一章 4
俺は考える。
いやべつに考える必要もないだろうが、どうしても頭の中を渦巻いてしまうのである。
荻原はなぜ、自傷行為に走ったのか。
手首を切るなんて、言い方は悪いが正気の沙汰じゃない。
常軌を逸した行動。精神的な限界がきた、と言い換えてもいいかもしれない。
おそらく、あぁ見えても荻原は繊細な人間なのだろう、ということくらいは、接する機会が増えていくにつれてわかってくる。
本当は傷つきやすいけれども、学校ではみんなに好かれる自分を演じている。
その姿は、まさにパーフェクトヒロイン。
成績優秀、頭脳明晰、容姿端麗。
カンペキとしか言いようがない。
そりゃ、男女問わずモテるよな、って感じだ。
その分やっかみとかも買うんだろう。
もしかして荻原は、そのことについて悩んでいたのか?
あり得る。だが同時に、『そんなことで?』とも思ってしまう。
あの荻原が、学校生活で誰かから嫉妬されたせいで、わざわざ悩んだりするだろうか。
俺にはとてもそうは思えない。
じゃあべつの悩みがあった、ということになる。
まぁ、女性の場合、男性とは体の構造が違うから、定期的に気分がふさいでしまった、だからたまたまあんな行動に出てしまった、とかも考えられなくもない。
メンヘラ、と呼ばれる女子に多い行動だ。
特に現実世界で問題が起こってないにもかかわらず、頭の中が不安や焦燥で支配された結果、自傷行動に走る。
………………あまり考えていて、気分がいいものではないな。
荻原には荻原なりの悩みがあったのだろう。
俺が深く詮索するようなことでもないのかも知れない。
そんなことを考えながら、俺は通学路を歩いた。
「やっほー! おっはよーたっくん!」
橙色の髪の毛をなびかせて、颯爽と教室に入ってきた一人の女子は、すぐさまたつきの肩を叩いた。
「おうおはよ。ちかげいつもより早いんじゃない?」
「えっへへ、バレた? たっくんんいいつもより早く会いたかったのです」
「あちゃー。僕の彼女が可愛すぎる」
「とんだ見世物だな」
俺はすかさず突っ込んでやった。
何だこのやり取りは。
いくら何でも甘すぎる。いや、本人達の間では甘い空気が漂っているのだろうが、傍から見たら完全にバカ二人である。
バカップル。
世間一般ではそう呼ばれる二人。
相沢たつきと、黒川ちかげの、一年生なら誰でも知っている有名カップリングだ。
しかし朝からこんなのろけを見させられるとはな。
ちょっと胸焼けしそうだ。
「おんや鍵、何だ嫉妬か?」
「嫉妬じゃない。だが俺の目の届かないところでやってくれ。目の毒だ」
「あらあらー。石上くんは彼女とか作らないのー?」
「作るつもりもない」
「えー、石上くん顔は整ってるから、ちゃんとすれば女の子の一人や二人寄ってくると思うんだけどなー」
「こらこら。ちかげ、君は僕の彼女なんだからね。鍵にうつつを抜かしちゃダメだよ」
「は~い! ごめんねたっくん!」
くそなんなんだこいつら。
べつに羨ましいとかは思わないのだが、正直見せられて気分のいいものではない。
「彼女はいいぞ。鍵も作りなよ」
「うるさいぞ。たつき、お前まで」
「愛しの彼女とのスキンシップはそれだけでその日の活力になるからねー」
「……」
閉口した。
ここまでのろけが過ぎると、ちょっとこの二人の将来を心配したくなる。
だがタツキはたつきで、どうやらちかげと付き合うときに、ちかげの父親と一悶着あったらしい。
まぁそりゃそうだろうな、とおれは思う。
親御さんからすれば、大事な娘さんだ。愛情を育てた娘の彼氏ともなれば、厳しく当たってしまうのも当然か。
たつきは一応、ちかげとの将来を考えているらしい。
そう考えると、偉いっちゃ偉いのかも知れないな。
まぁ俺には関係ないが。
そうこうしているうちにチャイムが鳴った。たつきはちかげにバイバイを言って、ちかげは自分の教室に戻っていった。
帰り際、俺が交差点の近くまでやってくると、荻原を見つけた。
