独白

 数十年前、私はとある学校で教師をしておりました。大して偉くもないポッと出の数学教師で、三角関数やら微分積分やらをこねくり回しながら、未熟な生徒たちには疎まれ、上からは仕事を押し付けられる毎日。そんな日々に正直不満を持ちながらも、まあ所詮は雇われの身ですから。私はただ流されるまま、嫌われ者で冴えない、いち大人の身に甘んじていたというわけです。

 しかし、そんな私でも慕ってくれる、もの好きな生徒がおりました。仮にN子とでもしましょうか。N子は非常にお淑やかで大人しい、昔でいう大和撫子のような、まさに模範的な女生徒でした。人当たりも良く、友達も多い。

 ただ家が厳しいのか、部活動に所属することもなければ放課後に友達と遊ぶこともなく、まっすぐ帰宅し翌朝にはまっすぐ登校する。寄り道なんてもってのほか。

 入学当初からずっとそういった様子でしたから、周囲からは「箱入り娘」なんて、よく揶揄やゆされていたものです。

 そんな彼女の担任に一度でもなれたことは、当時の私にとっては幸い以外の何者でもありませんでした。……今となっては、それが過ちの始まりだったと言わざるを得ませんが。

 受験期を迎える学年の担任というのは、なかなかやらねばならぬことも多いものでして。三者面談もその内の一つです。当然、N子の将来に関して、私は親や本人から希望を聞く責務がありました。

 しかしですね。来なかったのですよ。親だけでなく、無遅刻無欠席を貫いていたN子本人でさえ、断りなく学校を休んだのです。これには私だけでなく、生徒たちも驚いていた様子でした。

 後日、彼女に尋ねてみれば、一切の弁解なく、ただただ「申し訳ありません」の一点張りで理由を話そうともしませんでしたから。失礼ながら、私の脳裏には即座に「毒親」の二文字が浮かび上がり——例の箱入り娘の噂も含めて——頭の中で否定しようとすればするほど、その疑惑は大きくなるばかりでした。


 そこで私は、こっそりと家庭訪問を行うことにしたのです。独断でそんなこと、とお思いになるかもしれませんが、若い私は、彼女の担任教師という立場であろうとするあまり暴走しかけていたのでしょう。

 その若さゆえ、当時は自覚のかけらもありませんでしたが、今考えると教育委員会に訴えられてもおかしくないことをしていました。幸か不幸か、相手にも知られたくない負い目というものがありましたので、結局そんなことにはなりませんでしたが。

 負い目というのは、何も彼女の家が貧乏だとか、母親と二人暮らしであるとか、そんな単純なことではありません。もっと深い、いわば心の部分です。

 まどろっこしい言い方をして申し訳ありません。こういった問題はいささかデリケートなものですから、つい教師時代の名残が出てしまいました。


 彼女の家を訪ねた際、真っ先に目についたのはその貼り紙の多さでした。よく見ればそれは「セールスお断り」とか「猛犬注意」だとかそういったたぐいのものではなくて、よくわからないお経のような文字がずらっと並んだお札や、紙一面を狂ったように埋め尽くす感謝の言葉のようなものでした。

 呆気に取られながらも恐る恐るインターホンを鳴らすと、「はぁい」と間の抜けた声がノイズ混じりに返ってきます。

 溜まった唾を飲み込み、「N子さんの担任のものですが」と名乗るや否や、即座にガチャリとドアが開き、「お待ちしておりました」などと満面の笑みで言われて怯まない大人がどこにおりましょうか。

 許可もなく扉を叩いた突然の訪問者を、娘の担任を騙る不審者かもしれない男を、何の躊躇ためらいもなしに笑顔で招き入れてしまう。そんな母親を狂人と言わずなんと言い表せば良いのでしょう。

 ……話を少し戻しますと、家庭訪問により分かったのは、N子の母が精神的に壊れてしまっているということなのです。その結果、本来はすがるべきでないものに縋り、その余波を娘であるN子もこうむっていたというわけなのです。

