第30話
*
八月の終わり、スマホの通知音で微睡から覚めた。窓の外はいつの間にか黄橙色に染まっている。
寝ぼけ眼をこすりながら画面を見た瞬間、心臓が強く波を打った。
スタンプが届いていた。決して可愛くない蝉のスタンプが。
気が付けば、僕は家を飛び出して電車に乗っていた。ずっと荒い呼吸に周りからは訝し気な視線を向けられたが、全く気にならなかった。
胸に抱えたキャンバスを持つ手が震えていることに気が付いて、ようやく自分が怖いと感じているのだとわかった。ずっと切望していたのに、いざこの瞬間が来ると真っ先に浮かんだ感情は嬉しいとか、喜ばしいなんてものじゃなく、恐怖だ。
彼女との思い出を掘り起こす程に胸懐が締め付けられる。彼女と巡った景色が次々と浮かんでは消えて、その度に苦しみが増した。楽しかった思い出も、ドキドキした思い出も、どんな時でも僕の景色の中心には彼女が居て、今はそれがたまらなく辛い。
それでも、僕は足を止めなかった。電車のドアが開いたと同時に衝動に身を任せて駆け出す。怖いけど、ただひたすらに会いたい。その透き通った瞳で僕を見てほしい。世界で一番の笑顔を向けてほしい。
病院に着いた時には、自分でも驚くほど落ち着いていた。息を整えて病室のドアを開く。そこに、彼女の姿は無かった。角部屋だ。間違えるはずがない。
ベッドに目を向けると、シーツが皺をつくっている。確かに彼女がいた痕跡があった。
急いで彼女に電話を掛ける。コール音がやたらともどかしく感じた。
『はーい。翔琉くん着いた?』
電話越しの彼女の声は間違いなく明るさに満ちていて、それだけで涙が出そうになる。
「着いたよ。どこにいるの?」
『んー? ちょっと風が強いね』
僕はキャンバスをベッド脇に置いて病室を足早に出た。
階段をひたすら上る。彼女はきっとそこにいる。だから、通話はつないだままだけれどそれ以上は何も聞かなかった。
屋上へ続くドアの向こうから、風切りの音が聞こえる。開けると、明かりが灯りつつある街を背景に、彼女がそこにいた。残暑というには夏の気配を残しすぎている最中、患者衣にコートを羽織っている。
開け放たれたドアが背後で風に押されて激しく閉まった。
彼女がゆっくりと振り向く。その顔を見た時から、足に力が入らなくて僕は立ち止まる。
かける言葉に迷っていると、彼女が先に口を開いた。
「やあ、待ってたよ」
視界の下半分が滲んで溶ける。頬を冷たい何かが伝った。顎先から垂れ落ちる雫を見て、ようやく自分が泣いているのだと自覚した。
「あれ? どうしたんだろう、僕……」
いくら拭っても溢れてきて、必死に止めようとするほどまるで決壊したダムのように量を増す。
ぼやけた視界で彼女が優しく微笑んだ。
「もー、どうしたの急に。何か悲しいことでもあった?」
まるで他人事のような彼女があまりにいつも通り過ぎて、終わりが来たんだと確信した。
「……涼音のせいだよ」
「えっ!? 私のせい?」
「そうだよ」
「あちゃー、男の子を泣かせるなんて罪な女だね」
「普通は逆なんだけどね」
彼女の指が、僕の目尻をなぞる。晴れた視界の中心で、彼女は笑っていた。夜空に浮かんだ一番星なんかよりもずっと輝いていて、眩しいくらい。
「私、一か月近くも眠っちゃってたんだね」
「……そうだよ。もう起きないかと思った」
「私は約束を破らないよ。だから、もう一度だけお姉ちゃんの身体を借りちゃった」
「でも、やっぱり辛いよ……」
無意識に出ていた言葉だった。僕よりも、彼女の方が何倍も辛いはずなのに。彼女が優しく目を細める。
「私はね、本当はすごく怖い」
「……えっ?」
それでも彼女は穏やかな表情をするから、ちぐはぐな様子に僕は戸惑った。
「この世界から居なくなっちゃうのも、お姉ちゃんを一人にしちゃうのも。……翔琉くんに忘れられちゃうのも」
「忘れるわけないじゃないか。こんなにも、僕は涼音のことしか考えていないのに……」
「そっか。じゃあ、ちょっとだけ怖くなくなった。ありがとうね」
彼女が無理をしていることはわかっていた。僕があまりに子供だから、感情の隠し方を忘れてしまったから、彼女がずっと微笑んでいるんだ。
「それなら、私という存在は翔琉くんの記憶にしっかりと残っていて、私の想いを受け継いでくれる人がいる。君にはどんな景色に見えているのかな? 私も、一緒の景色を見たい。そのためには、この身体は返さなくちゃ」
「でも、僕は涼音を失いたくない! 君じゃなきゃ駄目なんだ……」
「私は消えないよ」
彼女は静かに言った。
「私はお姉ちゃんの中で一緒に生き続けるの。お姉ちゃんが生み出した存在だけど、私は確かに涼音で、今は少し性格も違うけど、なんたって、私たちはいっつも一緒でお互いの考えることなんか全部お見通しな双子なんだよ?」
