5章
第27話
人生というのは、得てして思い通りにはならない。
彼女が検査入院をすると聞いた時、素直に思った。人格の入れ替わりが激しいから、一度医師の目の届く範囲で経過を見ましょうとのことらしい。
あの日以降、陽音さんが顔を出す機会はさらに多くなった。今では、週の半分以上が陽音さんになっている。
良い傾向だよ、なんて涼音は言っていたが、僕はやっぱり少し寂しい。僕が好きなのは涼音であって、陽音さんではない。言ってしまえば、好きな女の子の姉。ちょっと、詳しい事情を知っている他人だ。
一度、陽音さんと対話を試みたことがある。僕はもっと陽音さんのことを知りたい。きっと、同じような性格の僕らは話が合うと思う。
でも、結果は沈黙と無反応だった。そもそも、親である瑚春さんとも陽音さんは会話をしないらしい。事故の前は、そんなことは無かったと聞いた。だから、陽音さんはきっとまだ眠っているのだろう。今は無意識に顔を出しているだけで、人と関わりを持てるような覚醒はしていない。
それなら、タイムリミットまでは涼音に時間をあげてほしいと思ってしまうのは、お門違いなんだろう。だから、僕は彼女と過ごせる時間をより一層、大切にしなければならない。
終わりは考えないようにしていた。半分を姉に差し出したとしても、彼女が目覚めている時はずっと一緒にいればいい。
彼女の外出許可が下りる日は、毎日景色を探しに行った。幸いなことに学校は夏休みに入ったから、平日だろうがお構いなしだ。水族館、SNS映えするらしい夜都会の高いビル、珊瑚の欠片が散らばる純白の浜辺。手あたり次第、彼女と気の向くままに赴いた。
彼女に気持ちを打ち明けてからの日々は、毎日が色づいていて、見る世界全ての彩度が高く感じる。
筆も、徐々に進むようになり、下書きで終わることが無くなった。作品に色が付き、命が吹き込まれる。まだ、納得のいく作品が出来ているわけじゃないから、彼女には見せていない。
彼女には最高の僕を見せたい。だから、少しだけ焦っている。
どんなに楽しくて、充実した日々で、すべてが前向きになっているとはいえ、時間の進みは平等だ。八月に入り、本格的な夏の訪れに汗じゃない何かが滴り落ちる感覚に苛まれる。
バスの窓越しに遠くの方で、大きな風車が見えた。それとほぼ同時に告げられる目的地最寄りのバス停のアナウンス。
肩に寄りかかり、穏やかな寝息を立てる彼女を優しくゆする。
「涼音、着いたよ」
ぼんやりと瞳をうっすら開け、何度か瞬きを繰り返す彼女。
「んあ? もう、着いたんだ」
「ほら、降りる準備して」
彼女は一度、僕の肩を頬ずりしてから身体を起こして、大きく伸びをする。
バスがゆっくりと停止して、乗っていた乗客の大半が席を立つ。僕と彼女もその流れに沿って下車した。夏の容赦ない日差しと照り返す熱気に、ほんの一瞬で汗が滲む。
周りの視線が突き刺さる。気にはならなかったし、もちろん彼女も気にしていない。
「うひゃー、寒い!」
彼女はそう言ってマフラーを付けなおした。
「水分だけはしっかり取ってね」
「わかってるよ。この身体を熱中症にさせるわけにはいかないからね。でも、やっぱり寒い!」
長袖のセーター越しに両肩を掴んで震える彼女に、思わず笑みがこぼれる。コートは羽織っていない。彼女は心底、欲しそうだけど、やっぱりそうは言っても現実は炎天下だ。それをわかっているから、彼女も冬場にしては薄着の服装にとどめている。とはいえ、厚手のセーターにマフラーだ。逐一、彼女の様子には気に掛けるように心がけないとならない。
「下は長ズボンでも良かったんじゃない? 夏でも足出さない女性なんてたくさんいるし」
