第3話 母の愛と物騒なウサギ

 淡々とした声音で、表情を少しも動かさないで、シルフィーナは真っ直ぐにこちらを見つめている。

その言葉の意味を理解するのに、アルメリアは数秒の時間を要してしまった。

「え」

「侍女としてよ」

「……え?」

「世間に揉まれて来い、と言っているのよ。それに、ただの穀潰しではあなたも屋敷に居にくいでしょう」

「それは……そうですが……」

 あまりにも突拍子のない母の命に、アルメリアは驚きが抜けぬまま頷いた。

 確かに、ちょうど学園を卒業した年代であるアルメリアがこのまま屋敷に居残り続けるのは、穀潰し以外の何物にもならない。社交界に出て婚約者を探すのでもなく、そのために自分磨きをするのでもなく、家の手伝いができるわけでもないのだ。ならば他の方法で働けというのは、理が通っていると言えた。

 だけれども、公爵令嬢に下働きに出ろと言うのは、なかなか思い切った発言である。

「その……、私に、屋敷から出ろ、と……?」

「ええ、その一步だけは進ませることにしたの」

「……」

 夢であれと思いながら問い直しても、シルフィーナは淡々と頷くだけ。母の本気を感じたような気がして、アルメリアは唇を噛み締めた。

(このままではいけないことは、私自身もわかっているわ)

 母の言い分が理解できないわけではない。道理としても、アルメリアの将来を考える上でも納得出来る。

 けれど心はそう簡単についていかないものだ。それがたとえ、アルメリアの我儘であるとわかっていても。

「……お母様、もし」

 アルメリアは屋敷の外に滅多に出たことはない。領地の外には本当の意味で出たことはない。

 人付き合いの経験は家族と使用人以外には一切無く、それでも使用人たちと交流していた記憶は幼少期で止まっているという始末だ。

「もしも私が、私のせいで、また誰かが傷ついてしまったら——」

「大丈夫よ、アルメリア」

 無意識に震えてしまった声を元気づけるように、シルフィーナは強く頷いた。

「あなたのその加護のせいで、あなたの未来が潰えることは、あってはならないことなの」

「……」

「何かあったら戻ってきなさい。わたくしはいつでもあなたの味方だから」

「お母様……」

 とんと肩を叩かれて、あたたかな体温に不安が溶けていくような気がした。『まぁ何かあった時はそいつしんでるけどな〜』と場の空気を壊すウサギの一言は聞こえない振りをして、アルメリアは感動に胸を震わせる。

 帰る場所があることに、生まれ育った場所がそうあり続けてくれることに、感謝と嬉しさと共に頷いたところで。

「フェルセリスの次にね」

 母は余計な一言を付け加えた。

「え、そこに順序があったのですか?」

「こう明言しておかないとあの子が拗ねるのよ」

「でも、フェルセリスはそんなことくらいで拗ねるなんて……」

「拗ねるわ」

「ええ……」

 フェルセリス・クランエリゼ。アルメリアに甘い双子の弟である。

 親愛なる弟の子供らしい一面に戸惑いながら、アルメリアはこれからの未来に思いを馳せるのだった。


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