異世界転移してエンディングを迎えた後、現代に戻ってきたお話
村沢黒音
第1話
――午後6時。
カフェ『GARDEN』の閉店時間が過ぎてから、数分が経っていた。オーナーである
都心から少し離れた街中の一角。そこにカフェ『GARDEN』はひっそりと店を構えていた。
こじんまりとした敷地に、心が落ち着くような内装の店内だ。
地元の人たちの間では話題の店として注目を集めている。
コーヒーが美味しい。果物が美味しい。そこで提供されるパスタやサンドイッチも絶品。その上、店員の1人が外国人で、眩いばかりの美形なのだ。不愛想なところが玉に瑕だが、彼目当てに日参する常連客は後を絶たない。
更にそのカフェが話題を呼んでいるのは、店の経営者がまだ若い20代の女性だという点だった。
彼女がこうして店を持つようになるまでは、大変な苦労があった。彼女は普通の人とは変わった経歴を持っている。だが、彼女はあまり昔のことを話したがらなかった。むしろ自分の過去は人生の汚点だとばかりに、あまり思い出さないようにしているようだった。
店の閉店後、美百合がテーブルに布巾をかけていた――その時のことだ。
からんからん。
扉が開く音が聞こえた。美百合は手を止めて、怪訝な顔を浮かべた。
それから相手の姿を視界に収め、驚愕に目を見開いた。
美しく輝く金色の髪に、蒼い瞳。日本人ではない。それどころか、着ている服も現世にはそぐわない物だった。中世時代からタイムスリップしてきたのかと思う格好だ。
男は美百合の顔を見て、すがるように声を上げた。
「頼む、ミユリ……! 戻って来てくれ……! イドルディアに!」
衝撃が浸透しきるまで数秒がかかった。美百合は眼差しを嫌悪感に曇らせた。
彼の顔はよく見知った物だった。
もう二度と会いたくないと思っていた。
イドルディアという世界に存在する国。
彼はそこの第一王子だった。
◇ ◇ ◇
美百合がイドルディアの世界に飛ばされたのは、16歳の時だった。
朝、学校へと向かう途中。突然、足元に魔法陣が現れた。立ち上る光に全身を覆われて、一瞬で光景が変わった。
気が付いたら、神殿の祭殿のような場所に立ち尽くしていた。美百合を囲っているのは大勢の人間だった。おかしな服装に、日本人ではありえない髪と目の色。
その人たちは口々に歓声を上げた。
「聖女様だ!」
「伝承は本当だった!」
「これで世界は救われる!」
美百合はわけがわからず、唖然としていた。
ボーっと辺りを見渡しながら、「これは何の夢だろう」と考えていた。そんな美百合に、優しくほほ笑んでくれた男性がいた。それがフィリップ王子だった。
その後、彼からの説明を聞いて、美百合は自分の身に起きたことを理解した。
美百合は日本からイドルディアの世界へと「転移」した。その国の伝承には、「国が大いなる危機に見舞われた時、異界より出でし聖なる子女がこの国の暗雲を振り払うだろう」と記されているというのだ。
彼ら曰く、それが美百合らしい。
その日から美百合はプドルシア王国の聖女としてあがめられるようになった。
始めのうちは美百合はずっとパニックだった。それまで平和な日本で普通の女子高生として暮らしてきたのだ。それがいきなり聖女扱いされて、「世界を救ってくれ!」とすがりつかれても困惑するしかない。
美百合は元の世界に帰してほしいと何度もお願いした。だが、その度にフィリップは申し訳なさそうに答えた。
「元の世界に戻る術はない」
と。
美百合は絶望した。日本には家族も友達もいた。高校生活だって楽しかった。
それなのにいきなりわけのわからない世界に飛ばされて、生きていかなければならないなんて。
美百合は泣いた。
そんな美百合を慰めてくれたのもまた、フィリップ王子だった。その頃の王子はとても優しかった。美百合のために心を砕いて慰めてくれたし、一緒に悲しんでくれた。
美百合は自然と王子に惹かれていった。そして、王子もまた美百合に愛をささやいた。そして、二人の間には婚約が結ばれた。美百合はフィリップと――この人が暮らす国のために、自分ができることをやろうと決意した。
美百合には聖女としての不思議な力が備わっていた。
植物と心を通わせて、成長を促すことができたのだ。美百合が触れると、しぼんでいた花も枯れていた木も元気になった。どんな草花でも、目にするだけで瞬時に効能や薬の煎じ方を理解することができた。
プドルシア王国は深刻な飢餓と病魔に侵されていた。
美百合は寝る間も惜しんで、聖女としての務めを果たした。野菜や穀物を育てて食糧を作り、薬草から薬を煎じた。仕事はどんどん増えるばかりで大変だった。美百合の力は『聖女の奇跡』と呼ばれ、人々の間に広まった。彼らの期待値が上がっていく度にプレッシャーが重くのしかかって来て、胃がねじれそうなほどにつらい思いもした。