「私、女子高生だよ? 女子高生はいつ、いかなる時でもスカートなんだから、私服がスカートでもそこは何も問題なし!」
ひざ丈のスカートがひらりとなびく。
「何か、納得してしまった自分が悔しいよ」
「翔琉くんだって、スカートの方が嬉しいでしょ?」
「僕はどんな涼音でも好きだよ」
彼女の手を取って歩き出す。
「もー、急にデレてこないでよ。心臓に良くない」
頬を染める彼女に僕は笑みが自然と零れた。
下車した人の流れに沿って進むと目的の場所の入場ゲートへとたどり着く。夏休みだからか、家族連れやカップルなど結構な人で賑わっている。
「人多いねぇ」
「あんま知られていないらしいけど、地元の人には有名な場所だからね」
園内に入ると、一気に視界がカラフルになった。開けた場所に立ち並ぶ土産屋や露店、そして余した場所を埋めるように様々な花が花壇に植えられている。鼻腔を刺激する露店の甘ったるい香りが夏の湿った風に乗って漂う。さながら、テーマパークに来たみたいだ。
四季折々、いつ来てもたくさんの花に出会えるこの場所だ。きっと、彼女の瞳に映る花壇も冬場の枯れ草というわけではないだろう。
「おぉー! なんか想像していたのと違う!」
「多分、入り口のここだけだよ」
入場した人の多くは周りに目もくれずに奥の方へと歩いて行く。
先に進むにつれて道が狭くなり、まるで、御伽噺の世界に誘われるようなアーチ状の一本道を抜けて、視界が開けた瞬間、これまで幾度となく体感した感覚に襲われた。身体の底から一気に震えが込みあがり、頭の先を駆け抜けていく。息をするのも忘れ、ただただその広大さと美しさに意識を奪われる。
先の見えない一面の平原を、色とりどりの花の群れが隙間なく咲き誇る。目の前に広がる夢幻の色彩は、本当に別世界への門をくぐったようだ。強い風が吹くと、ベールのように一斉になびく様は圧巻で、思わず息を呑む。人工的な甘い香りが、いつの間にか花の蜜のかぐわしい匂いに変わっていた。
僕の手を握る彼女の力が少しだけ強くなる。そっと、彼女を見て安心した。僕と同様、言葉にならないといった様子で、いつものように景色に目を奪われながらそっと涙を流す少女が、そこにいた。
眼前に広がる花畑と同じ儚い気配が、彼女を包み込んでいる。
「綺麗だね」
「……うん」
「ね、翔琉くんにはあそこの場所は何の花が咲いてるの?」
彼女の指さす先は濃紫に覆われていた。淡い緑色の茎の先になる深紫の細い花穂。少し離れたこの場所まで、その強烈で甘く、爽やかな香りを運んでいる。
「ラベンダーかな? あんまり詳しくないから、あってるかわからないけど」
「良い匂いするでしょ?」
「多分?」
「じゃあ、ラベンダーであってるよ。私はね、あそこは赤と黄色のアイスチューリップが咲いてる」
僕と彼女は見ている景色が違う。それなら、言葉に出して瞳の映るものを共有すればいい。色んなところを巡り、僕と彼女が行き着いた結論だ。今は夏と冬。両極端な二つの季節を楽しむことが出来る。
でも、本心は違う。理由を付けて、気持ちを誤魔化しているに過ぎない。少なくとも、僕は。
「十二月だから、少し心配してたんだけど、すっごい景色!」
「ちゃんと花畑になってる?」
「うん! ビオラにパンジー。向こうのはサザンカかな? とにかく一面にたくさん咲いてる!」
名前が挙がった花は僕の視界には何一つ存在しなかったけれど、なぜかその花たちがこの広大な花畑のどこかに咲いている気がした。
園内は手前付近をたくさんの種類の花で埋め尽くし、さらに先へと進むと各区画ごとに一種類のみの花畑が大きく展開していた。もちろん、季節によっては花の咲いていない区画も存在するため、場所によってはガラガラのところも点々としている。