あまりに穏やかで、残酷な時間が流れる。でも、やっぱり彼女との時間は心地よくて、ざわつく胸中がゆっくりと静けさを帯びていく。
「お姉ちゃんもきっと、昔の様に戻れる。でも、それには病気の私がいちゃ駄目なの。だから、お姉ちゃんが私みたいにこんなにも幸せな女の子になれるように、引っ張って行ってあげられる人が必要。それは、君の役目。お姉ちゃんには、世界で一番素敵で幸せな景色を見せてあげてね」
いつの間にか、涙は止まっていた。彼女の笑顔にまた絆される。
「涼音は僕に浮気しろって言ってるのかい? こんなにも、僕は君のことが好きなのに」
「そうだよ。お姉ちゃんになら、二股大歓迎!」
想像したら、すごく滑稽で思わず笑いが漏れた。僕が笑えば、彼女も声を出して笑う。
「ね、抱っこしてよ」
両手を広げて彼女が言った。
「……いいよ」
「えっ、いいの!? いつも嫌だっていうじゃん!」
「今日だけ特別だよ」
腰を落として背を向ける。
「へへっ、やったね」
後ろから首に手が回り、背中に彼女の存在を感じる。あまりにも軽かった。健康的になりつつあった肌もまた雪のような白さに戻ってしまっている。
「お、重くないよね? 大丈夫だよね?」
ゆっくりと立ち上がる。彼女の温もりが暑苦しい夏の夜だというのに、心地よかった。
「軽すぎて心配なくらいだよ」
「そっか、これで重いなんて言われてたらどうしようかと思ったよ」
屋上から見る街並みはあまりに平凡で、ありきたりだ。でも、彼女が側にいるだけで、ずっとここにいて眺め続けたいと思わされた。
「夜の街ってのも、乙だね。いや、翔琉くんの背中からの景色が特別なんだね」
「僕はいつもと変わらない視点なんだけど」
「こんな可愛い子を背負ってるんだよ? 特別な思い出にしてほしいんですけど?」
首に回された彼女の腕に触れる。夏なのに、ひんやりとしていた。
「そうだね。一生忘れない……」
「私は重い女だからね。浮気は許さないし、いつも隣にいてくれなきゃ満足できないよ?」
「望むところだよ」
二人で笑い合った。静かな屋上に僕と彼女の賑やかな声だけが響く。
何てことのない夜景を二人で眺め、互いに他愛もないことを語り合う。時折、会話の端で感じる名残惜しさと愁いが胸をチクリと刺すけれど、それすらも二人で笑って思い出に変わる。時間なんて忘れて、ずっと話していたい。このまま二人の時間が続くなら、彼女と一緒にこの世界から消えてもいいと思った。
「そうだ。絵、描いてきたんだ。涼音に見せたくて……」
「おっ、ついに描けましたか。もう最後まで見せてくれないんじゃないかと思ったよ」
彼女をおぶったまま病室へと戻る。すっかり暗くなった外の景色に、やたら明るい照明が僕らを照らす。
彼女をベッドに降ろすと、その身体は力なくシーツの上へと倒れ込んだ。とっさに彼女の身体の下に腕を差し込んで支えた。心臓が早鐘を打つ。
「ごめんね。実は、さっきからずっと身体に力が入らないんだ……」
壁を背に彼女をベッドの上に座らせる。少し困ったように笑う仕草すら、僕には重々しく感じた。
「ほら、早く絵見せてよ! そのために目覚めたんだから」
こんな時ですら明るく話す彼女にまた救われた。いつも僕は助けられて、彼女から貰ってばかりだ。だから、最期くらい僕も彼女に届けたい。僕の世界を。
布にくるまれたキャンバスを彼女に手渡す。
「うわっ、思ったよりでかいね。これ何日かかったの?」
「十日くらいかな……」
「うひゃー、私なら五分で諦めちゃうよ」
そんな軽い言葉に合わせて、彼女はゆっくりと布を取る。そして、彩られた絵を見た瞬間、彼女の瞳に大粒の涙が滲んで、頬をなぞった。涙を拭うこともなく、絵を見つめ続ける彼女の顔はみるみるうちにくしゃくしゃになっていく。
「そっか、君だったんだね……」
優しく呟く彼女に、僕はどうしようもなく見惚れていた。
もしかしたら、昔に彼女が『宝物』だと言っていた絵に劣るんじゃないか、なんてことは考えていなかった。だって、僕が描いた絵に映る彼女は誰が見たって最高に輝いている自信があったから。
入道雲立ち上る青空に雪が舞う。どこまでも続くひまわりとスイセンに囲まれ、その中央で彼女は頬に涙を光らせながら溌剌な笑みをこちらに向けている。
多分、僕の人生で最初で最後の最高傑作。ただ一人の少女に向けて描いた、彼女が生きていたという証明。
「こんなところにあったんだね……」
「何が……?」
彼女がゆっくりと僕を見る。
僕が恋したひまわりのような笑顔を添えて――
「私の――最高の景色!」
僕は幸せだった。だって、彼女が最期にこんなにも幸せそうだったんだから。
――この日、世界から彼女は消えた。
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