それでも美百合はフィリップのためにがんばろうと自分を更に追いこんだ。
フィリップは美百合のことをずっと支えてくれた。
……今から思えば、彼はいつも優しい言葉をかけてくれるばかりで、仕事を手伝ってくれるわけではなかったのだけれど。
『大変だね。だが、つらい時こそ1人でがんばらなくては。あなたは聖女なのだから』
フィリップは何度もそう言った。美百合はその言葉を馬鹿正直に受け止めていた。聖女としての使命を持っているのは自分だ。だから、自分1人でやらなければならないと信じこんでいた。
薬を煎じる時間が足りなくて、睡眠時間を削って働き続けた。「聖女を働かせすぎではないか」と口出ししてくれたのは、騎士団長ただ1人だった。
フィリップは始めのうちは毎日、美百合の元を訪れてくれた。いつも美百合を慰め、応援してくれた。でも、日が経つにつれ、それが2日に1回になって、5日に1回になって――そのうちまったく会いに来なくなった。
その時もまだ美百合は彼のことを信じこんでいた。「執務が忙しい」という彼の言葉を疑ったことはなかった。
気が付けば美百合がイドルディアにやって来てから、7年もの歳月が経っていた。
国は見違えるように豊かになっていた。「聖女様のおかげです」と人々から涙ながらに感謝されて、美百合もまた涙を流した。
その頃になると日本のことはたまにしか思い出さないようになっていた。元の世界に戻れないのだということを理解し、これからはこの世界で生きていくのだと決意を固めていた。
そんなある日――フィリップに呼び出された美百合は、思いがけないことを聞かされるのだった。
『君との婚約を解消したい』
彼にそう言われた時、愕然とした。
彼が何を言っているのか、まったく理解できなかった。
更には王子の腕にひしとしがみついている女が誰なのか、何者なのかもまったくわからなかった。美百合よりも少し年下らしい少女は、おどおどとした顔でこちらを覗き見ていた。
呆然として立ち尽くす美百合に、フィリップは更に言いつのった。
『彼女はリリー。見ての通り、儚く弱々しい娘だ。1人で何もかもこなす君とはちがって。彼女には私の助けが必要なのだ』
美百合の全身はぴしりと凍りついた。「1人で何もかもこなす君とはちがって」彼の声が耳の中を反響した。その度に、美百合の心臓に杭ががんがんと押しこまれるかのような痛みが走った。
――今までずっとフィリップのためにがんばって来たのに。
1人でも平気だなんてそんなことは決してなかった。本当は何度もくじけそうになったし、フィリップが会いに来てくれない間、さみしくてたまらなかった。でも、彼の負担になりたくない一心で、表面上はそうでないように振る舞っていただけだ。
それなのに……。
美百合が聖女としての務めを果たしている間、フィリップは別の女性と楽しく過ごしていたというのか?
その光景を想像するだけで、足元がばらばらと崩れていく感覚を覚えた。
『それに、君には帰る故郷があるのだろう』
フィリップの言葉で、美百合はハッとなった。
『……元の世界に戻る方法はないと……そう言っていたじゃない』
『それは……わかってほしい。君の心が揺れるといけないから……。私は君のためを思って言ったのだ』
『私のため……? 私はずっと日本に帰りたかった。でも、あなたが帰る方法はないと言っていたから……』
だから、今ではもう日本に帰ることを諦めた。この世界で生きていく決意をした。
そう告げようと思ったのに、フィリップは美百合の言葉にかぶせて嬉しそうに言った。
『帰りたい? そうか、やはり故郷に帰りたいのだな! 大丈夫だ、手筈はすでに整っている。それにこれは父上の意向でもある』
美百合は言葉を失くした。
フィリップの父――現国王のことだ。
彼はフィリップとはちがって、いつでも美百合のことを気にかけてくれていた。「負担をかけてすまない」と何度も声をかけてくれたし、美百合がこの国で暮らしやすくなるように様々な配慮も行ってくれた。国が平和になった後もこのまま王城に住んで欲しい、と言ってくれたのも国王だ。
でも、その言葉はすべて嘘だったというのか。
国王も美百合が日本に帰ることを望んでいる――自分はもう用済みということなのか。
フィリップが合図すると魔術師たちが部屋にやって来て、美百合を囲った。そして、呪文を唱え始めた。足元が光り出す。そこに魔法陣が浮かび上がった。日本からイドルディアに転移した際に見たのと同じものだ。
美百合は頭が真っ白になった。ぼうっとフィリップの顔を見つめていると、視界の隅でリリーが勝ち誇った笑みを唇に浮かべているのが見えた。
――こうして、美百合はイドルディアから現代日本に帰って来たのだ。
7年という歳月を経て。
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