春の区画は様々な桜で、今は緑生い茂る清涼な空間になっていた。その隣にある秋の区画は彼岸花らしく、もうすぐ成長するであろう小さな芽が一面に根付いている。そして、春秋の通りを抜け、僕らの目的の場所となる。
道が三本に分かれていた。前を歩く人々は皆揃って右側の道へ。真ん中と左の道には、誰も行かなかった。それもそうだ。僕の視界には左の区画はしなやかに曲がった淡い緑色の草が生い茂っているだけだ。一方、右の区画は黄金色に輝く海のようなひまわりが、広がる大地を埋め尽くしていた。真夏の太陽がその花弁を照らし、まるで星のように輝いている。右の道に進めば、両脇をどこまでも続くひまわりの群れに囲まれる。この季節のメインスポットだ。
僕が右の方へ意識を寄せられる最中、彼女は左の区画を言葉が出ないといった様子で眺めていた。
「涼音には、何が映ってる?」
僕の言葉に彼女はゆっくりと腰を折って、しなだれる草の上、何もないところに手をそっと添える。
「一面のスイセン畑。これ、何本あるんだろう。先が見えないや。白と黄色の小さな花が、どこまでも続いてる……」
「そっか。さぞ、良い光景なんだろうなぁ」
想像してみるけれど、そもそもスイセンという花がどんなものだったか非常に曖昧な記憶で、創り上げた世界もぼんやりとぼやけた。
気になってスマホで調べてみた。曖昧というよりは全然違う花を思い浮かべていたことがわかって、自分の知識の無さが恥ずかしくなる。花に関しては、どうやら僕よりも彼女の方がずっと詳しそうだ。
「そっちはひまわり?」
「そうだね。すごい景色だ……」
「いいね、ひまわり。私、大好きだから見たかったなぁ。ちょっと残念」
来年、もう一度来ればいい。そんなことを言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
僕たちは誰も選ばない真ん中の道を進んだ。右にひまわり、そして左にスイセンと挟まれる長い道。背丈の高いひまわりが右を往く人々を隠す。距離も離れているから賑やかな喧騒も聞こえてこない。まるで、今この場所に僕と彼女だけしかいないように思わせる。
僕らはゆっくりと歩んだ。何気ない会話に花を咲かせながら、二人きりの時間を噛みしめるように。
不意に彼女が立ち止まり、僕を見つめる。
「そういえば、ひまわりの花言葉調べた?」
「いや、まだだけど」
「じゃあ、教えてあげるね」
彼女は僕の胸をトンっと指で突く。
「あなただけを見つめる」
きらきらと輝く瞳が、僕をまっすぐ見つめる。そして、柔らかく表情を崩して背景のひまわりに負けない眩しい笑みを彼女は浮かべた。
「そんな意味があったんだ。随分とロマンチックな花なんだね」
「そうだね。実際、プロポーズの時に一緒に送る花としても有名なんだよ。だから、翔琉くんが私の笑顔がひまわりみたいって言ったとき、すっごくドキドキしたんだから」
「でも、やっぱり違ったかも」
僕の言葉に彼女は顔をしかめる。
「え? それはプロポーズの宣言撤回ってことかな? 悲しいなぁ」
「そうじゃないよ。今、実際にひまわりと比較してわかった。涼音の笑顔はひまわりなんか目じゃないくらい綺麗で、力強くて、輝いてる。一目見た時から僕をずっと虜にして離さない最高の表情だ」
僕は指を四角折りにする。差し込んだ彼女は確かに冬の気配を帯びている。でも、その笑顔は季節関係なくいつも同じで、周りに明るさを振りまく。
右手が疼いた。この表情を残したい。僕の記憶にだけじゃなくて、色んな人に知ってもらいたい。だから、僕は描かなくちゃいけない。
今、僕が見ている最高の景色を――。
