4章

第22話

 記憶に残ることが色々と起きた修学旅行から一か月。

 僕の世界に初夏の訪れを感じ始める頃、涼音は一週間学校を休んだ。


 メールで直接理由を聞くと、少し体調崩したこと、もう一つ病院での定期検査とのことだった。

 僕はとにかく心配が先行して何度も、それこそウザいくらい容体や体調を確認した。そのたび、彼女はいつも通りの溌剌な文面で、蝉のよくわからないスタンプを付けて返信してくる。だから、僕もそわそわしたものの、そこまでの心配はしていなかった。

 彼女のいない学校はやたらと退屈だ。彼女が転校してくる前に戻っただけなのに、今では学校が物足りなく、僕にとってなんの生産性もない場所だとさえ思えてくる。

 この一か月、特に何も変わったことはなかった。修学旅行での一件を互いに触れ返すこともなく、土日は二人で出かけて、平日は学校終わりを一緒に帰宅するだけ。ただ、それだけなのに、どうしてか視界に彼女がいないと落ち着かなくて、授業もろくに頭に入ってこなかった。


「おはよー!」


 教室のドアがガラッと勢いよく開け放たれ、元気の良い挨拶と共に彼女が一週間ぶりに教室に姿を見せる。

 僕は彼女の姿を見るまでもなく、ほっと胸をなでおろす。そして、皆と同様に視線を彼女に向けて、一瞬にして現実に戻された。

 僕の世界で六月ということは、彼女の世界では今は十月だ。クラスの全員がワイシャツを半そでにするのと入れ替わりで、彼女は長袖のワイシャツを着ていた。スカートも夏用の薄手のものから、厚手のものに変わっているようだった。

 教室のざわつきもいつものことで、彼女はやっぱり何も気にしてなさそうだ。慣れというのは凄いことであって、その逆に恐ろしいことだとも感じた。人とは違うことに慣れるのは、すごく勇気がいることだと思う。

 でも、彼女は言っていた。自分の目に見えている世界を否定したくない、と。

 今の僕に、そんな勇気があるのだろうか。

 未だに絵が描けていない理由が、人と違うものを描くことに怯えているのだとしたら、僕は本当の弱虫だ。


「おはよっ、翔琉くん」


 定位置と言わんばかりに、彼女は僕の机に腰を降ろす。


「おはよう。体調は大丈夫?」


「問題なーし! と言いたいところだけど、翔琉くんにだけは話しておこうかなと思ってね。ホームルームまでまだ時間あるし、ちょっと人いないところで話そ」


 彼女の笑みが、いつもよりずっと薄くて、背中がぴりぴりと痛んだ。

 僕と彼女は教室を出て、屋上に向かう。

 屋上のドアを開けた瞬間、嫌な暑さが僕の身体を照らす。

 一面の青に早い入道雲が大きく主張するように天高く昇る。周りの山々は少し見ぬ間に青々と茂っていて、乾いた空気に汗が滲んだ。

 彼女が失季病だと告白した時期と、ほぼ一緒の六月の屋上からの景色。まだ凍てつく寒さの残る二月に、彼女はこんな景色を見て、体感していた。そう考えると、日照りも滲む汗もあまり嫌に感じなくなった。


「ふーっ、ちょっと寒くなって来たねぇ」


「僕は、今からすごく暑くなりそうだ」


「じゃあ、私が冬の涼しさをおすそ分けしてあげよう」


「どうやって?」


「こうやってだよ」


 彼女は僕の手を取って、包み込んだ。彼女の熱が確かに伝わる。


「ね、冷たいでしょ?」


「……うん」


 嘘をついた。彼女の手は僕の手と一緒で高い熱を持っている。でも、わざわざ事実を突きつける必要もない。


「翔琉くんの手は温かいね」


 彼女がぎゅっと握るから、僕も握り返した。どちらかが力を緩めれば、もう片方が離すまいと強く握る。


「私ね、これから少しだけお休み多くなるかも」


 彼女が唐突に切り出す。物寂しそうな表情を浮かべ、僕の手をさすりながら続ける。


「実はこの一週間、半分以上記憶が無いんだ……」


「それは、失季病のせい……?」


 彼女は首を振る。


「多分、違うと思う。でも、これまでも何度かあったの。翔琉くんといる時もね。それで、我に返った時、胸が痛くて、感情がぐちゃぐちゃになった後って感じで、すごく気持ち悪いんだ……」


 彼女は胸に手を当てて、掻き毟るようにワイシャツを乱雑につかむ。つくられたシワが形を残すように、記憶が無い時の感情も、確かに彼女の胸に残っているのだ。


「記憶のない時、どんなこと考えていて、どんなこと言ってるのか、覚えていないけれど、大体は予想が付くの。だから、翔琉くんにも謝っておくよ。ごめんね」


 僕は行き場を失った右手をだらりと力なく垂らす。


「謝る必要ないよ。謝られるようなことをされた覚えも、僕には無いから」


「翔琉くんなら、そう言ってくれると思ってたよ。ありがとう。でも、やっぱり他の人には見せたくないんだ。弱いところを見せるのは、家族と君だけで十分だよ」


「……僕は、涼音には眩しいひまわりみたいな笑顔でいてほしい。でも、それは僕の願望で。だから、僕は君のすべてを受け入れたい。……そう思う」


 僕は笑顔をつくる。それを見て、やっぱり彼女は可笑しそうに吹き出す。


「翔琉くん、やっぱり笑顔下手くそだよ。それにしても、ひまわりみたいか……。翔琉くんはひまわりの花言葉って知ってる?」


「知らないけど?」


 ホームルームを合図するチャイムが鳴り響く。

 彼女はいつの間にか、僕の好きな眩い限りの笑みを浮かべていた。


「じゃあ、今度調べてみなよ。ひまわりの花言葉」


「今、教えてくれたっていいのに」


「それは駄目ー」


 教室に戻ろうと、青空に背を向けた。


「ねえ、翔琉くん!」


 ドアの前で彼女に声をかけられて、振り返る。

 一瞬、冷たい空気が頬を撫でた気がした。


「あと少し、私のわがままに付き合ってね!」


 彼女は僕を指さして明るい声で放った。

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