路地裏のアイスコーヒー

ぬまちゃん

路地裏にあるお店には隠れた名店が多いですが

「いらっしゃいませ……」


 お店の中は、外の暑さが嘘のように感じられる涼しさだった。

 店の奥からは、凛とした声が聞こえて来た。

 お店は、カウンター席と椅子席が少々ある、落ち着いた雰囲気を漂わせる、オーナーの趣味の良さを感じさせる作りだった。


 彼女は、花火大会の時に偶然知り合った彼と、今日も会う約束をしていたのだ。

 彼と会うのがうれしくて、自宅を三時間も前にでてしまった彼女は、待ち合わせ時間まで涼しい場所で時間を潰そうと、ふと目に留まった喫茶店に入って行った。


 そこは、表通りから少し離れた路地にある、茶色のブロック壁にツタが絡みついた、ひと昔前の『喫茶店』という雰囲気を漂わせる店構えだった。彼女は、そこのトビラを手で押し開ける。


 チリリン!


 木製の古めかしいトビラに付いていた、呼び鈴が、涼やかに鳴った。


 あら、懐かしいですわ。自動トビラ全盛の時代に、自分でトビラを開けるなんて。それに、迎えてくれる呼び鈴の音がなんとも良い音色で、心を落ち着かせてくれますわね。


 * * *


「おい! お嬢さまを見失ったぞ」

「ちゃんと探せ。また佐々木様にお叱りを受けるぞ」

「今さっき、その路地に入ったのは間違いない。それなのに、お嬢さまがいない!」


 彼女が曲がった周辺では、黒メガネの一団が、耳元に付けているイヤホンで緊急連絡を取り合っていた。

 確かに、彼女が曲がった路地には、小さなビルが何件も並んでいた。しかし不思議なことに、彼女が入って行ったような喫茶店はどこにも見当たらなかった……


 * * *

 

 あら? 休日なのに、ワタクシ以外にお茶している方がいらっしゃらない、なんて――

 うふふ。良かったわ、もしかしたら『知る人ぞ知る』穴場的なお店なのかしら。


 彼女は、誰もいない店内をぐるりと見渡して、そう思った。


「お飲み物は、何になさいますか?」

 カウンターに座っていた彼女に、マスターらしき女性が、お水とおしぼりを置きながら声をかけて来た。


「あ、はい。そうですわね。アイスティー、レモン入りで、頂けませんでしょうか」

 彼女は、まだ引かない汗をシルクのハンカチで押さえながら答えた。


「ごめんなさい。あいにく当店はコーヒー専門店なので、紅茶は扱っていないのです」

 女性は申し訳なさそうに言った。


 ああ、だから人が少ないのかしら。彼女は少し納得してからどうするか考えた。

 

「コーヒーって、苦みや渋みが強いから、女性には人気ありませんものね。女性の方は、大体紅茶をオーダーしますからね。ですから、女性の方がお店に入って来ると、私も緊張してしまうんです」

 オーダーを取りに来た女性は、心底申し訳なさそうに頭を下げた。


「いえいえ、そんな事ありませんわ。ワタクシも入って来る時に、お店の看板をちゃんと見てなかったのですから。そうですわ、苦みや渋みの強くない、まろやかな、アイスコーヒーってございますか?」

 彼女は、両手をぶんぶんと勢いよく左右に振りながら、女性に声をかける。


「そうですね。それならば、水だしのアイスコーヒーなんか如何でしょう? まろやかな味のコーヒーですよ」

「あ、はい。それでは、それをお願いいたします」

 彼女は、逆にその女性に対して頭を下げながらお願いしてしまう。


「水だしコーヒーって、水で抽出するので少しお時間かかりますけど、よろしいですか?」

「大丈夫です。時間たっぷりありますから」

 彼女は、腕時計で待ち合わせの時間を確認しながら慌てて答える。

 と、カウンター越しに、壁に架けられた棚に置いてあるセピア色をした写真立てが目に留まる。そこには、先程の女性の若い頃と一緒に、すこしはにかみながら、でも嬉しそうに横に立っている男性が映っていた。


 あら、この男性、どこかで見たような――



 しばらくすると、女性が綺麗なガラスのコップに入った涼しそうなアイスコーヒーを持ってきた。


「どうぞ、お召ください。水だしのコーヒーですから、コーヒーとは思えないまろやかな味ですよ」

「はい。それでは頂きます」

 彼女は、そういってストローを刺して、ゆっくりと冷たいコーヒ―を飲む。


「あ、本当ですね。コーヒーなのに、渋みや苦みが全然感じられなくて、飲みやすいですわ。それに凄くまろやかです。まるでコーヒーでは無いみたい。コレならワタクシも好きになれそうですわ」

