ちづるの過去

溝口ちづるが公安五課に配属され情報担当となったのは少々特殊な経緯がある。


二年前のある日、下校途中のちづるは駅を走っていた。


令和の時代、公衆の女子トイレは滅多に使われない。一昔前、トランスジェンダーに配慮するため公共の女子トイレを肉体は男、心は女という人間が使えるようになった。


その結果、女子トイレでの痴漢やわいせつ事件が激増した。政策の中止を求める声が上がったが少数者の人権という言葉に逆らえる政治家はおらずトイレの問題は放置されていた。


そのため、女子は民間のコンビニやファミレスにかろうじて残る女子トイレを使うしかなくなってしまった。


だがその日に限ってどこも使用中。


勉強するためにお代わりしたコーヒーのせいか、いつもなら我慢できるのにちづるは今にも漏らしそうだった。


家を目指して細い手足を必死に動かし、大きな胸を八の字に弾ませて夕方の駅を駆ける。


だが膀胱の圧迫感は徐々に存在感を増し、尿道括約筋を締める力も限界が近い。


走ることさえ限界に近づいたちづるは、改札口近くに見えた公衆の女子トイレに反射的に駆け込んでしまった。


いやな予感はしたし、人気のない女子トイレは怖い。でもすぐに済ませるし、周りに怪しい男の人や女装していそうな人はいない。


だからきっと大丈夫、そう自分に言い聞かせて。


それがちづるの不幸の始まりだった。




その日の同時刻、宗徳はちょうど駅を制服姿で歩いていた。


 改札口の前で定期を取り出そうとした瞬間、彼の可夢偉が働いた。同時に顔色が変わる。


 あまりにも強い恐怖の感情が津波のように宗徳の脳を侵食していく。


考えるより先に体が動き、最寄りの女子トイレへ一目散に駆け込んだ。


「な、なによあなた……」


 中年の女性が明らかな男子である宗徳を警戒するが、事情を説明している時間が惜しい。


「すみません!」


女性を押しのけて、鍵がかかっている一番奥の個室を体当たりでこじ開ける。

「んー! んー!」


「な、なんだオメエ」


中には口元を手でふさがれた女子高生と、女性の服を着た人間が一人。


女子高生は涙目でもがいていたが、公安五課の制服を着た宗徳を見て安堵の色を見せる。


もう一人は化粧と髪型で一見女性に見えるが、口をふさいでいる手の筋肉はどう見ても男性だ。口ぶりも女性のものではない。


トランスジェンダーと言い張っているのだろうが、犯罪目的で心の性を偽っているのが明白だった。


「警視庁所属公安五課の者です。少々お話しよろしいですか?」


 公安五課に容疑者を現行犯逮捕したことを知らせ、女性警察官にちづるの保護を依頼してその場は終わった。


「おとなしくて抵抗しなさそうな女に目を付けた。それに学校に通える女が羨ましくて、そういう女を狙って乱暴しようとした」


という供述を後で聞き、宗徳は格差を理由にすれば何でもしていいという発想に改めて吐き気を覚えた。


 助けが早かったことも幸いし、幸いちづるは口をふさがれただけで終わった。


だが心の傷は深く学校に行けなくなり、引きこもるようになった。幸い令和初期のパンデミックで普及したリモート授業で単位を取ることはできた。


だが、それだけだった。


学校に行けず、外に出ることもできず。トイレさえ自室で済ませる娘の姿に両親はどんどんと疲弊していく。


ちづるは両親に対し申し訳なく思いながらも、外が怖い。トイレが怖い。その思いを捨てることができなかった。


転機が訪れたのは、事件からひと月が経ったころ。誰にも会いたくなかったちづるだが、自分を助けてくれた少年が訪ねてきたと聞いて会うことにした。


犯罪被害者の家を警官が見舞うのは時々あることだ。


助けられた時のことを思い出し、自分でも驚くほどにちづるはすんなりと少年を部屋に入れることができた。


カーテンも窓も閉め切ったよどんだ空気。


パソコンとリモート機器の光だけが支配する、薄暗い部屋。


そしてペットボトルから漂う尿臭。事件の日以降、自宅のトイレでさえ恐怖感を覚えるようになったちづる。


怯えるように千佳は宗徳の顔を見た。両親でさえ顔をしかめるこの臭い。


だが目の前の少年からは、自分に嫌悪するような色が一切ない。両親とのやりとりでそういった空気に敏感になっていたちづるは、そのことをすぐ感じ取った。


「いやじゃ、ないんですか~」


「何が?」


「ほら、この部屋の~」


「ああ、僕も仕事の時おしっこ漏らしたことくらいあるから。全然気にならないけど」


「おまわりさんがおもらしって~」


 自分でも驚くほどに、ちづるは笑いがもれた。


 少年があまりにも自然体だからだろうか? 向かい合っている間に気を張ってびくびくすることも、会話が途絶えて気まずい雰囲気になることも一切ない。


「あなたは~、他のおまわりさんとはまるで、違いますね~」


 両親の機嫌を取るためでなく、自然に笑えたのは何か月かぶりだった。


「また、お会い出来ますか~?」


 その言葉に、宗徳は微笑を浮かべてうなずく。


 ちづるの胸がとくん、と高鳴った。


その日から定期的に宗徳は訪ねてくるようになった。


 さらに千佳は少しだけ部屋から出られるようになり、両親と食事を摂れるようになった。両親の喜びはいかばかりだったろう。


 何度目かの宗徳の来訪時。彼は珍しく驚きの言葉を口にしたのでちづるは内心ガッツポーズだった。


「ちづる、なんだかいつもと違う?」


その日のちづるは髪を軽くセットし服装も整えて座っていた。それまでは勉強一筋でろくに髪も服も気を使わなかったが、なぜかだんだんと気になり始めたのだ。


「あ、ありがとう、ございます~」


 そう言われた時、ちづるは目の前の宗徳の顔を見られずうつむいてしまった。会う前は見たくてたまらなかったのに、いざ目の前にすると直視できない。


 その日の会話はずっと上の空だった。


だがずっと考えていたことだけは、自分から切り出すことができた。


「あなたと~、いっしょに~、働かせてくれませんか~?」


プログラミングで優秀な成績を納めていたうえに、すでに自分でもいくつかのソフト作成やホワイトハッカーを行っていたちづる。


彼女はすぐに公安五課に引き抜かれ、学業のかたわら情報担当として働くことになった。

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