赤信号待ちの最中である。
声を掛けようかと思ったが、やめておく。
べつに俺は荻原の友達でも何でもないしな。
これぞぼっち的思考、と思う向きもあるかも知れないが、不必要に喋りかけるのも彼女にとってはストレスかも知れない。
それに、学校からの帰り道、荻原は俺と話しているところを見られたくないかもしれない。
その可能性を考慮すると、俺は彼女に話しかけないという結論に行き着く。
彼女の傍では、小学生くらいの男女三人組が、わいきゃいはしゃいでいた。
男二人、女一人である。
活発そうな少年二人と、おとなしめの女の子が一人だ。
小学生に戻りたくなるような光景だった。何とも楽しそうな三人組だ。
俺はなんとなく彼らを眺めていた。
三人組は、周りなど気にせずじゃれ合っている。
そのうち、男の子一人が「やーめーろーよー」と言って、もう一人の少年を突き飛ばした。
あぶない。
俺はすぐさま走り出した。
男の子の足は宙を浮いて、後ろにいた女の子の体に直撃した。
女の子は尻餅を付く。
「あぶない!」
俺が飛び出すよりも速く、荻原が飛び出していた。
女の子は白線の外側に座り込んでいる。
彼女の瞳には、迫り来るトラックのヘッドライトが映り込んでいたことだろう。
荻原はその体を抱きしめて、踏み出した足をまた歩道のところまで戻した。
荻原は反動で尻餅を付いて、女の子が心配そうに「だ、大丈夫ですか!?」と声を掛ける。 俺から見ても心配だった。荻原の奴、急いで車道に滑り込んだものだから、膝をすりむいている。
外見だけで判断できる部分だ。骨とか、もしかしたらひび割れているかも知れない。
だが荻原はすかさず立ち上がって、男の子の肩を両手で掴んだ。
さっきまでふざけていた男の子は、泣きそうな顔で荻原の顔を見上げた。
「あぶないでしょうが!」
「ご、ごめんなさい……」
男の子の瞳から涙がボトボトこぼれ落ちる。
もう一人の男の子も、反省したように肩をすくめる。
「ふざけて命落としたら、あんたらの親御さん泣くんだからね! わかってんの!? っていうかあんたら、学校で習わなかったの!? 車の近くではふざけちゃいけないって!」
正論である。荻原は、今小学生に正論を語っていた。
「ご、ごめんなさいぃ……。ふ、ふざけちゃって……。もう二度としません」
荻原は肩をすくめた。
「わかったんならもういいわ。大丈夫、ケガしてない?」
「う、うん! お姉ちゃんが助けてくれたから! け、けど……お姉ちゃんの方が、傷ついちゃって……!」
「へーきへーき。膝くらいなんてことないって。あんたらの命に比べたら、アタシの膝が犠牲になった方がまだマシでしょ?」
子ども達三人は反省したような顔で、荻原を見上げていた。
俺は荻原の意外な一面を見ているかもしれない。
こんな顔もできるんだな、と思わず感心してしまう。
荻原は優しく、女の子の頭を撫でた。
「あんたこそケガしてないわよね」
「は、はい……。私は全然、へっちゃらです!」
「よかった。帰ったらちゃんと、お母さんに今のことを報告しなさいよ。服、汚れちゃったみたいだし」
今気づいたのか、女の子はあっ、と声を上げた。
赤いスカートが、茶色く汚れてしまっている。
車の通りが激しい道だからな。オイルとかで汚れてしまって、もしかしたら洗っても落ちないかもしれない。
「う、うん……。お気に入りだったのに、ショック」
「わ、悪かったよ」
「べ、別に怒ってないから、大丈夫だよ」
強い子だ。
そのあとに起こったことをまとめると、三人組は荻原からアメをもらってきちんと手を挙げて横断歩道を渡って帰路についた。
「お前、あんな顔もできるんだな」
「見てたの? うっわ、趣味わる」
「趣味じゃないけどな」
「あんた見てたんなら助けてあげればよかったじゃない。薄情者」
「俺も行こうとしたが、お前の方が先に飛び出していったんでな。出る幕がなかった」
「あっそ。言い訳はけっこうですっ」