「翔琉くんも、良い笑顔をするようになったね」
「えっ? 今、僕笑ってた?」
「笑ってたよ。すっごく綺麗に」
無意識だった。だとすれば、彼女は本当にすごい。思わず吹き出してしまうような下手くそな笑みしか浮かべられなかった僕を、こんなにも成長させてくれたんだから。
「あ、雪だ」
彼女が呟いて、空を仰いだ。僕も空を見るけれど、雲一つない快晴だ。
「僕の世界は暑いから、羨ましいよ」
手のひらを広げて見えない雪を楽しむ彼女がほほ笑む。愁いを帯びた目尻がやんわりと垂れる。
「寒いのは得意じゃないから、私の方こそ翔琉くんが羨ましいよ」
スーッと大きく息を吸い込み、彼女はゆっくりと僕を見る。
「ずっと、普通になりたかった」
明るく聞こえる彼女の声に胸が痛く締め付けられる。
「涼音の辛さを、僕はしっかりとわかってあげることは出来ない。すごくもどかしい……」
笑顔を隠した彼女の表情が少し暗くなった。
「自分だけが皆と見ている景色が、感じる空気が違うんだって。別に最初はあまり苦じゃなかった。私は自分の見ている景色がとても美しいってわかってるから」
彼女がマフラーを乱暴に取った。汗ばんだ首筋が露わになる。
「でも、大好きな人たちが見ている景色が違うのが、どんどん耐えられなくなっていった。関わる人が増えれば増えるだけ痛みは大きくなっていって、そして、愛する人が出来てしまったとき、一晩中泣いちゃった」
から笑いをする彼女の瞳が滲む。
「私は翔琉くんの世界を知りたい。君にも私の世界を知ってほしい。……じゃないと、最高の景色を見つけたって意味が無いんだよ」
大粒の輝きが彼女の頬を伝った。その涙は止まることなく、彼女は顔を手で覆って慌てて隠す。地面に落ちる雫は土に吸い込まれ、確かな痕を残した。
僕は黙って彼女を抱きしめる。一人の少女が抱えた悲しみと苦しみが、小刻みに震える身体を通じて伝わって来た。
「翔琉くんはどんな景色を見てるのかな……。私も、君の世界が見たいよ――」
その言葉の吐露を皮切りに、彼女は赤子のように
どんな時でも笑顔を貫いていた彼女の素顔が見えた気がした。本当は怖くてたまらないはずなのに、度し難い理不尽を、抱えた不安と苦しさを周りに押し付けないように、彼女は絶えず笑顔を振りまいていた。それがどんなに辛いことか、計り知れない。
空を仰いだ。憎らしいほど青くて、澄んでいた。
頼むから、奇跡が起きてくれ。今すぐ、彼女の世界に僕を連れて行ってくれ。そう願わずにはいられなかった。
触れることが出来るのに、言葉を交わすことが出来るのに、僕と彼女は生きている世界が違う。こんなにも残酷なことがあっていいのだろうか。
救いようのない終わりを素直に受け止めるなんて、僕には出来ない。彼女にだって、そんなことが許されてはいけない。
「まだ、時間はあるよ。色んな所に行こう。まだ行ったことない場所はたくさんある。沖縄だって、北海道だって……。涼音と一緒なら、僕は世界の裏側にだって行ける。誰も見たことのない二人だけの景色が、どこかにあるかもしれない。だから――」
胸の中の彼女がゆっくり首を振った。その意味が、僕にはわかった。わかってしまったのだ。
「だからね、ありがとう……」
彼女の口にした感謝の言葉は、その夢を思い断つような意味だ。僕はまだ諦めていないのに。
彼女が僕の手をほどき、一歩距離を取って顔を上げた。突き放すように嫣然とした笑顔を僕に向ける。そして、もう一度。
「翔琉くん、ありがとう」
次の日から、雨笠涼音は眠りについて起きることは無かった。
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