三つの追悼文

石川ライカ

ここでは音楽以外の話をーー

「教授が亡くなったね」

 先輩の結婚式の二次会で、横から突然そう言われて戸惑った。すぐには「教授」と坂本龍一が結びつかなかったのだ。自分は元来細野晴臣のファンだったので、同じくYMOを牽引していた坂本龍一はどこか気難しそうな印象があり、たしかにそれは「教授」の響きと通じていた。高橋幸宏に続いて、坂本龍一もこんなに早く亡くなってしまうとは。誰かが亡くなってしまうと、自分はなぜもっと聴かなかったのだろう、もっと観なかったのだろうと寂しくなってしまう。みんなそうなのかもしれない。今更「RIP」や「ご冥福をお祈りします」とツイートするのも気が進まなくて、ただ戸惑うしかない。

 追悼番組を観ていると、坂本龍一が僕にとって音楽よりも外側で色々なことを教えてくれていたことがわかる。『戦場のメリークリスマス』ではデヴィッド・ボウイとキスをしていたし、『ラスト・エンペラー』でアカデミー作曲賞を受賞した時はデヴィッド・バーンとニコニコ笑っていた。坂本龍一は、ずっと僕の中に新しくてカッコいい人たちを連れてきてくれていた。タイの映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンとも仕事をしていたし、最後のアルバムになってしまった『12』のジャケットはもの派を代表する芸術家、李禹煥が描いていた。コラボレーション、誰かと何かを作ること、自分の知らない世界へと広がること。現代アート、もっといえば現代の、世界の芸術ってこんなにカッコいいんだぜ! そんなことを教えてくれたのが「坂本龍一」という名前だった。

 追悼として再放送されてた『スコラ 音楽の学校』では、高橋幸宏と細野晴臣といったYMOの面々と楽しそうに専門的な音楽の話をしている「教授」より、祖師ヶ谷の小学校(坂本龍一の母校らしい)の小学生たちとジャンプしたりぐるぐる回ったり、肉体にあるリズムの感覚を探しだそうとする「坂本龍一」の姿が新鮮だった。録画した番組をなぜか消してしまったので、もう観れない。惜しいことをした。

 誰かが亡くなると、誰かを知る機会が来る。つい先日、アーティゾン美術館に坂本龍一が音楽を担当したという『ダムタイプ|2022: remap』を観に行った。気になってはいたけれどスルーしていた企画展で、どこか坂本龍一を偲ぶような気持ちで行くことにした。これが難解そうな、いかにも現代アート然とした見た目とは裏腹に、とても居心地がよくて驚いた。四角形に区切られた空間にはそれぞれの面に入り口があり、一歩踏み入れるとさまざまな「音」に囲まれる。ここに来て、坂本龍一が晩年に楽しんだのは音楽ではなく音だったのだとストンと腑に落ちた。彼が世界各国から集めてきた音が、それこそ騒音のようなものから人々の話し声まで、回転するスピーカーから不作為に反響して聴こえてくる。この空間では、この音が何から発せられ、何を伝えようとしているのかを探る必要はなく、ただのノイズであり騒音のような音たちをじっくりと味わい、足の向くままに位置を変えればまた変化する音を楽しむことができる。私も空間の関係そのものが「音」なのかもしれない。たまに耳元で囁くような声がしたりする。不思議だったけど、非常に心地いい作品空間だった。5月14日までなので、この文章が冊子に載るころには企画展は終わってしまっているけれど、またひとつ、彼に楽しさを分けてもらった気がした。

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