「膝、見せてみろ」
俺が言うと、荻原は目を丸く見開いた。
「は、いいし。じ、自分でやるから」
「強がるな。見せてみろ。細菌や真菌が入ったらどうするんだ」
俺は荻原を、近くの公園まで誘導した。
近所の子ども達だけが遊ぶような、ほんの小さな公園。
住宅街の敷地をむだにしたくないという、自治体の強い信念を感じる公園だった。
俺は荻原をベンチに座らせる。
「ほ、ホントにへーきだって」
「お前、絆創膏とか持ってないのか?」
「あー、持ってない。家にはあるけど」
「とりあえず、そこの水道で洗ってこい」
俺は半ば命令するような口調で言ったので、荻原は素直に従った。
「な、なんであんた絆創膏持ってんのよ……」
その質問には答えかねた。
俺は昔、中学の頃、いじめられていた。
精神的なものから肉体的なものまで、数多くの傷を背負った。
だからこそ、ふだんから絆創膏や湿布やらを持ち歩く癖がついた。ついてしまった。
ただそれだけのことだ。
だが、わざわざ荻原にそのことを話す必要はないだろう。
「消毒液まで持ってんだ……。あんたってもしかして女子力高め?」
「果たして俺の家事センスで女子力が高いと言えるのならな」
「やっぱ却下。あんた女子力は低いかもね。……けどセンキュ。なんか助かった」
荻原は柔らかい笑みを浮かべて、感謝の言葉を口にした。
そういう表情をしている荻原は、とても人好きがしそうだ。
なんというか、硬いものがない。こちらとしても、思わず心を許してしまいそうになる、そんな笑みだ。
傷口の洗浄が終わったあと、俺は荻原の膝に消毒液を塗り、ティッシュで拭き取った。
それから絆創膏を貼り付けた。
だがいかんせん見栄えが悪い。
荻原はスカートを穿いている。
「ねぇ、なんかあんたジロジロ見てない?」
「見てない。ちょっと待ってろ」
俺は鞄から、今日来たジャージを取り出した。ジャージの下だけだ。
「これはけ」
「え? なんで?」
「なんでじゃない。お前はその恰好で帰るつもりか? 生足に絆創膏を貼っている女子高生って、それはそれで需要あるかもしれんが、見栄えはよくない」
「……あんたもしかして、アタシのこと心配してくれてる? べ、べつに見られても減るもんじゃないし」
「ともかくだ。穿け。いつか返してくれれば構わんからな」
「……いいの? 本当に?」
「その恰好で帰られるよりは遥かにマシだ」
俺は荻原に、ジャージの下を渡した。
彼女がそれを履いている間は、後ろを向いていた。
「ん、終わった」
いかにもルーズな女子高生な絵面がそこにはあった。
スカートの下にジャージを穿いている女子である。
まぁ、はっきり言ってダサい。ダサいが、生足絆創膏よりかはいいだろう。
「ほら」
「え?」
俺はしゃがみ込む。
「なんのつもり?」
「足、ここまで来るのに引きずってただろ。どうせ近くなんだ。この道は学校から遠いから、ほとんど誰も通らないだろ。家まで送ってく」
荻原は少々ためらっていたようだったが、やがてゆっくりと、体重を俺の背中に掛けてきた。
軽い。
荻原がスタイルがいいことは、男子達の間では周知の事実である。
だが、想像していたよりも遥かに軽かったので、俺は驚きを隠せない。
女の子の体はこんなにも軽くて、そしていい匂いがするなんて、想像すらしなかった。
ばくん、と、俺の心臓が高鳴った。
ほんの少しでも理性の手綱を外せば、どうにかなってしまいそうなレベルだ。
だがここで押し倒すほど、俺は性欲お化けじゃない。
もっとも、荻原はそういう人間を本当に嫌うだろう。
荻原は俺を安全な人間だと見なしているから、こうやって黙っておぶさってくれているのだ。
「家までは五分くらいか。苦しくなったらいえよ」
「……う、うん……よろしくね」
五分間はあっという間だった。
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