一章 6
俺が部屋の掃除機を掛けていると、ピンポンとチャイムが鳴った。
誰だ? 宅急便か?
俺は覗き穴から、来客を確認する。
そしてすぐに扉を開けた。
「お前か。どうした?」
「どうした、じゃないでしょ。はいこれ。洗って返そうと思ったら、今日体育あったこと忘れててさ。ごめん、洗っちゃって。寒かったっしょ?」
荻原は言う。その顔には多少の申し訳なさが見られた。
「べつに。まぁちょっとは寒かったが、気にするほどでもないな」
「そ。ならよかった。あとこれ、お詫びの品」
「お詫び?」
俺は首を傾げた。お詫びされるようなことでもないんだがな。
彼女はタッパを差し出してきた。中には黒い液体が入っている。料理……だなどう見ても。
「くれるのか?」
「あんた夕飯まだでしょ? んで、あんた料理へたで、アタシ料理うまい。だから代わりに作ってあげたってわけ。へへっ、感謝してよねっ!」
荻原は満面の笑みでそんなことをのたもうた。
いやたしかに嬉しい。隣人からのお裾分けは、誰しもが夢見る展開だろう。
「悪いな。ありがたく貰うとする」
「はいよ。あんた夕飯何時くらいにいつも食べてんの?」
「十九時くらいだな。それがどうかしたのか?」
「んじゃ、その時間に間に合うように、作ってきてあげるよ。タッパで渡して」
俺は首を横に振った。さすがにそこまでやってもらう義理はない。
「悪いが、断らせてもらう。お前にそこまで迷惑を掛けるわけにはいかんのでな」
「……いーじゃんべつに」
俺が断ると、荻原は拗ねたように返してきた。
どうやら作りたいらしいな。
だがどうしたものか。俺としてもそこまでやってもらうのはちょっと気が引ける。
「アタシが勝手に作って、作り過ぎちゃったのをあんたにあげるだけ。べ、べつにあんたのためじゃなくて、あたしが料理好きだから、たまたま作り過ぎちゃうってだけの話!」
「毎日か?」
「そう毎日。なんか文句ある?」
ハチャメチャな論理展開だった。明らかに破綻が見える。
だが荻原としては、俺に料理を作りたい思いに揺らぎはないみたいだ。
「わかった。だが材料費くらいは出すぞ。光熱費とかも」
「いいっていいって! 本当にいいから! あたしが好きでやってること。それに自分で作った料理を食べてくれる人がいるって、ちょっと嬉しいんだ。今までそんなことなかったし。あんたは特別」
特別か。
俺は特に彼女に好意を与えたわけではないつもりだが、彼女から見ると俺は特別に見えるらしい。
不思議だな。俺はべつに、荻原のことをただの隣人としか思ってないのだが。
まぁ親しい隣人、ってところか。こうやって料理をお裾分けしてもらってるわけだしな。
「わかった。ンじゃあありがたくもらっておく」
「ん。温かいうちに食べな」
荻原はそう言って、「んじゃね」と手を振ってきた。ずいぶんとフレンドリーな態度をしてくるものだ。
「寒いな」
俺は温かいビーフシチューに食欲を刺激されながら、さっさと部屋に入ることにした。しかしなんだ。
こうやって毎日料理を作ってくれるとなると、どうしても貸し……というか、罪悪感を覚えてしまうな。
……ま、彼女が好意でやっていることって言うのなら、俺からとやかく言うことはないか。
「うまいな」
俺は一人呟いた。この壁の向こう側で、荻原も同じ物を食べているんだろうか。
そう考えると、やけに感慨深いものがあるな。
この前まで二人とも素っ気ない態度しか取ってこなかったのに、いきなり距離が縮まってしまった感じだ。
荻原は、徐々に俺に心を開きつつある。
俺の意志とは関係なく、な。
俺は食後、ベランダへと出た。
きれいな夜空が広がっていた。星が瞬いている。
「ふわぁ」
俺はあくびをする。
「お」
「あ」
おれたちは目が合ってしまう。どうやら荻原の方も、外の景色を眺めているらしい。
「きれいね」
荻原は上の方を見ながら言った。俺は「そうだな」と応えた。
「ねぇ、なんであんたっていつもそんなに素っ気ないの?」
「そうか? 俺はべつにそんなつもりはないが」
「……ふーん、素でそれなんだ。なんか愛想のない奴」
俺は言われてしまう。愛想のない奴か。確かにそうかも知れない。
ただ、へたに感情を外に出して、周りからいやな目で見られるのが嫌いなだけだ――
なんてことは言えない。
ベランダには隣人のベランダとの仕切りがあった。
俺と荻原の間にも、きちんと仕切りがある。
その仕切りが取っ払われることは、果たしてあるんだろうか。
俺はふいに、口を開いていた。自分でもほとんど無意識だった。
「平気か?」
「なにが?」
「いや、この間のこと。一人暮らしで落ち込むと、際限なく落ちていくからな」
精神状態って言うのは、意外と自分では把握できないもんだ。
周りから、「ねぇあんた大丈夫?」と言われて初めて気づく。
こいつの場合強がるから、周りに頼れる人はかなり少ないのだと思う。
現状、もしかしたら、こいつと一番近くにいるのは俺なんじゃないか? とすら思ってしまう。
だとしたら俺が気遣ってやらないと、こいつはいつか破滅する。
そうならないために、支えないといけないと思った。
なぜだろうな。
俺にそんな義理はないはずだ。
だが、俺にはどうしても、この隣人が心配だったのだ。
ただ、それだけの理由だ。
「心配してくれんのね。うん、ありがと。けどへーき。もう立ち直った」
「そうか。ならよかった。……また、飯作ってくれるのか?」
「うんっ。楽しみに待ってなさいよ。あんたより百倍料理うまいから」
俺は苦笑した。
「だな」
言ってから、振り返り、部屋へと戻った。
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