ふもっふ ⑤
どうにかこうにか機嫌を直し、灰原家を辞しかけた貴理子の前で、道行がスマホを耳に困惑している。
『あ、いや、別にそんなことは……』
とか、
『ほんとに怒ってねえし……そもそも悪いのは俺の方だし……』
とか、
『本当に気にしないでくれ――え? いいって、そんなの!』
挙げ句に、
『本当に、本当にいいって! 俺は全然気にしてねーから! 大丈夫だって!』
そして最後には、
『……はぁ、わかった……ああ、それじゃ詳しいことはLINEで……』
といって、通話を切った。
「誰から?」
溜息を吐く道行に、先ほどにもマシマシな不機嫌な声で貴理子が訊ねた。
「……あ、いや、別に」
「だ・れ・か・ら?」
一言一句、魂魄を込めてもう一度訊ねられ、道行は観念した。
「……枝葉さんだよ」
「はぁ?」
「……今日のお詫び。失礼な態度をとって悪かったって」
「なによ、それ!」
「……家に帰ったあと悶々と反省してたらしい。真面目な
「そんなの誤解する方が悪いに決まってるじゃない!」
貴理子は憤った。
なんて勝手な娘だろう――とも思った。
そんな娘をまるでかばっている道行にも腹が立った。
貴理子の道行への想いを知っている空高は、幼馴染みの少女に同情した。
貴理子にしてみれば、枝葉瑞穂は『いらない』といって捨てたものを『やっぱりいる』と、無邪気に拾い直したように見えたのだろう。
仕方なく貸してあげた自分の一番大切なものを、本当は絶対に貸したくなんてなかった宝物を、酷くぞんざいに扱われたように思えたのだろう。
空高は、貴理子が好きだった。
だからこれ以上幼馴染みの少女が取り乱す前に、割って入った。
「それで誤解は解けたのか? 一件落着?」
「あ……いや……今度また会うことになりそうだ」
ゴニョゴニョと答える道行に、貴理子は泣きそうになった。
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次の日曜日。
道行が目覚めてみると、空高はすでに外出していた。
前回は無頓着だった服を選んでもらおうと思ったのだが、昨日までに頼んでおかなかった自分が悪いので文句は言えない。
歯を磨き、顔を洗い、せめて寝癖だけは可能なかぎり直した。
ダイニングには両親がいたが、一言二言朝の挨拶をしただけで会話らしい会話はない。いつものことだ。
六枚切りの食パンを一枚焼いて、何も付けずに囓った。
インスタントコーヒーをいつもの倍の濃さで作って飲むと、ようやく頭がしゃっきりしてきた。
時計を見ると少し早いが、そろそろ出かける時間だ。
瑞穂との待ち合わせの場所は、先週と同じ最寄り駅の改札だった。
よくよく考えれば、休日に貴理子以外の女の子と会うのは初めてかもしれない。
だからといって心が浮き立つわけでもなければ、脳汁が迸るほど興奮しているわけでもない。
戸惑いと不安の方がよほど大きかった。
玄関で靴を履きかけて思いとどまり、もう一度歯を磨きに洗面所に行ったのは、そんな不安の表れだったのだろう。
道行にしては珍しく、一〇分前に待ち合わせ場所に着いた。
物臭な少年しては上出来だったが、上には上がいた。
先に来ていた瑞穂が、ロータリーを渡ってくる道行に気づき、何度も何度もペコペコと頭を下げている。
「お、おはようございます」
「……あ、ああ、おはよう」
「本日はお日柄もよく、わたしのわがままを聞いていただき、また先日はたいへん失礼な態度取ってしまい、何から何まで本当に申し訳ありませんでした」
「と、とりあえず、頭を下げるのはやめてくれ……なんか周りの目が痛え」
道行はキョドキョドと周囲を見ながら、瑞穂をなだめた。
日曜日だけあって、改札の周辺には待ち合わせが多い。
そういう人間たちが一時に顔を向けていて、特に同年代の少女からの視線が突き刺さるようだった。
