空間であるため、帝国を象徴する鷲や天秤の女神などの伝統的な意匠が描かれた旗で飾られている。領主の玉座の両脇には二人の英雄の像があり、玉座の正面に立つ者に威容を誇っていた。


 高い天窓から差し込む光が領主の足元にかかった。


「伝令、報告せよ」


「申し上げます。本日、日の出と共にアセライの軍勢が国境の監視塔及び周辺の村への襲撃を開始」


「敵の勢力はいかほどか」


「前衛だけで二千を越えています。砂塵の立ち方からして、後ろに万を超える軍勢が控えているかと思われます。主力は重装歩兵が千、重装騎兵五百、軽装騎兵五百、弓兵五百程かと」


 軍議に集まった帝国軍幹部たちがどよめいた。かつての栄光あるカルラディア帝国ならいざ知らず、政争に明け暮れる今の帝国では楽観的に見積もっても互角に届くかどうか。


 帝国は今、三人の皇帝が帝位を争う分裂状態にある。三つ巴に睨み合う状況での同盟国の裏切り。そして、ダナスティカの兵力は正規兵・民兵をかき集められるだけ集めても1000に満たない。広がる動揺を鎮めようと、領主は幹部たちに向き直る。


 その一瞬、領主の足元にかかる光に影が差した。

 風を切る音と共に、影が落ちてきた。


 軍人たちが息を飲んだ。天から降ってきた人影が、ダナスティカの領主オロス・メストリカロスを襲った。割れたステンドグラスが無数の光の粒となって広間に飛び散り、目を開けていられない。割れたガラスの塵が鎮まる前に、滑車と縄が鳴る音がした。見上げると、逆光に重なった人影が縄に吊られるように天窓へ飛び上がるところだった。


「射て! 逃がすな!」


 ゼノンは命じられる前に弓に矢をつがえ、やや震える手で射た。城内の他の兵士も次々に矢を放つ。天窓へ吸い込まれていく暗殺者に向けて放たれた矢は、大理石の壁に弾かれ床に落ちて転がった。


「畜生!」


 ゼノンは領主に駆け寄った。


「閣下!」


「伝令よ、名は」


 傷は深い。血液が大理石の床に流れ、血だまりがみるみる広がってゆく。


「ゼノンと申します。パラセムノスのゼノン。それより、止血しなければ!」


 領主は蒼ざめてゆく顔をゆっくりと横に振って、天窓を指さした。


「毒だ。敵は手ごわいぞ。ゼノン、早く追わぬか」


「閣下、気を確かに! 誰か、早く医者を呼んでくれ!」


 司令官を失い、大混乱に陥ったダナスティカにアセライ軍が迫っている。

包囲されるのは時間の問題であった。



4.

 ゼノンは瀕死の怪我を負った領主を他の者に任せ、急ぎ塔の階段を駆け上がった。途中、城の上階では侵入者を捕えようと走る兵士たちとすれ違った。上階の窓のすぐ近くに、広間の屋根が見える。そして広間の直上の屋根の上には工事用の足場と滑車付きの巻き上げ機がある。石材を高所に運ぶための装置だ。滑車についているロープの先は天窓の上に垂れ下がって風に揺れている。ロープの反対側を目で追うと、屋根の端の方へ伸びて向こう側へ下がっているようだ。


「いたぞ! 逃がすな!」


 兵士の声がロープの先の塔から聞こえた。ゼノンは広間の屋根に飛び降り、工事用の足場によじ登った。足場の頂上から、三人が馬で走り去ろうとしているのが見えた。ここからでは弓矢も届きそうにない。追跡を試みた幾人かの騎兵が、暗殺者の背面射法で討たれて落馬した。


 ゼノンは木製の足場を握りこぶしで叩いた。奥歯を噛みしめて悔しさに耐えながら、塔を降り広間に戻った。


「ゼノン、ご苦労だったな。閣下のことは聞いている」


 下士官のシノールが城に帰還していた。シノールはゼノンの肩に手を置いた。


「疲れているだろうが、我々に休息のいとまは無いようだ。すまないが、帝国の為にもう一走りしてもらいたい。百人隊長殿から、手分けして各都市へ援軍要請に発つようにと命じられた」


「了解。前線の村へ報せに行った班は戻っていますか」


シノールは首を横に振った。


「その怒りは今後出会う敵のためにとっておけ。決して捨て鉢になるな」


 ダナスティカの帝国軍は指揮官を失ってなお、士気旺盛しきおうせいだった。むしろ、卑怯な敵を撃滅すべしと誰もが決意を固めていた。

 ゼノンは心中に怒りを溜めて城塞を出立した。


 この戦いは、一代で大貴族へと成り上がる若者の最初の敗北であった。

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