賢者の贈り物
私はずっと覚えているできごとがある。
初めて小島くんと出会ったときのことだ。
あの日は高校受験の日で、空が曇っていた。
私は高校の最寄り駅に到着すると、ぽつり、と空を見て呟いた。
「……雪だ」
そう、雪が降り始めたのだ。
なんてことのないできごとだけど、今日の私にとっては最悪なできごとに変わったのだ。
「……傘、忘れた」
ドジだ。
私ってば、なんてドジなんだろう。
雪はだんだんと強くなっていった。
高校の最寄り駅から高校まで、歩いて十分ほどはある。
どうしたものか。
この雪の中歩いたら、いくらクリアファイルに入れているとは言え、受験票が濡れてしまう。
私が濡れていったら、試験監督にいやな印象を与えてしまうし……
うわぁ、
どうしよう、最悪だ。
なんで私ったら、傘を忘れてしまうのだろうか。
刻一刻と、時間は過ぎていく。
「緊張するねー」
「ねー」
駅から中学生達が、傘を広げながら出て行く姿を見守りながら、私はひたすらに焦っていた。
今日に限って財布を忘れるなんて……。
交通系ICカードはまだ持ってなかった。
ほんと、このときから作っておけよ、という話である。
「ほんとに、どうしよう……」
泣きたくなるような声で呟いた、そのときだった。
「傘、忘れたのか?」
「……」
傘を差した男子中学生が、そこに立っていた。
ものすごいイケメンだな、と、そのときは思った。
マフラーを巻いて顔の下半分は見えないけれど、目鼻立ちはものすごい整っている。
明らかに、私と同じ高校を受験する生徒のように見えた。
校章に見覚えがあったからだ。あれはたしか、東中学の校章だ。
「そうですけど、なにか?」
私は緊張でどうにかなりそうだった。
だからいつもみたいな口調になってしまう。本当にこの性格が恨めしい。
高校に入ったら、人見知り克服できるだろうか。できる気がしない。
彼は薄く笑って、聞いた。
「傘買う金もないのか?」
「ありません。あったら買ってます
「そうか……」
今思い返すと、ほんのちょっぴり素っ気なかったかも知れない。
けれど彼は私のそんな様子を気にした感じもなく、ただ傘を前に出して聞いてきた。
「入るか?」
「え?」
「だから、入るか?」
私は固まってしまう。寒さのせいではなく、彼の言動が突飛すぎて。
「その、いいんですか?」
「だって、入らなきゃお前学校に行けないだろう」
「そ、そうですね」
私は戸惑った。
十五年間生きてきたけれど、今まで男性と相合い傘なんてしたことがない。
うわ、緊張する。
私は戸惑いを隠さないまま、彼の傘の中に入った。
彼の身長は私よりも二十センチくらい高くて、傘の位置も高かった。
「多少濡れるけど、ひとつの傘使ってんだから我慢しろ」
「う、うん」
あーもう!
緊張でどうにかなってしまいそうだ。
そりゃ、じゅ、受験も緊張するけど……
こっちも緊張するって!
そのまま二人で、ひとつの傘に入りながら歩いた。
車道の白線の内側を歩いているときも、背後の女子中学生達に噂された。
「ねぇ、もしかしてカップルかな?」
「いーなー、彼氏と受験とか。受かったら同じ高校でしょ? いーなー」
「ちょっとみお、声でかいって!」
私にはバッチリ聞こえていた。そうだよね、私たちって傍から見たらカップルだよね。
私には聞こえてたけど、彼には聞こえてないようだった。
「なに?」
「いえ。特に」
「そうか」
彼の対応は素っ気ない。なんでそんなに素っ気ない対応を取れるんだろうか。
もしかしたら、私のことが気にくわないのかも知れない。
た、たしかにそうだよね……
傘を忘れて一人ぽつんとたっていた女子中学生……
なんて情けないんだろう……。
学校までの道のりは十分ほどだ。
学校に近付く度に、私の心臓は高鳴っていった。
彼と一緒に歩いていたから、というのもあるけれど、一番の原因は、やっぱり受験そのものだ。
うわぁあああ、緊張してきたあああああ。
どうしよう。お腹痛い……。
緊張しすぎてお腹痛い。
べつにトイレに行きたいとかそういうわけじゃないけど、胃が……。
「どうした?」
「え?」
私の方をじっと見つめてくる彼。
名前、なんて言うのかな、なんて思ったけれど、私が質問する前に、彼の質問が飛んできた。
「これ、いるか?」
「なに、これ」
彼はポケットから、透明な小袋に入ったそれを取り出した。
小さな、あめ玉だった。
水色だから、きっとソーダ味だろう。いや、サイダー味?
