夜のピクニック ふもっふ ⑭

 昼の名残の草いきれは、まだなかった。

 入梅間近のこの時期、多摩川の堤防を覆う草は濃さを増していたが、河川敷特有の青臭さはそれほどでもない。

 湿度は低く、カラッとした夜だった。


 川沿いのサイクリングロードを光点の列が遡上そじょうしている。

 二〇〇〇人の歩行祭参加者たちが手にするマグライトの光だ。


 スタートして一時間半。

 歩きなれていない者はすでに、下半身のあちこちが痛み出していた。

 まず股関節が痛み始める。

 もっとも多く稼働する関節であり、負荷も大きい。

 ついでウォーキングシューズにこすられ続けた足の裏や小指が、水疱マメを作り始める。

 運動部に所属していない生徒はそろそろ、歩行祭の過酷さを感じ始めていた。


「もう少しで休憩です。頑張っていきましょ~! お~!」


 そんな中、枝葉瑞穂はまだまだ元気いっぱいだ。

 体育では運動音痴の “周回遅れちゃん” として勇名を馳せている(?)瑞穂だが、今夜はひと味違った。

 ひとりで声援し、ひとりで右手を突き上げ応じている。


「枝葉さん、なんでそんなに元気なの……?」


 同じく運動音痴でこちらは早くもバテている安西 恋が、恨めしげに訊ねた。


「実は一週間前から毎晩お母さんや御近所の奥様たちと、ウォーキングで足慣らしをしていたのです」


 瑞穂曰く、毎日二時間。

 距離にして一〇キロほどモリモリ歩いて、今日のこの夜に備えてきたのだという。


「最初の一日二日は足が痛かったのですが、それ以降は足も慣れて、ご飯がとても美味しくなりました」


 持久走は苦手だが、歩くのは好きなのだという。

 だがそれだけではないだろう。

 恋は準備万端・疲れ知らずな瑞穂の背中に、恋する乙女の厚さを見た。


 ホイッスルが響き、実行委員が拡声器で『停止』の指示を伝えた。

 待ちに待った休憩だ。

 全員が『やれやれ』と舗装された土手の上に座り込む。


「足、どうだ?」


 志摩隼人が瑞穂の側にきて訊いた。

 瑞穂はシューズと靴下を脱いで、足の具合を確認している。


「まだマメはできていないようです。でも早めに絆創膏を貼っておくことにします」


 瑞穂はミッフィーの絵柄のついたピンクの絆創膏を、右足の親指に巻いた。

 人差し指と擦れて少し、赤くなっていた。


「これでよし――と。でも可笑しいですよね」


「? なにが?」


「足の指でも人差し指とか薬指とか呼ぶのって。さすがに紅差し指とは言わないですけど」


 瑞穂はそういってコロコロと笑った。

 その笑顔は痛いほど、隼人の胸に突き刺さった。


「……無理するなよ。別にリタイヤしたって構わないんだから」


 団体歩行を歩ききれば、この笑顔の先にいるのは自分ではない。

 女々しいとわかっていたが、隼人は瑞穂のリタイアを望んでいた。

 これまで瑞穂の幸福は自分の幸福だった。

 瑞穂が幸せなら、隼人も幸せだった。

 それがわずかの間にひっくり返り、今では瑞穂の不幸を望んでいる。

 自己嫌悪に陥りつつも隼人は、そんな自分を否定できない。


「心配すんな! もしもの時は俺たちが自由歩行まで担いでいってやるぜ!」


「おう、任せろ! 道行くんと歩く前にリタイアじゃ諸行無常するぎるからな!」


 豪放磊落に言い放ったのは大門勇大と早乙女月照の、クラスが誇るビッグマンズ。


 顔で笑って心で泣いて。

 入学以来、瑞穂に淡い恋心を抱いていた大門にしてみれば、秘めたる想いを美しい思い出に昇華させるには瑞穂を応援するしかない。

 あっぱれ。

 これぞ恋に不慣れな純情少年の心意気。

 ……なのだが、リンダが知れば『バッカじゃないの』と一蹴されるだろう。


 月照は純然たる親切心と、ちょっとの弄り。

 “道行くん” の名前を出したときの瑞穂の反応が面白くてたまらない。


「そ、そのときはお願いします (>_<)ノ」


 そうそう、これこれ。

 月照の期待どおり瑞穂は、真っ赤になった顔をクシャクシャっとさせた。


 瑞穂は汗で湿った靴下を新しいものと交換してから、スニーカーを履き直した。

 湿った靴下は皮をふやけさせ、容易にずる剥けにしてしまうのだ。

 靴下はデイパックに干しておけば乾くだろうが、物事に頓着しない瑞穂とは言え、さすがに汚れた靴下を下げては歩けない。

 最近になって年ごろの少女としての自覚が出てきたのはよい兆候だろう。

 畳んでビニール袋に入れると、丁寧にリュックの底にしまった。


「これでよし――です」


 あとはエネルギーと水分の補給だ。

 瑞穂はカントリーマアムの袋を取り出し、封を切った。


(子供のころはもっと沢山入っていて、ひとつひとつの大きさももう一回り大きかったですよね)


