第26話



 リビングの奥、畳の部屋に足を踏み入れた瞬間、線香と焼香の匂いが僕を迎えた。

 四畳ほどの小さな和室。その最奥に彼女はいた。漆塗りの仏壇。仏間の位牌の横に置かれた遺影に、溌剌としたひまわりみたいな輝かしい顔で笑っている。

 僕はゆっくりと膝を折り、彼女と向き合う。何度も、何度も見た笑顔だ。でも、初めて見る。だから、言葉に迷ったけど、考えないで思ったことを口にした。


「やあ、良い笑顔だね」


 もちろん、返事は帰ってこない。部屋の入り口で立ち尽くす彼女も無言を貫く。一人の少女が、僕の言葉を待っていた。


「僕は涼音にたくさんのことを教えてもらった。灰色に染まった人生に、涼音がペンキを落としてくれた。だから、僕は少しずつ変われていると思っている。まだ、相変わらず素直になれなくて、他人の目も気になるんだけど、今日は先生の話の途中で飛び出してきてやったよ。でも、僕の行動原理にはやっぱり涼音がいて、君がいないと、また元の自分に戻りそうになる……」


 飾らない言葉が、溢れ出す。紛れもない僕の本心で、とても弱い部分。

 いつの間にか、部屋の空気が暖かい。暑すぎず、寒すぎない。ついさっきまでは、扇風機が回っていたのに。きっと、瑚春さんが彼女のために――涼音が寒かったと言って帰ってきても、出ていった時のまま帰ってきても、どちらでも大丈夫なように調節したのだろう。


 写真の中の彼女を目に焼き付け、ゆっくりと現実と向き合った。

 いつの間にか膝折で座り込んでいた彼女は、うつむいていて表情が見えない。


「君は、陽音さんなんだね」


 彼女の肩がぴくっと震える。そして、首を振りながら「そうだね」と呟く。


「でも、涼音でもある」


 ゆっくりと顔を上げた彼女は、今までに見たことのない表情をしていた。眩しいほどに惹いてやまない瞳で、ひどく悲し気な表情。今にも泣きだしてしまいそうな、でも希望を携える、そんな哀歓を共にした気配。


「病室で目が覚めた時、すぐにわかったんだ……」


 彼女はゆっくりと語りだした。


「私だけど、私じゃない。全く一緒の身体と顔だけど、これは私が今まで隣で見てきた方だって。なんで? もちろんそう思った。だけど、私はお姉ちゃんのことなら何でもわかる。だから、すぐに気づいたよ。あぁ、これはお姉ちゃんなりの罪滅ぼしなんだって」


「罪滅ぼし……」


「お姉ちゃんは私が九歳の時、失季病になってからいっつも私に謝ってた。姉妹なんでも一緒なのに、私だけ元気でごめん、涼音は病院にいるのに私ばっかりお外に出てごめんねって」


 陽音さんの気持ちは、なんとなくわかる。きっと、陽音さんは涼音と出会う前の僕と同じような性格だったんだろう。僕は周りに抑圧され、そして陽音さんは自分自身で抑圧し、自分の感情に蓋をすることを覚えた。自分の考え方、気持ちは周りの人のためにならない。いつからか、そんな自己嫌悪を背負いだす。


「そんな風に考えなくていいのにね。私、お姉ちゃんが病室で日々の出来事を話してくれるのが大好きだった。お土産を買ってきてくれたり、写真を撮ってきてくれたり、涙が出るくらい素敵な絵を見せてくれたり」


 記憶が、溶けだした。

 山頂から町並みと広大な自然を眺め、悠々と筆を走らせる。初夏で緑掛かった景色が普通過ぎて、様々な色で木々を描く。こっちは桜の木で、こっちは紅葉。奥の方には雪の積もる枯れ木なんかも描いたりして、途中から景色なんて見てなかった。

 自由に、描きたいように。誰に伝わらなくても、これが自分の作品なんだって。でも、大人になるにつれて増していった同調の波に、僕という存在が盤面から消えていった。いつしか、瞳に映ったものしか描けなくなったことにすら気づけなくなったのは、いつだったろうか。


「そんなお話も、いつしか全くしてくれなくなった。その時、初めてお姉ちゃんの考えてることがわからなくなったの。お姉ちゃんは私のせいで変わっちゃった。だから、あの日も些細なことで喧嘩しちゃって……」


 目の前の彼女は、少し怒っているように見えた。


「私は助けたお姉ちゃんが、私の分まで生きてくれたら、それでよかったのに。でも、お姉ちゃんは後悔して、なんで私が生きてしまったのって思い詰めて、その結論がこれ」


「……二重人格」


 辛い現実と受け入れられない未来に直面し、殻にこもった少女。ただでさえ抱えていた罪悪感が拍車をかけた自己防衛のようにも感じる。


「何でも知っている私たちだから出来たこと。もちろん、私には生前の記憶なんてない。でも、わかるよ。私は紛れもなく雨笠涼音だって。私がお姉ちゃんを隣でずっと見ていたように、お姉ちゃんも私を隣でずっと見てきた。なら、この性格も何気なくしちゃう癖も感情の起伏も、全部雨笠涼音だよ」