 新興宗教、と言えば、いくら察しの悪い方でも私の言いたいことが十二分じゅうにぶんに伝わるでしょう。


「娘は出家させます」


 祭壇に手を合わせ、そう言い放つ母親の顔に貼り付いた感情のなんと不気味だったことか。確固たる意志を含んだ物言いに、私はただ震えるばかりで。説得すらままならず、情けなくも勧誘を断り帰宅するのがやっとの状態でした。


「先生」


 N子の家から脱出したところで、ちょうど彼女に鉢合わせてしまい、私は非常に焦りました。


「どうして。今は昼休みだろう」

「少し、忘れ物を取りに」


 そう言った彼女は、当たり前のように貼り紙だらけの扉を引いて「ただいま」などと口にします。

 彼女の姿が見えなくなった瞬間、私は慌てて踵を返し、逃げるように学校へ戻りました。

 彼女と彼女の母親と、あの狂った空間と「出家」という言葉が一日中脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き回して、その日は頭がどうにかなりそうでした。

 いや、この表現は正しくありませんね。きっともう既に、おかしくなっていたのだと思います。


 放課後、教室で書類の整理などしていると、珍しくN子一人が居残っておりました。


「先生」


 静かな部屋に彼女の透き通った声だけが揺れています。鼓膜の奥にまで浸透する、あの日と同じ声色の冷たさ。


「ねえ、先生ってば」


 予想外に近くはっきりとした声に思わず顔を上げると、立ち上がってこちらを睨む彼女と目が合いました。


「無視しないでください。私、別に怒ってませんから」

「……すまなかった、勝手なことをして。君の事情を今まで何も知らずに、知ったところで何も出来ずに。私は君の担任失格だ」

「だから、怒ってないって言ってるじゃありませんか」


 項垂うなだれる私の額をちょんとつつき、N子は至って普段通りの微笑みをその顔に浮かべました。


「私ね、来月誕生日なんです、先生。知ってますか?」

「いや。……すまない」

「いえ、いいんです。ただ、それ以降は学校に来られるかどうかわからないって。今日はそれを言いたくて」

「それは、なぜ」


 言いかけて、私はその疑問を口にしたことを心から後悔しました。無感情な声と裏腹に、彼女の頬には一筋の温かい涙が伝っていたのです。


「十八になったら、私、教祖様のお嫁さんになるんですって」


 そこから彼女は、私の返事も待たず、つらつらと語り始めました。母親がとある宗教に心酔していること。入る学校、将来の仕事、結婚相手——それら人生の全てを、教えによって縛られていること。

 成人を迎えた女性は皆、出家のための儀式として、教祖に処女を捧げなければならないということ。


 N子いわく、どうやら彼女は神託により、教祖の嫁として生きることを強いられているようでした。そんな馬鹿な話が現代にあってたまるものか、という顔をしていらっしゃいますね。無論、私もそう思いました。

 けれど、あの異様な空間に足を踏み入れてしまった後でしたから。鼻で笑い、あしらう気にもなれないほど、知りすぎてしまった後でしたから。


「お願いです。せめて、初めてを奪ってください、先生。成人してしまうその前に、私を大人にしてください」


 私は取り返しのつかない過ちを犯しました。教師という身でありながら私は、彼女の誘惑に耐えることが出来ませんでした。

 ネクタイに絡んだ細い指を解こうとすることもなく、そのくらい瞳に吸い込まれるように。


「どうしようもないくらいの汚い大人に、私を。そうしたら……」


 そうしたら、自分が人形ではなく、少しは人間だったと証明できるような気がする。今し方私に触れた唇をなぞって、そのように彼女は言いました。

 カーテン越しでもわずらわしく思うほど、西日の眩しい夕暮れのことでした。


 以来、私は暇さえあれば、N子との関係に溺れるようになりました。誕生日が来れば、二度と会えなくなってしまう。その特別感が、余計に私たちを刺激していたのかもしれません。