 などと、どこかの誰かさんと似たような感想を抱きながら、


「お母さんいかがですか~?」


 と周囲のクラスメートに声をかけた。


「あ、お母さんほしい!」


「わたしにもください」


 田宮佐那子や恋が手を伸ばした。


「代わりに」


「わたしのも」


 お返しに佐那子は、ファミマのチョコマシュマロ。

 恋は、小さなチョコパイを差し出した。


「チョコパイは大きすぎますよ。もうひとつどうぞ」


 小さなと銘打ってはいても、チョコパイはお母さんに比べて大きい。

 瑞穂がクッキー菓子をもうひとつ、恋に差し出した。


「ありがと~」


 瑞穂と恋のやりとりを見ていた佐那子が、


「ねえ、男子。チョコパイとエンゼルパイの違いわかる?」


 と、周りの男子たちに訊ねた。


「あ? 会社が違うだけで、中身は似たようなもんだろ?」


「エンゼルパイが森永で、チョコパイは明治だろ」


 大門がいい、月照が訳知り顔で答えた。


「チョコパイはロッテよ」


「あれ、そうだっけか?」


 首を傾げた月照の中では、森永も明治もロッテも大差ない。

 実家が仏寺の彼の家では饅頭まんじゅうは出てきても、チョコパイは出てこない。


「チョコパイはクリーム、エンゼルパイはマシュマロじゃなかったか?」


 隼人が瑞穂からもらったチョコクッキーを口に運びながらいった。


「お、さすが志摩くん! 正解! はい、ご褒美」


 マシュマロ好きの佐那子が、チョコマシュマロを隼人に差し出す。


「へえ、そうだったのか」


 カントリーマアムを一口にした大門が感心する。

 言われてみれば、そんな記憶がある。


「でもエンゼルパイって、チョコパイに比べて印象薄いよな」


「俺にとっちゃ、どっちも薄い」


 月照がやはりカントリーマアムを囓りにながらいった。

 彼の家では羊羹は出てきてもチョコレートは出てこず、餅は出てきてもマシュマロは出てこない。

 ちなみに月照がお返しに差し出したのは、餡がこれでもかと詰まった草餅だった。


 瑞穂はチョコマシュマロとチョコパイを次の休憩の楽しみに取っておいて、月照の草餅を頂くことにした。

 他の菓子と違い包装されてないので、すぐに食べてしまわなければならないのだ。


「うんうん、美味しい、美味しい」


 瑞穂は幸せそうにパクパクと、草餅を頬張った。

 疲れた身体には、やっぱり甘い物だ。

 全身に糖分が行き渡り、身体の重さが吹き飛ぶ気がした。

 瑞穂にならって草餅を選んだ佐那子と恋も、予想外の美味さに舌鼓を打っている。


「だろ、だろ。檀家の和菓子屋からの貰い物なんだ。老舗の有名店なんだぜ」


「お家がお寺だと、そんなよいことがあるのですね。いいな、お家がお寺」


「いや、そうでもねえよ。今はその檀家自体がどんどん減っちまってるからさ……」


 月照は今し方の仏寺の苦しい実情を、しんみりと語った。

 気の良い三人の女子は草餅をモクモクしながら、聞き入っている。


「……辛気くさい話」


 険のあるリンダの呟きに気づいたのは、口に残った菓子の味をミネラルウォーターで洗い流していた隼人だけだった。


◆◇◆


「ねえ、どう思う?」


「え~、違うでしょ。やっぱり」


「でも最近はべったりだよ」


「うん、なんかぐいぐい行ってるよね」


「じゃあ本命はなわけ?」


「「「えーーーーーーーっ」」」


 女三人集まればかしましい。

 クラスメートの女子たちが前を歩く対照的なふたつの背中を見て、ヒソヒソ話に花を咲かせている。


 ひとつはピンと伸びた、凜々しくも少女らしい華奢な背中。

 もうひとつは人生に疲れたサラリーマンのような、哀愁さえ感じさせる猫背。


 片桐貴理子と灰原道行はスタートからああして、ずっと一緒に歩いている。


「ど、同情でしょ」


「同情でできる? 年に一回の歩行祭だよ? 歩くなら絶対本命とでしょ」


「それじゃ、空高くんはどうなるのよ?」


「でも片桐さん、『空高くんと付き合ってるんでしょ?』って聞かれるたびにムキになって否定してたよ」


「そりゃお堅い片桐さんだもん。否定するでしょ」


「でも本当に付き合ってなかったら? 本当に好きなのがだったら?」


「「「……」」」


「――あ、ヘバってる。なんかヒィヒィいってる」


「体力ねー。情けねー」


「あ、励ましてる――うわ、自分のペットボトル差し出してる!」


「そこまでする!? 完全にカノポジ彼女ポジション!?」


と歩きたいから剣道部の娘たちとの自由歩行を断ったって話、本当かも」


「あ、遠慮してる。ビビってる」


「女にあそこまでさせておいて煮え切らねー、情けねー」


「それでも押しつける片桐さん。ぐいぐい行ってる~」


「マーキングだわ、マーキング。『これはわたしのもの』って知らしめてるわ」


「そして渋々飲む。マーキングされた~」


「おおっとぉ! ここで空高くんの乱入だ! さすがに黙って見ていられないか!」


「片桐さんは――ちょっと戸惑い顔!?」


「いや、あれは不満顔でしょ!」


は――ヘバってて、それどころじゃないっぽい。情けねー」


「さあ、盛り上がって参りました!」


「波乱の予感!」


「そしてキートン山田調に――後半に続く」


 ウダダ、ウダダ、ウダウダダッダ。



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