 そう言って、彼女は眩しいほどの笑顔をつくる。本当にさっきまで向き合っていた写真の中の彼女と全く同じ、僕が心から惚れている表情を。


「でも、どうしてタイムリミットなんか……」


「私たち、寝る時間も起きる時間もずっと一緒だったの。目覚ましなんかなくても、二人して同時に目を覚まして、おはようって」


「じゃあ、病室で目を覚ました時から、陽音さんも本当は意識を戻していたの?」


 僕の疑問に、彼女は首を振る。


「お姉ちゃんはまだ眠っている。私だけを叩き起こして、どうぞご自由に使ってくださいって」


「だから、これが罪滅ぼし……」


 不器用で、本当に妹のことが好きだからとった行動。しかし、それはどちらにとっても残酷で、綺麗なものとは言えない。


「でも、そんなの私が許さないし、本人の身体だって許してない。事故から眠り続けた八か月。私が存在していられるのは、その空白の八か月間だけ」


 今一度、突きつけられる現実にボロボロの胸がさらに激しく痛む。


「だんだん、お姉ちゃんが戻りだしてるのを最近はひしひしと感じる。お姉ちゃんは嫌がってるんだろうけど、私はお姉ちゃんに生きてほしい」


「……」


「だって、もう私は死んじゃってるの。今、こうして話せて、涙を流せて、翔琉くんに会えていることが、奇跡なんだよ?」


 彼女は言葉を詰まらせる。そして、僕の顔色を窺うように続ける。


「本当は、最初はすごく打算的な考えだったの」


「打算的?」


「そう……。もし、私が消えてもお姉ちゃんの隣にいてくれる人をつくろうって。お姉ちゃんの気持ちがわかる人で、放っておけない優しい人を捕まえて、惚れさせてやろう。メロメロにしておけば、ちょっと性格が変わっても、きっとお姉ちゃんのこと見ていてくれるはずだって」


 彼女はひどく悲しい顔をした。後悔を含んだ哀色の表情。

 でも、僕は何も思わなかった。


「それでも、僕は涼音からたくさんのものを貰った。たとえ、それが含みのある打算だとしても、僕は君にたくさん感謝してる。それに、涼音はずっと打算で動ける器用な人間じゃないことも、よく知ってるよ」


 彼女の瞳がじんわりと滲む。


「なんだ、よくわかってるじゃん」


「当たり前だよ。ずっと見てきたからね」


「最初の数日で、もう無理だったよ。だって、楽しかったんだもん。そんな感情も、私はお姉ちゃんに残してあげたかったから」


 思い返すように見上げた彼女の虹彩がきらりと輝く。


「この半年、色んなことがあった。そんな気がするけれど、そうでもないね」


「そうだね。多分、ずっと覚えているんだろうけれど、特別なことは無かった」


「それでいいんだよ」


「わかってる」


「だって、楽しかったもん」


「僕もだよ」


「だから、これでいいの」


「これからも、ね」


 交互に、呟くように会話をした。まるでポップになって宙に言葉が浮かんでいるような気がする。小さな部屋が、僕と彼女の記憶で満たされていく。空白がもったいないから、埋めるように言葉を吐露する。

 とても温かい空間だ。


「ねえ、修学旅行のこと覚えてる?」


 彼女が言った。だから、僕も聞いた。


「どのこと?」


「……私が、翔琉くんを好きだって言ったこと」


 彼女が目をそらすから、僕は彼女を見続けた。もう、何かを考えて逃げるのは、やめにしようと思ったから。誰が見てるとか、先の後悔とか、そんなの全部どうでもいい。

 根負けした彼女がおずおずと目を合わせる。不安が混じる彼女の瞳が、今もまだ濡れているから、思わず笑った。

 彼女が不思議そうに首を傾げる。

 肝心なところで、彼女は僕のことをわかっていない。不安になる必要なんて、一つもないのに。

 僕が、彼女のことをどう思っているかなんて、誰が見たってわかる。だって、もう隠すなんて無理なくらい、この想いが大きくなっているんだから。


「――涼音、好きだよ」


 彼女の瞳孔が、縦に少しだけ細くなる。


「……えっ?」


 もう一度、同じ言葉で空白を埋めた。宙を漂うように彷徨った感情が、やがて彼女の隣にたどり着く。

 驚いて固まっていた表情が緩やかに融け出し、そして、彼女はゆっくりと涙を流して破顔した。

 そんな彼女がたまらなく愛おしいから、僕は何度も繰り返し気持ちをぶつけた。今までの分と、これからの未来の分を前借りして、何度も、何度も。

 行き場がなくだらりと垂らした彼女の手を取って、引き寄せる。胸に収めた彼女は思ったよりも小さく、そして温かかった。僕の熱が溶けて、彼女の熱と混ざり合う。聞こえてくる早い鼓動が、僕のものか、彼女のものか、わからない。

 最初は戸惑っていた彼女も、すぐに僕の背に手を回した。ギュッと彼女が力を込めるから、僕も少しだけ強く抱きしめる。

 このまま、時間が止まってしまえばいいと思った。でも、そんなことを僕も彼女も望まない。だからこそ、互いに深く今を刻み込む。


「えへへっ……ごめんね」


 彼女が横向きに呟く。その先にいるのは、溌剌な笑顔の小さな彼女。僕はその写真を手に取って、一緒に抱きしめた。


「あー、独り占めだったのに!」


 彼女が笑いながら不満の声を漏らす。だから、僕も笑った。


「そうだよ、僕の独り占め。だから、涼音が嫌だって言っても、絶対に離さないよ」


 彼女が嬉しそうに僕の胸へと顔をうずめる。


「翔琉くんは、やっぱりドSだよ」


「涼音の隣に陽音さんがいるなら、もう片方の隣は僕の場所だ。絶対に、誰が何といおうと」


「ふふっ、いいよ。私の大事な隣を翔琉くんにあげる」


 時間が許す限り、僕らは話し続けた。特別でも何でもない、ただの惚気た言葉を。

 玄関の開く音が聞こえるまで、ずっと二人の笑い声が家中を染め続けた。

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