 私も彼女も、限られた時間を貪るかのように人の目を盗んでは逢瀬を重ね、時には普通の恋人のように、手を繋いでいるだけのこともありました。指輪が欲しいとねだられ、貯金を切り崩していざプレゼントしたところ、薬指にかっちりとはまって取れなくなってしまったことも。……ただただ、幸せな日々でした。

 もう、おわかりになるかもしれませんが、いつの間にか私はN子にすっかり惚れこんでいました。たとえ一時の気まぐれや、親への反抗心だとしても。倫理的に許されない、そう頭では分かっていても。紛れもなく、私は彼女を愛してしまっていたのです。

 ……軽蔑しましたか? いえ、正直におっしゃっていただいて構いません。私は、れっきとした犯罪者です。ですからこうして、警察官であるあなたに自首をしに来たのです。

 すみません、話が逸れかけてしまいました。私が自首したいのは何も、過去の未成年淫行だけではないのです。


 結論から言いますと、その後、N子が学校に来なくなるといったことはありませんでした。拍子抜けの気持ちが半分、安堵の気持ちも半分。十八歳となった彼女を目にした私は当時、そんな心地だったと思います。しかし一方で、登校した彼女の表情は以前よりも暗く、口数もどこか少ないように感じました。

 そこで私はいつものように、放課後、荷物をまとめる彼女を呼び止め、生徒指導室に呼び出したのです。


「誕生日おめでとう」


 そう言うと、彼女は突然泣き崩れ、私の胸に顔をうずめました。こんなことは初めてでしたから、私もおろおろとするばかりで、彷徨さまよう両手を回し彼女を抱きしめるので精一杯でした。


「好きです」

「ああ」

「好きです、先生」

「……私もだよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「大丈夫、落ち着きなさい」


 ようやく泣き止んだN子は鼻をすすり、赤く腫らした目をこちらに向けて、わなわなと震え出しました。


「を、——しました」


 最初は何を言っているのかわかりませんでした。


「人を、殺してしまいました」


 聞き返すようにかがんだ私の耳元で、確かに彼女はそう告げました。


 ええ、そうです。その通りです。自首したいというのはまさにこのことなのです。

 来たる成人の儀式の日、N子は誤って教祖を殺してしまったのだそうです。私の送った指輪が悪かったのでしょう。逆上した教祖に無理やり犯されそうになり、跳ね除けたその勢いで。

 教祖の部屋に立ち入れるのは、教祖の許可を得たものか、あるいは教祖の妻のみ。そのため、今はまだ公になってはいないものの、遺体が見つかるのは時間の問題だと。言って、彼女は大粒の涙をこぼしました。


「大丈夫」


 そう言う他にありませんでした。愛というのは、時に人の思考を鈍らせます。私は通報するよりも、共犯者でいる道を選びました。

 深夜、遺体を二人で山まで運び、深く暗い土の底へと投げ入れました。服は燃やして灰にし、土と一緒に被せました。

 黒々と空いた自然という名の怪物に、都合の悪いものは全て食べてもらう心づもりでした。

 ……見つかってしまったからこそ、私は今この場を借りて罪を告白したわけですが。


 以上が私のお話ししたかった全てです。N子とは、共犯となったその日以降、一度も口を聞いておりません。卒業後、一体どうしているかなど知る由もありません。

 私が自首をした理由はただ一つ。もう一度だけ、彼女に会いたくなってしまったからです。

 秘密の関係がバレて教師をクビになり、落ちぶれ、住む家すら無くしてしまったにも関わらず、私は未だに彼女を愛しているのです。


 ——おかしいですか? 数十年も一人の生徒を愛し続けていることが? それとも、愛しているにも関わらず、彼女の罪まで告発していることが、でしょうか。まあ、どうでもいいじゃありませんか、そんなのは。

 まずは事件の解決に心血を注ぐ。警察官というのは往々にしてそういうものでしょう。

 この私の勇気が、捜査の一助となることを、今は心より期待しております。

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