心で考えるのではなく、頭で分析してしまうのが道行という少年である。
その道行が分析するに、傍から見て今の自分たちは、阿呆な男が彼女を責め立てているようにしか見えないだろう。
「え? あ、ああ! こ、これはすみません!」
と、またペコペコペコ。
「~~~」
道行は嘆息した。
「こ、これはお母さん様――ではなく、母からです! このたびは娘がたいへん失礼をいたしました――とのことです!」
そういって瑞穂は頭を下げたまま、菓子折の『とらやの水ようかん』を差し出した。
「ですが道行くんが甘い物が苦手な場合も想定して、こちらも用意してきました! 醤油の名産地、千葉県の野田市の名物野田せんべい『大川やのとね川』です! 一部では草加せんべいよりも評価の高い逸品です! どうぞこちらも、お納めください!」
「い、いやいやいや! さすがにそこまでしてもらうわけには!」
「いえいえいえ! それだけのことをしてしまったのですから!」
「いやいやいや!」
「いえいえいえ!」
「いやいやいや!」
「いえいえいえ!」
道行がどんなに遠慮しても、瑞穂は譲らない。
おっとりした外見に似合わず、頑固なところがあるらしい。
これでは千日手である。
「わ、わかったよ。ありがたく頂戴します……」
根負け……というか押し切られた道行が水ようかんとせんべいを受け取ると、ようやく瑞穂が顔を上げた。
瑞穂にしてみればお詫びの品物を受け取ってもらえて、初めて謝罪を受け入れてもらえたと思ったのだろう。
表情がほころび、彼女の最大の魅力である柔らかな笑顔が浮かんだ。
道行は……目を奪われた。
周りの視線が気にならなくなるほど、瑞穂は可愛かった。
ふんわりとした明るいグレー系のワンピースに、クリーム系のミリタリーベストと白いサンダルを合わせたシンプルなコーディネイトだったが、ボリューム袖が可愛く、ウェストマークが上なのでスタイルUPの効果もある――が似合っていた。
道行のあずかり知らぬところでリンダが選んだ物だったが、彼女の思惑がどうであれ、幼馴染みの魅力を最大限に引き出す組み合わせだったのは確かだろう。
瑞穂ひとりではこうはいかない。
実際、ミリタリーベストを買うといったとき瑞穂は、
『わたしは、サバイバルゲームはしませんよ?』
と、キョトンと小首を傾げたものだった。
「と、とにかく、俺もう全然気にしてねえから。かえって気を遣わせちまって悪かった。ようかんとせんべい、ありがとう――そ、それじゃ!」
少年が逃げるように少女に背を向けてしまったのは、常識をわきまえていなかったからではない。
彼だってこれだけの誠意を示された以上、このあとお茶の一杯ぐらいはご馳走して、歓談の小一時間もするのが礼儀なことぐらい理解している。
しかし、できなかったのだ。
少年は恐怖に駆られてしまった。
それがどういった種類の恐怖なのかはわからない。
神聖な存在に対する畏怖という表現が、あるいは一番近いかもしれない。
自己肯定感の低い道行には、瑞穂という少女は眩しすぎた。
しかしそうは問屋が卸しても、瑞穂本人が卸さない。
瑞穂は自分に背を向けて歩み去ろうとする道行のジャケットの裾を、ハシッとつかんでしまった。
なぜかはわからないが、ものすごい
そんなはずはないのに、前にもたびたびこんなことがあった気がした。
とにかく、ここで逃がしてはいけないと思った。
絶対にいけないと思った。
振り返った道行と、行かせまいとする瑞穂の視線が、合う。
「あ、あの………………どっか……行く?」
タジッ……と訊ねた道行に、瑞穂は形のよい小鼻をピスピスさせて、コクコクッとうなずいた。
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