裏表のない人

@ns_ky_20151225

裏表のない人

 その瞬間を覚えている。当確がつき、事務所がわき立った瞬間を。すべての努力が報われ、関係者への感謝に満ち溢れたひと時を。そして数日後、選挙管理委員会から正式な当選の通知が来た時も同様に盛り上がった。

 けれど、その興奮の渦の中、わたしだけは氷のように冷たく静かに座っていた。その様子に気づいた周囲も徐々に落ち着いてきた。

 わたしは議員として国政の舵をとる。それは同時に心の秘密という人権を失うことを意味していた。その意味をみんな実感したのだろう。


 始まりは欧州の『進んだ国』からだった。政治家の不正に業を煮やした市民は議員のすべての言動の記録を求めた。昔だったら不可能だが、いまは医療機器を改造した体内埋め込み式の記録装置がある。その『進んだ国』では激しい議論と暴動の末、議員は当選と同時にその装置を埋め込まれ、任期中はすべてを記録されることとなった。

 わが国でも『進んだ国』のやったことを真似しようという声が上がり、同様の過激な過程を経て実現した。人権を侵すとしていまでも反対はあるが、私的な秘密の保護を求め、異を唱える者はそもそも当選できないので法的な影響はなかった。

 しかし、わが国では言動監視にさらにひとつ付けくわえられた。当選前も含め、政治的活動に影響を及ぼすような事実があったら自主的に公開するという仕組みだ。当選通知が来てから一週間以内。それまでに『自主的に』公開した情報については議員としては責任を取らなくてもいいというルール。公表するかしないかはその人次第。しかし、後から暴かれたらすべてを失う。実際に隠していたことをさらけ出されて地位も名誉も失った議員がいる。報道の取材能力はほぼ極限に達していた。今自分から言うか、後から他人に記事にされるか。はっきり言って選択肢はない。


 わたしは当選通知を見た。いまでも伝統として紙が用いられている。手でなでられる書類は生まれて初めてだ。


 そして、決心した。早いほうがいい。妻や娘、親戚は驚き、怒り、失望するだろう。けれど公開しなければならない。国政を担うというのはわたしの生涯の目標だった。人々のためになり、国をすこしでもよくしていきたい。生きるに値する社会、そしてすべての国民の幸福を実現する。その手段を手にしたのに失ってたまるか。

 仮想空間に記者たちを集めた。みんな何を言うかある程度予想がついているに違いない。当選してすぐに開かれる記者会見はすでにお決まりのルーチンと化していた。

 でも、かれらにとってそうであってもわたしには違う。国政の舵取りをするという資格を手に入れた代わりに、今日家族を失うだろう。もっと早く言っておけば良かったのに言えなかった。その臆病と打算の報いでもある。なぜ許しを乞わなかったのか。こんな形で知る家族に申し訳ない。けれど人間は完全じゃない。ただ言えなかったんだ。許せ。

 そう思いながら、わたしは一息吸うと当選の挨拶を行い、記者たちに語り掛けた。


「……そこで、わたくしの過去に犯した過ちについて公表いたします。わたくしは十年前、交通信号を無視し、道路を横断したことがあります。立法する立場につくというのにこのような行為を行っていたことをお詫び申し上げます。申し訳ございません……」


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