「そう言ってもらえると、嬉しいです。実はこの味は、私の祖父からこのお店と共に引き継いだモノなのです。父と私で受けついたのですけど……」

 彼女はそう言ってから、ふと先程の写真立てを見る。


「あのー、つかぬことを伺いますけど。その写真に写っているのは貴女ですよね? そして横にいる殿方は、旦那様ですか?」

 アイスコーヒーを飲みながら、彼女は女性におそるおそる話しかけた。


「はい、いえ。そういう人では……」

 女性は彼女の質問に戸惑うように、顔を伏せて寂しそうに続けた。


「彼は、父の入れるコーヒーが大好きで毎日この店に通っていました。父は、彼が私と一緒になってこのお店を継いで欲しいと思っていたようで、店の味を熱心に教えていました。そして、私も誠実な彼にいつしか惹かれ、彼も私と一緒になりたいと考えてくれていた……のですが」

 そこまで語ってから、女性は遠い昔を思い返すように、視線を写真立てからお店の入り口の方に向き直した。

 

 * * *


「佐々木様、申し訳ありません。お嬢さまをこの路地で見失ってしまいました」

 黒メガネの一団のリーダーが、初老の紳士に頭を何回も下げながら、状況を告げていた。


「確かに、この路地なのですね。お嬢さまを見失ったのは」

 紳士は、路地の中の、とある場所をジッと見つめながら、なにやら物思いにふけっているようだった。それから、黒メガネの一団と一緒に路地から出て表通りに戻って行った。


「とりあえず、お嬢さまの事ですから大丈夫だと思います。それよりも君達は、お嬢さまが男性と待ち合わせをしている場所に移動して張り込みをお願いします」

「は、承知いたしました。それでは、我々は待ち合わせ場所に移動します」


 紳士は、額に浮かぶ汗をハンカチで拭いてから、カバンに入っていた水筒からアイスコーヒーをコップに注ぎ一口飲む。

 それから、炎天下の中、彼女を見失った路地への入り口をじっと見つめていた。


 * * *


「お客様、何か外が騒がしいようですけど?」

 マスターの女性が、ふと、外の気配を感じたのか、カウンターでアイスコーヒーを飲んでいる彼女に聞こえるように呟いた。


 あら、しまった! もしかしたら、ワタクシが黙って喫茶店に入ってしまったので、シークレットサービスの方々が心配して探しているのかしら?


 彼女は、口に手をあてて、驚いたようにドアの方を振り向く。お店の窓を覆っている薄いレースのカーテン越しに、店の外で多くの人間が右往左往している様子が映っていた。


「ごめんなさい。直ぐに戻ってきます」

 彼女は、マスターの女性にひと声かけたのちに、お店のトビラを開けて慌てて外に出た。それから、自分を探しているであろう人達を見つけようと、さらに路地から表通りに飛び出した。


 * * *


 しかし、表通りにいたのは彼女が良く知っている初老の紳士ただ一人だった。


「お嬢さま、探しましたよ。また勝手に歩かれて、シークレットサービス達の仕事を増やしましたね?」

 紳士は微笑みながらそう言って、手に持っていた水筒からアイスコーヒーを注いだコップを彼女に手渡した。


「ごめんなさいね、ジイ。ついつい、護衛の方々がいるの忘れちゃうの、うふふ」

 彼女は、ばつの悪そうな顔をしてから、紳士から受け取ったカップを口にする。


「あら! このアイスコーヒー、苦くないのね。コーヒーなのに、すごくまろやかなお味ね。でも、この味、何処かで……ああ、そうだわ。そこの路地裏の喫茶店で、さっきまで飲んでたアイスコーヒーと同じ味だわ」

 彼女は、両手で握っていたカップを口まで持っていき、さらに一口飲んでから驚くように紳士を見た。


「それはそうでしょう。なぜなら、この水だしアイスコーヒーは、あののマスターから教えてもらったのですからね」

 紳士は、路地に入る入り口を懐かしそうに見つめながら、ゆっくりと呟いた。


「あの喫茶店は、隣のビルの火事に巻き込まれる形で、マスターとその娘さんの命と共に焼け落ちてしまって、今は跡形もないんです……お嬢さま」

 紳士は、彼女が持っているカップにアイスコーヒーを注ぎなおしながら、悲しそうにコーヒーの波面に視線を向ける。


「そんなはず、ございませんわ!」


 彼女は、カップを無理やり紳士に押し付けてから、慌てて路地に向かって走る。そして、路地の入口から喫茶店のあった方向を見つめる――


 そこには、見逃してしまうほど小さな墓標と、真新しい花束とコーヒーのはいったコップが添えてあった。


(了)

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