彼は手袋をつけた手を、私の掌に重ねるようにして渡してきてくれた。
「手、冷たくないのか?」
「手袋も家に置いてきました」
「忘れたのか?」
こくん、と私はうなずいた。どうしよう、彼の目を見て話せない。
私はなんて情けないんだろうか。傘も手袋も家に置いてくるなんて……。
それもこれも、受験当日で緊張しているせいだ。
あー、緊張しやすい体質がいやになる。なんでこんな私の神経って脆いの……。
「アメ、……ありがと」
「……あぁ。なめると少しは落ち着くだろ」
それっきりだった。彼との会話は。
私はその手にサイダー味のアメを握りしめて、下駄箱で彼と別れた。
そのアメを口にすると、本当に、魔法のように緊張が解けていった。
なぜだろう?
わからない。
けど、彼が勇気をくれたことは間違いなかった。
たったひとつの飴粒で、私は気持ちを落ち着かせることができた。
結果はみごと合格。
彼は、合格しただろうか。合格がわかったその日、私は思った。すでに春になっていた。
私と彼の、初めての出会い。
私にとっては特別な出会いだったけど、彼は私のことを、覚えているだろうか。
受験当日、その日は二月十四日だった。
私にとってその日は特別なものとなった。
その日が二月十四日で、雪が強く降っていたことを今でも覚えている。
俺はその日、彼女と出会った。
「……なにしてんだ、あいつ……」
駅の出口で、彼女は降りしきる雪を見つめながら茫然としていた。
――もしかして、傘を忘れたのか?
たしかに、さっきまで曇っていた。天気予報を見ていなかったら、『大丈夫だろう』と思い込んで、傘を持ってこないことも充分に考えられた。
だが、見たところあいつは受験生だろう。受験生、この辺りの高校は二つしかない。そのうち北口を利用するのは一つだけだ。
すなわち鷹栖高校、俺が受験する高校と同じだろう。
受験生なのに、ふつう傘忘れるだろうか?
俺は初め、彼女のことなんか放っておいてやろうと思った。
受験の日に傘を忘れる奴など、今後かかわることはないだろう。そんな奴が、受験に受かるわけがない。
うちの高校は頭がいいのだ。
偏差値のいい奴は、概ねしっかり者が多い。
そんなうかつ者が、受かるわけないと思ったのだ。
だがどうしてか、俺は彼女に喋りかけていた。
傘、忘れたのか?
俺はそう訊ねた。すると彼女は「そうですけどなにか?」と応えた。
ビックリするくらい、素っ気ない奴だと思った。
きっと友達も少ないんだろうな。
そうやって、クールビューティを気取る奴は俺の中学にもいた。
だがどうしても、彼女のことは他人とは思えなかった。
不思議だ。
自分でも、うまく説明がつけられない。
ただ、彼女のことが放っておけなかった。
なぜだ?
俺はあとで、なんども自問自答することになる。だが、理由はいまだにわからない。
わからないが、たしかに一つだけ、言えることがある。
俺はこのとき、彼女に傘を貸してよかった。
そのあとの会話は、はっきり言ってよく覚えていない。
覚えているのは、彼女にアメを渡したとき、うっすらと、彼女が微笑んだような気がしたことだ。
「アメ、ありがと」
笑っているのか、笑っていないのかよくわからない顔。
なぜか、俺はその表情に強くひかれた。
理由は、これもわからん。
だけどその表情に、俺は惹かれてしまったのだ。
彼女は魔性の女だ。
俺が覚えているのはそれだけだ。その日が特別な日になるなんて、そんときのおれは思いも寄らなかった。
ただ、合格して、同じ学校になったとわかったときには、「あぁ、あいつも受かったんだな」くらいにしか思わなかった。
だから会話もなにもない関係性だった。
それなのに、運命の歯車って奴は、こうも軽々しく動いちまうらしい。
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