繰り返す日常

 伊千香いちかは俺と羽那子はなこに声を掛けた後、一人で階段を降りていった。

 冷静になれ、落ち着け、考え過ぎるな。

 この流れは一度経験しているじゃないか。

 俺が羽那子を初めて見た朝。その繰り返しだ。

 俺が話した内容が違うから、二人の言動が多少変わってはいるが、間違いなくあの日の朝のやり取りだ。


 俺がこの世界の伊千郎いちろうと入れ替わったのではないかという仮説。

 その仮説を元にして全ての可能性を捨てず、今のこの状況を俯瞰で見つめれば、何か分かるんじゃないだろうか。


「いっくん、早く行こう?」


 セーラー服姿の羽那子を押し倒した格好のまま、じっと羽那子の顔を見ながら考え込んでしまっていた。

 慌てて飛び退く。


「いっくんは洗を洗って朝食を済ませてから学ランに着替えるんだよね」


 ほら、と手を取られる。手を引かれるがまま階段を下りて、洗面所へ向かった。


「歯磨き粉つけてあげよっか?」


「いや、一人で出来るから……」


「そ? じゃあ先に行っておくね?

 えーっと、今日はトーストと目玉焼きだからね。目玉焼きには塩コショウをかけて、コーヒーは何も入れずにブラックのまま飲むのが好きなんだよね-」


 独り言のように呟いて、羽那子はクルリと背中を向けてダイニングへ向かって行った。

 洗面台の鏡に映された自分の顔を見つめる。

 ボーッとした冴えない顔をしている。

 起き抜け、そして現在の状況についていけない頭。

 とりあえず脳を覚醒させる為に口をゆすぎ、歯ブラシに歯磨き粉をタップリとつけて咥える。

 シャコシャコと歯を磨く。メンソールのスッキリとした清涼感が鼻を抜けて脳を刺激する。


 伊千香は羽那子に対して怒りの感情を持っていない。

 羽那子は胸に包丁が刺さっておらず、痛みを堪えているようにも見えない。

 もしかして、あのやり取りは夢か?

 俺の体調不良を理由に勉強会を中断、美紀みきを連れて出て行った伊千香と羽那子。

 電気を消され、俺は目を瞑った。その後の出来事は、俺の夢だった?

 朝になり、羽那子はいつも通り自分の部屋のベランダから乗り越えて窓から俺の部屋に入って来た。

 そう考えると辻褄が合う、のか?


 口をゆすいでから顔を洗う。

 タオルで拭いて目を開けると、鏡越しに脱衣所内側のドアノブに目が行った。

 鍵。

 羽那子に風呂場へ乱入され、その翌日以降は閉めるようになった脱衣所の鍵。

 鍵……。

 俺の部屋の、窓の鍵。

 伊千香が幼馴染みの特権を妹権限で制限すると言って施錠した、窓の鍵。

 夜、伊千香が羽那子と美紀を連れて俺の部屋を出て行った以降の出来事が全て夢なのであれば、窓の鍵は掛かったままのはず。

 しかし、今朝羽那子は当然のようにその窓から俺の部屋へと入って来た。

 羽那子が言うところの幼馴染みの特権を使って。

 で、あれば。

 今朝現在では窓の鍵は開いていた訳で。


 いつのタイミングであの窓の鍵が開けられたのか。

 そして羽那子と伊千香の態度が至って普通な理由は何故か。

 俺の通常ではあり得ない予想が正しいのかどうかは、ダイニングで俺の目玉焼きに塩コショウを振っているであろう羽那子にある質問をすれば判明する。

 焦らず、不安を顔に出さず、努めて冷静に。

 ダイニングへ移動し、父さんと母さんにおはようと声を掛け、テーブルにつく。

 伊千香はすでに目玉焼きを食べ終えて、今はトーストを両手で持ってかぶりついている。

 ダイニングにいるのはこれで全員。


「はいどうぞ」


 羽那子が俺へコーヒーを渡してくれる。

 ミルクはいるか、砂糖は必要かなどは聞いてこない。


「羽那子、家には今誰がいる?」


「家? 二人とも仕事に出てったから、今は誰もいないけど?」


 今は誰も、いない。

 昨日、テスト勉強をする為に羽那子の家に泊まったはずの、美紀の名前が出て来ない。


 これでほぼ状況は理解出来た。

 仮説、俺はこの世界に転移して来た。

 その仮説を前提とした、新たな仮説。

 美紀が転校して来る日に、時間が巻き戻った。

 アニメや小説でよく見るあれだ、死に戻りってヤツだ。そうに違いにない。


「いっくん、今日は様子が違うね? 大丈夫?」


 大丈夫か聞きたいのは俺の方だ。

 お前が死んで、世界の時間が巻き戻ったのだ。

 俺の幼馴染みだというこの女の子。

 この女の子はこの世界の主人公なんじゃないだろうか。

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